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大東亜戦争(太平洋戦争)の真実

53凡人:2014/05/29(木) 12:29:11 ID:bwiS95oU0
横浜大空襲 煙る街 神奈川区の航空写真発見 【神奈川】
2014年5月24日Tokyochunichi

爆撃を受ける横浜市神奈川区の航空写真(同市史資料室提供)

 1945年5月29日の横浜大空襲で被害を受けた横浜市神奈川区の航空写真が、横浜市史資料室(横浜市西区)に寄贈された資料から初めて見つかった。かつて横浜に窯があり、空襲をきっかけに途絶えた「眞葛(まくず)焼」の研究家が、米国から入手した。7月まで資料室に展示されている。 (杉原麻央)

 焼夷(しょうい)弾が落とされた街から、煙が上がる。航空写真は、横浜の中心市街地に出撃した米軍爆撃機「B29」五百十七機のうち、東神奈川駅を攻撃目標とした機体に搭乗した元中尉が残した。写真右上に、横浜港の瑞穂埠頭(ふとう)と山内埠頭が確認できる。

 横浜で制作された眞葛焼の収集、研究をしている横浜市内の洋菓子メーカー社長山本博士さん(44)が昨年、米国のインターネットオークションで写真を入手した。空襲による眞葛窯の被害を調べる目的で元中尉に関する資料を落札したものの、「個人では生かしきれない」と寄贈した。

 横浜の眞葛焼は、一八七一年、京都の陶工・宮川香山(こうざん)が輸出向けの陶磁器を作るため、横浜市南区の敷地に窯を築いたのが始まり。精巧な装飾が特徴の作品は、外国で高評価を受けた。その後、横浜大空襲で三代目が死亡し、窯は損壊。多くの資料が失われた。

 三代目の孫にあたる会社員宮川眞(まこと)さん(50)=横浜市泉区=は「高校に通っていて無事だった父は空襲後、焼死した家族の骨を拾い集めた。職人も含め三十人くらいが亡くなった。当時の技術は伝承されなかった」と話す。

 山本さんは横浜駅近くで資料館「眞葛ミュージアム」を開いている。「眞葛焼は横浜が誇る焼き物。横浜大空襲で文化もなくなった」と残念がり、「寄贈した資料を見て空襲をリアルに感じ、戦争を考えるきっかけにしてほしい」と期待した。

 市史資料室が開催している企画展「B29搭乗員の資料から見た空襲」で、山本さんの寄贈資料が展示されている。七月中旬まで。

54凡人:2014/06/20(金) 03:39:24 ID:bwiS95oU0
アウシュビッツ元看守逮捕、米東部の89歳 独が逮捕状
2014.6.19 20:34 産経

 米司法当局は18日までに、第2次大戦でナチスのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の舞台となったアウシュビッツ強制収容所の看守だったヨハン・ブライヤー容疑者(89)を、東部ペンシルベニア州の自宅近くで逮捕した。AP通信が伝えた。

 ブライヤー容疑者は、1944年5〜10月にユダヤ人計21万6千人の殺害をほう助した疑いでドイツの裁判所から逮捕状が出ていた。認知症を患っているが、ドイツへの移送の可否を決める8月の審理まで拘束される。

 ブライヤー容疑者は母親が米国人。欧州で生まれ、未成年の頃にナチスの親衛隊(SS)に入隊した。逮捕前のAPの取材に対し、収容所の外部で任務に就いていたため、殺害には関わっていないと主張していたという。(共同)

55凡人:2014/07/01(火) 18:11:34 ID:bwiS95oU0
陸軍前橋飛行場伝える 71人の体験と共に
2014年07月01日 Yomiuri

陸軍前橋飛行場をめぐる体験記を自費出版した鈴木さん

 戦時中に特攻隊の訓練も行われた陸軍前橋飛行場(高崎市棟高町など)をめぐる71人の体験記を収めた書籍が、考古博物館「かみつけの里博物館」(同市)前館長の鈴木越夫さん(69)の編著で自費出版された。建設経緯や空襲被害のほか、コメの配給状況など貴重な記録も収録されている。

 出版されたのは、「陸軍前橋(堤ヶ岡)飛行場と戦時下に生きた青少年の体験記」(A5判490ページ)。旧堤ヶ岡村などにまたがる前橋飛行場は地元で「堤ヶ岡飛行場」と呼ばれ、航空要員の教育用として、1944年8月に完成し、特攻隊の訓練も行われた。

 鈴木さんは飛行場の兵舎を利用した中学校に通った経験があり、かみつけの里博物館長に就任した8年前、同飛行場の規模などを調査。投下された焼夷(しょうい)弾や、空襲などを予告した宣伝ビラ「伝単」の収集を進めた。

 本を刊行したきっかけは、昨年6月に同博物館で開いた郷土史講座。鈴木さんが同飛行場と伝単をテーマに講演すると、聴講者から「戦時下の体験を次の世代に語り残すことが大事」との意見が寄せられた。以来、住民に聞き取りをしたり、県内外の関係者に体験談の執筆を依頼したりした。

 書籍は資料編と体験記編の2部からなる。資料編には同飛行場の概要のほか、空襲の模様を伝える堤ヶ岡国民学校(現堤ヶ岡小学校)の当直日誌も掲載した。体験記を寄せているのは、米軍機の機銃掃射で頭に被弾しながら一命を取り留めた男性や、勤労動員で風船爆弾の気球の紙作りをした女性など様々。格納庫などを示す飛行場見取り図もある。

 鈴木さんは「単なる昔話として読むのでなく、場面状況や当時の空気、願いも読み取っていただきたい」と話している。

 2300円(税込み)。問い合わせは鈴木さん(027・373・2777)へ。

56凡人:2014/07/31(木) 11:35:16 ID:bwiS95oU0
伝承は生き残った者の義務…長岡空襲、8月1日で69年 新潟
2014.7.31 04:10 Sankei

 米軍による長岡空襲(長岡市)から8月1日で丸69年を迎える。死者約1500人など大きな犠牲の様子は、生き残った市民のまぶたに今も焼き付いている。来年の終戦70周年を前に、体験者に空襲当時を振り返ってもらった。記憶をたどるまなざしからは、次世代へと語り継ぐ使命感がうかがえた。

市街地8割焼失

 市などによると、長岡空襲は昭和20年8月1日午後10時半から翌日午前0時10分まで続いた。125機の米爆撃機B29によって16万3千発を超す焼夷(しょうい)弾が投下され、市街地の8割が焼け野原になり、1万1986戸が焼失した。

 市は空襲の犠牲者を「殉難者」と呼び、この1年で1人を新たに認定し、7月25日現在、1485人となった。今年も8月1日、投下開始時刻に合わせて慰霊の花火「白菊」を上げる。

 長岡空襲時の遺品などが展示されている長岡戦災資料館(同市城内町)には、平成15年の開館以来、年間2万人前後が訪れる。

 運営ボランティアの山谷(やまや)恒雄さん(82)は空襲時13歳で、県立長岡工業学校(長岡工高の前身)の1年生だった。東弓町(当時)の自宅で期末試験の勉強中にB29の轟音(ごうおん)がし、外に出ると南方の宮内駅方面が真っ赤に燃えていた。

 「ザーッと夕立のような音が聞こえた。全部自分に降りかかってくる感じで、恐怖に襲われ家に駆け戻った」と山谷さん。焼夷弾の音だった。きょうだい4人で近くの防空壕(ごう)へ避難したが、30分もたたずに煙が漂い、防空壕を出て家の向かい側に移動した。午後11時半すぎ、家に焼夷弾が直撃、燃えるのを呆然(ぼうぜん)と見つめた。

伝え方模索

 山谷さんや長岡戦災資料館の初代館長、古田島吉輝(こだじま・よしき)さん(78)らは現在、市内外の小中学生や教職員らに体験談を聞かせている。25日も平和教育研修で資料館を訪れた県教職員組合の各支部書記長らに語った。受講した8人は30、40代で、数年後には再び教育現場に戻る。山谷さんは「空襲の悲惨さや平和の大切さを語り継ぐのが使命」として空襲の詳細を丁寧に伝えていた。

 古田島さんは9歳だった自身の体験談以外にも、16歳の少年が家族6人の遺体を荼毘(だび)に付した話をした。「話す相手が例えば小学6年生だったら、どの教材を取り上げ、子供たちに印象を残すのは何かと今も模索している」という。

 長岡空襲殉難者遺族会会長の新井淳夫さん(80)は千手国民学校6年生だった。郵便局長をしていた父、乕男(とらお)さん=当時(55)=と姉の羊子(ようこ)さん=同(13)=を空襲で亡くし、生き残った母と一緒に2人の遺体を運んだ。

 「『淳夫は足を持て』といわれた。父ちゃんや羊ちゃんの遺体を持つことで重さが分かる。そうすることで今までの生活はないと体感させたかったのかな」

 新井さんは父と同じ郵便局長を68歳まで務めた。以前は空襲について話してほしいと依頼されても「思い出すのもつらい」と断っていた。だが、60歳になり、「生き残った者の義務だ」と悟ったという。

 資料館では殉難者のうち313人(25日現在)の遺影が展示されている。空襲で焼失した建物を赤色で示すなど色分けした「住宅焼失地図展」も開催している。両展とも8月31日まで。問い合わせは(電)0258・36・3269。

57凡人:2014/10/25(土) 06:19:05 ID:ve6M5DlE0
特攻70年:「特攻は日本の恥部、美化は怖い」 保阪正康さんインタビュー
2014年10月24日 Mainichi

インタビューに答える評論家の保阪正康さん=東京都千代田区で2014年10月15日、内藤絵美撮影

特攻隊最後の無電を必死で受ける電信兵=撮影場所不詳、1945(昭和20)年4月、早川弘本社特派員撮影

 特攻とは何か。特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点というノンフィクション作家、保阪正康さん(74)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

       ◇        ◇

 ある元海軍参謀にインタビューをした際、戦時中の個人日誌を読ませてもらったことがあります。特攻隊についての記述があり、「今日もまた、『海軍のバカヤロー』と叫んで、散華する者あり」と記してありました。部外秘の文字も押されて。この元参謀によると、特攻機は離陸した後はずっと、無線機のスイッチをオンにしているそうなんですよ。だから、基地では特攻隊員の“最後の叫び”を聴くことができた。「お母さーん」とか、女性の名前もあったそうです。「大日本帝国万歳」というのはほとんどなかった。ところが、そうした通信記録は残っていない。故意に燃やしてしまったに違いありません。“軍神”が「海軍のバカヤロー」と叫ぶ。それは当局にとって、隠蔽(いんぺい)すべきことだったでしょうから。

 高校時代に「きけわだつみのこえ」を読みました。それが特攻隊について、考えるようになった契機です。その後、生き残りの隊員や遺族らに取材を重ねてきました。学徒出陣した上原良司氏(陸軍大尉。1945年5月、沖縄で戦死)の妹さんは、兄と仲間たちの会話を手帳に残していました。彼らは「向こうの奴(やつ)ら(=米軍)何と思うかな」「ホラ今日も馬鹿(ばか)共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」と言い合っていたそうです。取材後の彼女の何気ない言葉は重く、響いています。「指揮官たちは『後に続く』と言いながら、誰も飛び立たなかったそうです。その言葉を信じた兄たちが事実が分かったら、どんな気持ちになるでしょう」

 高級参謀をはじめ、日本の職業軍人とは何者だったのでしょうか。英国は階級社会ですが、国を守るという点では王族・貴族もありません。戦争で死ぬということについて、平等性がある。戦争に貴賤(きせん)なしです。日本でも高松宮さまなどは前線勤務を希望していたようです。ある陸軍大学校出身の元参謀には「息子を入学させるなら、陸大だよ」と言われました。彼の同期50人ほどのうち、戦死は4人だけだったそうです。エリートは前線に行かず、戦争を美化するんです。

 兵士への危険負担を限りなく、低くすることが本来の指揮官の役割です。国民的バックグラウンドの下で、西洋の民主主義国家にはそれがあった。彼我の戦力を客観的に分析する。物量主義も、兵士を死なせないためにあるんです。日本にあったのは生煮えの軍事学です。仏独に学んだ上っ面だけの西洋軍事学に“日本精神”である武士道を乗っけた。「武士道と云(い)ふは死ぬこととみつけたり」(「葉隠」)の文言だけを取り出し、都合良く利用した。

 特攻は日本の恥部です。命を慈しむ日本の文化や伝統に反することです。命中率99%であったとしても、だめなんです。志願を建前としていましたが、実際には強制でした。本人が望んでいない死を要求し、死なせる。こんなものは軍事ではない。国家のため、大義のためという、自己陶酔でしかない。戦争とは人の生死をやり取りする闘争です。ロマンなどないんです。特攻は米軍に畏怖(いふ)心を与え、日本本土上陸をためらわせた−−との説がありますが、とんでもない。米軍は暗号名「コロネット」「オリンピック」などの上陸作戦を着々と準備していました。一方の日本軍は「義勇兵役法」で国民の根こそぎ動員を決め、1億総特攻に駆り出そうとしていた。国民一人一人が特攻要員だったんです。

 「特攻隊員は我々である」との視点が必要です。あの時代に生きていれば、あの時代が繰り返されれば、自分も特攻隊員になるかもしれない。特攻を考える時、必要なのは同情ではなく、連帯感です。隊員の苦衷、苦悶(くもん)が分かれば、美化することなどできないはずです。「特攻で死んだ人に失礼ではないか」「彼らのおかげで今の日本がある」などと言ってくる人がいます。どうして、そんな軽々なことを言えるのか。特攻を命じた指揮官たちと変わりませんよ。

1-2

58凡人:2014/10/25(土) 06:21:07 ID:ve6M5DlE0
 クラウゼビッツ(プロイセンの軍事学者)は戦争を「他の手段をもってする政治の延長」と位置付けました。本来は政治こそが、軍事の上になければならなかった。日本が陥った軍部独裁は政治家たちだけの責任でもありません。国民も軍をもてはやし、甘やかした。勝つことこそが軍の目的ですから、負けると分かっても戦争をやめることなどできなかった。行き着いた先が特攻です。

 特攻について、時に涙が止まらなくなるほどの感傷を持っています。それとともにわき上がるのは軍への怒りです。この二つがあってこそ、特攻に向き合えるのではないでしょうか。どちらかに傾いてもいけない。特攻は時代を測るメルクマールだと思っています。いたずらに美化することは非常に怖いことです。集団的自衛権によって、自衛隊が海外派兵される可能性が高まっています。良くも悪くも、軍隊というものには国民性が表れます。今こそ、旧軍について、十分に検証すべきです。それが無くては、特攻というシステムを採用するような組織が再び、生まれてしまうかもしれません。

 ◇ほさか・まさやす
 1939年、札幌市生まれ。74歳。同志社大文学部卒。出版社勤務を経て、著述活動に入る。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。長年の昭和史研究で2004年に菊池寛賞を受賞した。

2-2

60凡人:2014/12/11(木) 00:58:00 ID:da95RwFo0
この映画は主人公の本人が存命中に、しかも制作に直接参加して生まれた。アンジェリーナ・ジョリーはアメリカ人はもとより世界の間で女優などの映画人と同時に人道家として広く知られている。アジア系や黒人系の孤児を養子に取り、旦那のブラット・ピットと共に、わが子として育てていることも事実である。この映画を「だだの作り話」とまったく否定している日本人の厚顔さや醜さ。日本人の発言がいかに信憑性がないか、世界に宣伝しているようなもの。ドイツと違い、太平洋戦争を美化や浄化に必死になっている日本人の姿が、ここでも浮かび上がっていて面白い。
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'Unbroken' causes outrage in Japan as right-wing ultra-nationalists label Angelina Jolie a racist
Calling the biopic of American Olympic runner Louis Zamperini, who spent two years in Japanese POW camp, 'a pure fabrication,' nationalists say that the war hero's account of torture at the hands of his captor has never been verified.
Tuesday, December 9, 2014, 12:39 PM BY Ethan Sacks
NEW YORK DAILY NEWS

Universal Pictures Japanese right-wing nationalists are up in arms over depictions of torture in the Angelina Jolie-directed biopic, ‘Unbroken.’

Angelina Jolie’s WWII drama “Unbroken” has drawn fire from the Japanese.

Right-wing nationalist groups in the Asian country have slammed the upcoming biopic of Olympic runner Louis Zamperini over its depiction of the torture he endured during his time in a Japanese prison camp ― and labeled Jolie, the film's director, a racist.

At the center of controversy are the sequences in “Unbroken” of Zamperini’s beatings at the hands of an Imperial officer named Mutsuhiro Watanabe ― played by Japanese pop star Miyavi. The emotionally tough scenes are taken straight out of Laura Hillenbrand’s biography of the same name and based on Zamperini’s own account.

“It's pure fabrication," Hiromichi Moteki, the secretary general of the Society for the Dissemination of Historical Fact, told London’s Telegraph.

"If there is no verification of the things he said, then anyone can make such claims," he added. "This movie has no credibility and is immoral."
The movie is based on the biography of the same name about real-life Olympian and war hero, Louis Zamperini, who was tortured by Japanese officers during a two-year ordeal in a POW camp. Universal Pictures The movie is based on the biography of the same name about real-life Olympian and war hero, Louis Zamperini, who was tortured by Japanese officers during a two-year ordeal in a POW camp.

Commentors on social media have called for the government to ban Jolie from entering the country in the future.

Zamperini, who died in July, was a crewmember on a warplane that crashed in the Pacific in May 1943 and drifted in a raft for 47 days with one other survivor before being intercepted by a Japanese warship.

His hellish ordeal as a POW lasted until V-J Day in August 1945.

Miyavi himself has was devastated by the experience of filming the infamous camp scenes.

"It was awful torture for me to hate the other actors," he told Vanity Fair. "I had to have hatred for them. When I had to beat them, I had to think about protecting my family.

"At the same time, I didn't want to be just a bad guy. I wanted to put humanity in this role. (Mutushiro) was both crazy and sadistic, but also weak and traumatized."

61凡人:2014/12/12(金) 12:05:57 ID:ve6M5DlE0
ビジュアルアートや映画に興味がある凡人にとって、表現に極度の限界のある俳句の世界には興味が沸かないが、金子氏の言葉にある、太平洋戦争当時の日本人がとった行動への意見にとても興味をもった。
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【終戦記念日対談 金子兜太×いとうせいこう】
<戦前の空気に抗って>
2014年8月15日 東京中日

 69回目の終戦の日にあわせ、俳人の金子兜太(とうた)さん(94)=写真(左)=と作家のいとうせいこうさん(53)=同(右)=が対談した。海軍主計大尉としてトラック島で敗戦を迎えた金子さんと、東日本大震災を題材とした小説「想像ラジオ」が大きな共感を広げたいとうさん。俳句をテーマにした共著もある旧知の二人に、5・7・5の17文字がつくりだす小宇宙を手掛かりに、戦争と平和、社会を覆う空気などを縦横無尽に語り合ってもらった。

権力に 寄り添う構図 繰り返し

 ともに伊藤園の新俳句大賞の選考委員を務めた縁で、俳句の新潮流について語り合った対談本「他流試合」(二〇〇一年)がある二人。再会のあいさつもそこそこに、金子さんは、さいたま市の公民館が九条を詠んだ市民の俳句を掲載拒否した問題についておもむろに切り込んだ。

 →九条俳句掲載拒否 月報に俳句を載せなかった三橋公民館は「世論を二分するテーマはそぐわない」。

◆自由を毛嫌い

 金子 <梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>。これを出す出さないでもめているんですね。これについて、あんたに聞いてみたいんだけど。

 いとう こういう自粛という形が連続している。下から自分たちで監視社会みたいにして、お互いを縛っていく。戦前は上から抑え付けられたように戦後語られてきたけど、本当はこうだったんだろうと。

 金子 やっぱり、そう言ってくれますか。(満州事変から始まる)十五年戦争の体験者なんだけどね。旧制高校に入ったころに中国との戦争が始まって。そのころの空気の中で、官僚とかお役人とか、いわゆる治安当局が、こういう扱い方をした。あのころは治安維持法が基準ですが。みんな自分たちでつくっちゃうんですよ。

 いとう 國分功一郎さんという若い哲学者が著書の中で、こういった下からの抑圧の問題を言っているんですね。自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう。だから自由っていうものを背負うことをもっと楽しめる社会にしなければならないというふうに彼は言っていて。

 →國分功一郎(こくぶん・こういちろう) 哲学者、高崎経済大学准教授。著書に「暇と退屈の倫理学」(朝日出版社)など。

 金子 戦前、新興俳句運動っていうのがあったんです。渡辺白泉の<戦争が廊下の奥に立つてゐた>は今でも有名です。その連中が、日華事変開始の三年後に、かなり勾留されるんですよ。司直の手に挙げられるわけです。その火つけ役がね、今ちょうどあんたが言ったようにね、(俳壇内部から)新興俳句運動なんてやつはうるせえと、いい機会だから追っ払っちまえと動いた者がいたと聞いています。「京大俳句」なんかは十五人も捕まったわけです。風潮を利用するという傾向が今また出てきているわけですな。

 →新興俳句運動 高浜虚子が言う花鳥諷詠(かちょうふうえい)だけでなく、社会の現実をとらえようという革新の動き。

 →渡辺白泉(はくせん) 京大俳句事件で摘発され、執筆禁止。その後、俳壇との交流を断った。

 いとう 一気呵成(かせい)にここまでオセロのようにひっくり返っていくかというような感じがしています。もちろんそれに抵抗する人たちも必ずきちんといる。前回の戦争の教訓が生きていると信じたいので、あるとは思いますけど、ちょっと目立たないというか。僕はメディアの中にいる者としては心掛けてはいるんですけれども。でも、やっぱり兜太さんとかが、この光景は実際にもう見たよという方が一番説得力がある。

 金子 十五年戦争で拝見済みということで。それはね、私はこれから大いに言おうと思っているんです。
1-4

62凡人:2014/12/12(金) 12:11:21 ID:da95RwFo0
 いとう 十五年戦争の場合は、そういう雰囲気になってから、ほんの数年で戦争になった?

 金子 そうです。俳句弾圧は昭和十五年。日米開戦はその翌年の暮れ。「京大俳句」に続く新興俳人の拘引、これを俳句事件と呼んでいるんだが、私の属していた「土上(どじょう)」という俳句雑誌があったのですが、主宰の嶋田青峰先生なんかも獄につながれるわけです。ところが尋問中に喀血(かっけつ)しましてね。家に戻されてた時期があって、ちょうどそのときの青峰先生に会っているんです。その後間もなく他界しましたがね。この人がボソボソボソボソ言っていたことも思い出しますけどね。治安維持法が過剰に使われた。何とかこういうことはいろんな形で訴えていかにゃいかんと。

 いとう 特定秘密保護法を見たときに治安維持法だと私は思いました。目立つところで言うことを聞かなさそうな人たちを引っ張っていく、ということが既に始まっているんだという実感はすごくある。デモなどでもそこまで勾留するに値するかなと思われるような人が、いなくなったまま、まだ勾留されていたりとかですね。先ほどの下からの自粛と同時に、大きな権力に便乗するような欲望が動いて、結局はみんなで権力をつくっていく。特に自分たちが得もしないであろう人たちがそれをやって、他人の自由や良心を手放させていくことに快感を覚える時代になっちゃっている。

 金子 そうそうそう、誇り顔をしてね。

 いとう 十五年戦争の前に、個人的な誇りが持てないような時代が来てたわけですか。何か違う形で取り戻そうとするような形でそんなことが起こったという感じなんですか?

 金子 そうですねえ。私の狭い田舎の例で言うんですけどもね、秩父という所に育ちまして。山国なもんですから、繭が命の中心だったんですね。ところが繭の値が下がってましてね。世界恐慌の影響でもってね。ちょうど満州事変が始まったばかりでしたけど、戦争に勝てばね、楽になるんだということをしきりに言ってましたよ、みんな。私はちょうど中学生で、戦争に行く時は勝って、この人たちを楽にしたいと、そんな気持ちでいたわけですよ。国のために戦え、国もおまえも楽になるというご託宣がひどく影響力を持つわけです。そうすると学校の先生の中などにも、得意になってそういうことを言うのが出てくるわけですな。一種の便乗派というか、そういうものが露骨だったのを今でも覚えていますよ。

 →世界恐慌 1929年発生。高関税など自国産業保護の経済政策が広がり、第2次大戦の一因となった。

◆論理 粗雑すぎ

 いとう それで自己満足していく。

 金子 中学の終わりの時に二・二六事件が起こりまして、中学生はかなり肯定的に受け取った。若い軍人がよくやったという気持ちで受け取らされた。ああいうのが怖いですな。やっぱり、分かる人はちゃんとこれは駄目なんだと言わないといけない。

 →二・二六事件 1936年2月26日、陸軍青年将校が首相官邸などを襲撃し、要人を殺害した。

 いとう 思い付く限りの言葉はなるべく言い、伝えるようにはしていますけど、非常にこう有効な、つまり、一番ここを突けばいいだろうという言葉がなかなか見つからない。なぜかというと、起きていることがあまりに非論理的だからですね。内閣だけで憲法の実質的な変更を決めてしまうことも、法の論理として見てみると非常に粗雑ですよね。

 金子 粗雑です、粗雑です。
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63凡人:2014/12/12(金) 12:13:28 ID:da95RwFo0
 いとう 法を扱う人たちの論の立て方ではない。でも、知性というものが世の中を駄目にしている、というような不満がある人たちの気持ちを利用しているので、理性でそれを批判しても嘲笑で終わらされてしまう。上手に言うことができない。もちろんそこでより有効な言葉を探すのが、文学者の仕事なのですが。

 金子 せいこうさんの小説「想像ラジオ」を読んで、今の話とかかわってくる印象を持ったんですがね。東日本大震災だけに問題を限定しているのではなくて、それを含むもっと大きな現実の中で生きている一人の人間として、いとうせいこうは戦っていると。散文詩としての美しさがあって、一気に読んだ。

 いとう 宇宙的な何かとか、歴史的な何かとか、大きなものとつながるようなフィクション(虚構)を有効に使わなければならないと考えた。最近「三田文学」というところに百枚ぐらいの短編を載せているんですが、伯父のような人と主人公の関係なんです。先ほどの金子さんとの話と重なり不思議だと思ったんですが、両親が信州の人間という設定なんで、繭の問題が出てくる。繭で日本が豊かになったけれども、世界恐慌で一気に不況になった。日本全国で一番の輸出産業だったわけですから、これがなくなったことから戦争に進む雰囲気になったと語る伯母のシーンがある。そこから飛んで二十世紀末ですけど、ガザ空爆の問題が出てきて、やっぱりここにも、経済と大きな権力のようなものというか、軍産複合体のようなきな臭い問題があって、でもその下に生きている人がいる。今の日本の感じを前にあったことと重なり合わせて、もう一回それぞれが考えなければならないと無意識的に思った時に、僕にとって象徴的な何かとして繭や蚕糸が出てきてた。

 金子 長野とか埼玉・秩父は繭の大産地でしたからね。


死の現場 知らぬ政治家 得意顔

◆戦争詠む必要

 いとう 僕がまだ伊藤園の新俳句大賞の選考委員だった時に湾岸戦争が起きて、戦時下の俳句をあえて採りたいと言ったら兜太さんが一番共鳴してくれた。社会の問題をすぐに庶民がすくい取って読める詩が、日本の場合は俳句としてある。そうなるとまさに「梅雨空に九条…」のようなものがあってしかるべきだし、そこが一番の表現の自由の最前線のつばぜり合いだと思う。ただ、名もない表現者の句がそのような象徴となるのは、自分がある程度のプロとして、フィクションのことを考えている人間としては、恥ずかしいですね。文学者がそこを打破しなきゃいけないんじゃないかと。ここで何でもないものをただ書いていて戦争になったら、戦後恥をかくよと。「戦後」と言うと戦争があるということを含み込んでしまっていて良くないが、でも今の自分を支えているのは、戦後恥ずかしくないように発言していなければならないという思いです。そのことが前回の戦争の大きな教訓なので、沈黙しているわけにはいかないと。未来の人から見られていると思って、僕は物を書いています。

 金子 あまり生なリアリズムじゃなくて、現実と泥まみれになっている叙事詩というか、薫り豊かな、しかも現実に対して厳しい矢を射ている、そういう小説が出たら素晴らしいと思って、せいこうさんのふんどしに期待している。

 いとう 兜太さんの俳句、もちろん過去の戦争を描いたものもそうですし、今はセシウムが出てきたり、それが日本の深層にある風景として、季節として描かれていることが大きい。詩人や俳人の、特に短詩形であるところの刺さり方の強さがある。長編小説を書いていると三年も四年もかかっちゃう。その間に社会がどんどん違ってきてしまう。人間というか社会を、今という季節を、断面を見せてくれるという意味で、俳句のような動きをやらなきゃいけないというふうに読ませてもらってます。

3-5

64凡人:2014/12/12(金) 12:16:14 ID:da95RwFo0
◆一句の説得力

 金子 一人の俳句作家がいとうせいこうのようにというのは無理ですね。十人なら十人、その人が生み出す五百句なら五百句の総合力ですよ。今日も見てもらおうと思って、最近拾った俳句を書いてきた。先ほどの<梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>。これ、本当に優しい日常句ですけどね。それと中村晋という福島県の高校の先生ですが、この人は福島原発事故の重圧をまともに取り上げた。というのは奥さんがセシウムを心配して、子どもと一緒に山形県に入っちゃって。<春の牛空気を食べて被曝(ひばく)した>などいろいろ句を作っている。同じ福島の人で坂本豊という人の句もある。<ものの芽をみな攫(さら)いけり除染という>。3・11の直後に出てきて俳句だけじゃなく、エッセーでも有名になった人で照井翠(みどり)さんの句も<螢(ほうたる)や握りしめゐ(い)て喪(うしな)ふ手>。手を失う思いがあるという。それから蛇笏(だこつ)賞をもらった高野ムツオの句、これは<四肢へ地震(ない)ただ轟轟(ごうごう)と轟轟と>とその時の映像だけを書いてある。それから私の句でも3・11では<津波のあと老女生きてあり死なぬ>。福島の被ばくの句では<被曝の牛たち水田に立ちて死を待てり>。十五年戦争で誰の記憶にも残っているのは、先ほどの渡辺白泉の句がありますが。川柳の鶴彬の<手と足をもいだ丸太にしてかへし>、これも著名で一句で結構な説得力を持つわけです。

 →鶴彬(つる・あきら) 反戦川柳作家。新興俳句より早い1937年に摘発され、留置中に死亡。

 いとう 国民運動ではありませんが、そういうものがネットワークされないといけないなと。例えばこうしたものが一万句あることが力になると思う。僕も一緒に何かできるといいと思います。それと一緒に小説もあるという形で。今はインターネットの時代になって、例えばツイッターとか百四十字しか書けないような、そんな場所で情報はたくさん発信されている。まさにツイッターに出てくるような俳句を募集してそれを新聞に出すとか。放送に出すとか。連動して少しでもやらないと、歴史が全く凡庸な反復になってしまう。

◆過半は餓死者

 いとう 金子さんは現実、戦時中に南洋へ行かれていた。大岡昇平の「野火」を読んでも分かるように、戦死者は決して勇ましいものではなくて、過半は餓死者であるということを、なぜこんなに隠して勇ましいことのように美化するのか。意味が分からないくらい情報が隠されている。本当に先進国なのかと思うくらいひどい。

 →大岡昇平 小説家、評論家。「野火」は、自身の戦争体験を基にした戦争文学の代表作。

 金子 おっしゃるとおり。私がいたトラック島は死の現場として、いまいっぺん伝えたい。安倍さんをはじめ、今の政治家は、集団的自衛権を実現させようと、憲法の事実上の改悪を考えたりして戦争へ一歩近づいているが、なんであんな平気な顔で、得意顔でできるのかと考える。そうしたら分かりましたよ。死の現場をほとんど踏んでない人たちなんだ。トラック島は日本軍の連合艦隊の基地だったんだけど、アメリカの機動部隊にばんばんやられた。連合艦隊は逃げて、第四艦隊が残ったがぜんぜん弱い。そこで武器がなくなった。手りゅう弾をたくさん作り、実験をやったんです。「俺がやる」と志望したのは、兵隊さん以下として扱われている民間の工員さん。やったとたんにボーンって右手がすっ飛んじゃって。背中が破片でえぐられて、運河のようになっている。それで即死したわけです。餓死ってのは、いたましいわけでね。しかも工員さんは、国に殉ずるなんて考え方で来ていない。本当に無知な人たちが力ずくで生きてきて、結局食い物がなくなって死んでいく。仏様のような顔で。逆に悲惨なんですよ。戦場という死の現場を分かっていない政治家は、自衛隊の連中をすぐそのまま戦場へ持って行くことを平気で思っているけどね。自衛隊の人が足りなくなって徴兵制度が敷かれるようになることが心配なんですよ。

 →トラック島 ミクロネシアの島。日本海軍の拠点が置かれ、1944年2月に米軍の猛空襲に遭った。

 いとう 今、イスラエルがガザに対してやっていることも、僕はすぐ東京大空襲のことを思った。下町に育ちましたから。いろんな種類の爆弾が使われて火の海にされて、民間人がやられていく。政治家は、このことを日本の問題として考えてないんですね。国連決議も棄権したりして。ついわれわれが何十年か前に首都でやられたことをやられているという、そこが結び付かないのが僕には信じられない。そういう人たちが世の中を動かすようになってしまった。過去と、今起きていることはつながっているし、われわれの問題でもある。それを喚起するには言葉が問われていると思います。おじいちゃんおばあちゃん、兜太さんの話も聞いてきた人間としてつなげていかなければと思う。

65凡人:2014/12/12(金) 12:17:00 ID:da95RwFo0
僕たち選者で「戦後俳句」選ばせて

 金子さんは、トラック島で終戦を迎え、島を去るとき<水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>と詠んだ。自分は一度死んだようなもの。生きて帰るのだから、これからは戦争のない世の中のためにできるだけのことをしようと決意した。

◆戦争への自虐

<『想像ラジオ』(左)> 2013年、河出書房新社刊。いとうせいこう氏の16年ぶりの小説。生者と死者の新たな関係を描く。
<『他流試合』(右)> 2001年、新潮社刊(絶版)。金子兜太、いとうせいこうの両氏が、俳句の新潮流を語り合う

 金子 今の人に想像できないような無残な死に方をしていった人のことを思った時に、報いなきゃならないと。こっちも若いですから、余計身に染みた。私が学生のころ、俳句を始めたのは、出沢三太という無頼で非常に面白い人間がやっていたから。その人が俺を連れてった句会の中心に高等学校の英語の先生がいた。水戸っていうところは、聯隊(れんたい)もあって軍国臭ぷんぷんなんですけどね、お二人とも全く無視して、軍人が来ても頭下げない。俳句はそういう自由人が作るもんだと思い込んだんです。兵隊行くまで、自由人でありたい、ありたいと。ところが、戦争に行って、目の前で手がふっ飛んだり背中に穴が開いて死んでいく連中を見たり、いかついやつがだんだん痩せ細って仏様みたいに死んでいくのを見て、いかなる時代でもリベラルな人間でありたいと考えていた自分がいかに甘いかということを痛感した。自己反省、自己痛打が私にそういう句を作らせたと同時に、その後の生き方を支配した。年取ってもその句が抜けません。自分を緩めることができない。それぐらいの痛烈な体験でした。今の政治家諸公は、少なくとも俺のような戦争への自虐を感じないのだろうか。

 いとう 東京新聞でぜひ、何俳句と呼ぶか分からないけれども、募集してほしい。あえて戦後俳句と言っていいかもしれません。僕たち選者になって、戦争体験のことも、体験していないけれど自分たちは戦争体験をどういうふうに考えるかということも俳句にしてもらって選んで、ばあーっと載せたらいいじゃないですか。それで大賞、準大賞があって、その中から時代の代表作が生まれてくるってことが文学とかジャーナリズムを含めた、やっぱり言葉の力だから。

 金子 二人でやるとなると、ちょっと面白いと思いますよ。変なやつが二人でやってるっていうのは。

    ◇
【対談後記】「戦後」を続けていく決意 社会部長・瀬口晴義

 仲間内の句会で時々駄句をひねる。東日本大震災の取材経験からこんな句もつくった。<春泥にまみれし母子のフォトグラフ><こどもの日鯉(こい)の泳がぬ浜通り><秋風や倒れたままの忠魂碑>。俳句は見たままを詠めばよい。挑戦したことがないのは戦争をテーマにした句だ。観念的になりそうだからだ。

 多くの軍属が餓死したトラック島を去る時、金子さんは彼らの死に報いることを誓う。復職した日本銀行では出世を求めず、俳句一筋の人生を送った俳壇の重鎮は「体験を語ることが最後の仕事だと思っている」と旧知のいとうさんとの対談を快く引き受けてくださった。

 <梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>の句が、さいたま市の公民館の月報に掲載されなかった問題は、戦前の新興俳句運動の弾圧の歴史と重なることが金子さんの話で理解できた。共通する時代の空気は「自粛」だろうか。どきりとしたのは「今の自分を支えているのは、戦後恥ずかしくないように発言していなければならないという思いです」という、いとうさんの言葉だ。いつまでも「戦後」を続けることがジャーナリズムの使命と私は考えているが、いとうさんはその先まで射程に入れていた。

 金子さんから<原爆忌被曝(ひばく)福島よ生きよ>の句が届いた。「戦後俳句」を募集したらどうか、という宿題もお二人からいただいている。「戦後」をいつまでも続けてゆくという決意と願いのこもった句。私も挑戦してみたい。
5-5

66凡人:2015/03/22(日) 09:35:13 ID:da95RwFo0
【戦後70年】
B29の2倍、幻の航空機「富嶽」模型あすから展示 群馬県太田市
2015.3.21 12:00更新 産経

幻の航空機「富嶽」模型(「富嶽を飛ばそう会」提供)

 太田市押切町の市文化財「中島知久平(ちくへい)邸」で、22日から第二次大戦中に構想された幻の爆撃機「富嶽(ふがく)」を起源とする旅客機のラジコン模型が展示される。模型は「富嶽を飛ばそう会」(正田雅造代表)が手作りした。期間中は会員による解説説明も行われる。(平田浩一)

 「富嶽」は富士重工業の前身の軍用機メーカー、中島飛行機の創設者である中島知久平(1884〜1949年)が第二次大戦中に米軍のB29の2倍の大きさの超大型爆撃機として構想した。大戦末期、6発の大型爆弾を搭載し米国本土の直接爆撃を目的として極秘に設計が進められたものの、戦局悪化により製造されるまでには至らなかったという。

 同会によると、「富嶽」は爆撃機、旅客機、輸送機の計3種類あった。いずれも構想段階で製造されずに終わったが、今回、展示されるのは旅客機「富嶽」の模型。太田市尾島町で毎年開かれている「RC(ラジコン)航空ページェント」でも、ダイナミックな飛行を披露している。

 模型は、実物の12分の1の大きさ。胴体部分は約3メートル、両翼約4・5メートル。会員13人が1年半かけて作成した。東毛地区工業界の先駆者である知久平の偉業を広く地域の人たちに知ってもらうのと、小中学生に物作りの楽しさを教えることを展示の目的としているという。

 正田代表は「軍用機メーカーということで中島飛行機には戦争に直結するイメージがあるが、図面を見てみると、戦後日本の航空機の民需にまで貢献していることが分かる。そういうところを見ていただければ」と話している。

 展示期間は29日まで(午前10〜午後4時)。解説・説明は午前10時半からで、1時間おきに約10分間行われる。

67凡人:2015/03/22(日) 09:37:59 ID:ve6M5DlE0
ともに弔い、絆 墜落死米兵の日米合同追悼式【群馬】
2015年3月22日東京中日

慰霊碑に献花し、70年前に亡くなった米兵を悼む参列者=邑楽町で

 太平洋戦争末期、邑楽町と栃木県足利市で墜落死した米兵を弔う日米合同の追悼式が二十一日、同町秋妻の清岩寺で営まれた。米軍横田基地の兵士四十四人や、ケネディ元米大統領のおいで作家マクスウェル・ケネディさん(50)、二百人超の地元関係者が参列。かつては敵同士だった両国の関係者が七十年の時を経てともに死者を悼み、両国が戦後築き上げた絆を確かめた。 (川田篤志)

 一九四五年二月十日、太田市にあった戦闘機製造工場へ飛来したB29爆撃機二機が空中で接触し、邑楽町の田んぼに墜落して乗員二十三人全員が死亡。同月十六日には、日本軍の高射砲により米軍機グラマンが邑楽町の墜落現場から約五キロ離れた足利市に墜落し、米兵三人が命を落とした。

 追悼式は、二年ぶり二回目。国内で墜落死した米兵の遺族捜しをしている横浜市の新井勲さん(80)と、B29の墜落を少年時代に目撃した寺の木崎伸雄住職(82)が「戦後七十年の節目に改めて追悼式を開き、平和を祈ろう」と準備してきた。今回は、足利市での米軍機墜落にも触れた日米大戦の著書があるケネディさんを招待。これに合わせ、二年前に寺に建立したB29乗員の慰霊碑の隣に、新たにグラマン機乗員の慰霊碑を建て、この日披露された。

 新たな慰霊碑には「異国で命を落としたアメリカ海軍将兵の霊を慰め、人類永遠の平和を祈ります。“人間の持つ残酷さを克服し、この人生を平穏なものにしよう”」と、古代ギリシャの詩人の言葉も引用したケネディさんの碑文が刻まれている。ケネディさんは「石碑は千年以上この地に立ち続ける」と、世界平和への祈りのバトンが将来世代につながるよう期待した。

 追悼式では、米軍のダグラス・デラマター大佐が「きょうは平和へ向かう力の種が植えられた瞬間だ」と感謝。新井さんは「追悼式が日米の強い絆をつくる一本の糸になれば」と力を込めた。米軍音楽隊が、日米両国の国歌を演奏。米国の参列者は献花、日本側は焼香し、死者を悼んだ。

 式典後、ケネディさんは「七十年前の戦士たちが、敵同士だった両国が合同追悼式をやっていると聞いたらびっくりするだろう。当時の憎しみを乗り越えた結晶だ」と感慨に浸っていた。

68凡人:2015/03/22(日) 09:39:54 ID:ve6M5DlE0
[戦後70年]日米合同追悼式 平和祈る…邑楽
2015年03月22日Yomiuri

鎮魂碑の除幕を行った後、拍手するケネディ氏(右)と娘のノアさん

 太平洋戦争末期に邑楽町内外で墜落死した米爆撃機の搭乗員を哀悼する「戦後70周年記念日米合同追悼式」が21日、邑楽町秋妻の清岩寺で開かれ、米軍横田基地の司令官ら約45人を含む400人ほどが犠牲者の冥福を祈り、日米友好を誓い合った。

 式では、主催の木崎伸雄住職(82)が「未来永劫(えいごう)の平和を一緒に祈念したい」と参列者に謝意を述べた後、1945年2月16日に栃木県足利市で墜落したグラマン社製爆撃機の米兵を悼む「鎮魂碑」の除幕が行われた。ケネディ元米大統領のおいで、作家兼研究者のマクスウェル・ケネディ氏(50)らが白いひもを引くと、黒御影石製の鎮魂碑が現れ、拍手が巻き起こった。

 鎮魂碑建立のきっかけは、ケネディ氏が特攻隊に関する著書で足利の墜落機に言及したことで、同氏は「心に響く儀式だ。元敵国同士が憎しみを乗りこえ、世界平和を目指して友情を築いたことは素晴らしい」と笑顔を見せた。

 同基地の音楽隊が日米国歌を演奏し、米兵たちが鎮魂碑や、同寺近くで同月10日に墜落死したB29の乗員23人を哀悼する「慰霊碑」に献花と献酒を行った後、木崎住職らの読経や焼香が行われ、日米それぞれの儀式で弔った。

 米空母バンカーヒルに突撃して死亡した特攻隊員小川清さんの遺族で高崎市在住の小川愛之さん(61)夫妻らも、ケネディ氏の取材を受けた縁で出席。「足利で命を落とした米兵は同じ空母から発進し、奇縁を感じる。犠牲者に思いをはせれば、私たちにとっての戦争はまだ終わっていない」と感慨深げ。同基地司令官のダグラス・デラマター大佐は「追悼式は、日本人の高い品位を示したものだ。碑は日米の絆の象徴となった」と語った。

69凡人:2015/03/26(木) 08:57:04 ID:ve6M5DlE0
千玄室さん 保存訴え 笠間の海軍航空隊旧司令部庁舎【茨城】
2015年3月26日tokyo chunichi

写真:慰霊台へ献茶をする千玄室さん=笠間市で

 戦時中に特攻隊員だった茶道裏千家の前家元で大宗匠(だいそうしょう)の千玄室(げんしつ)さん(91)が二十五日、多くの特攻隊員を送り出した笠間市の「筑波海軍航空隊」旧司令部庁舎前で、慰霊の献茶式を開いた。千玄室さんは、取り壊される方針の建物の保存を訴え、橋本昌知事は「戦争を風化させない意味がある」と、解体方針を変える考えを示した。 (宮本隆康)

 旧司令部庁舎は戦後、県立病院の管理棟として使われた。老朽化で二〇一一年から空き家になり、県は取り壊しを決めた。しかし、一二年に特攻隊員を描いた映画「永遠の0」のロケ地になり、地元で保存運動が起きている。

 千玄室さんは、一九四三年に学徒出陣で海軍入り。県内にあった土浦海軍航空隊で訓練を受けた。特攻隊員になり、三回の出撃志願をしたが、待機中に終戦を迎えた。戦後は、国内各地や五十カ国以上で平和を祈る献茶をしている。

 建物を借り受け、期間限定で公開している地域振興団体のメンバーが昨年、千玄室さんに「一度見に来てほしい」との手紙を書いた。筑波海軍航空隊には、同期の飛行専修予備学生が多く所属した。今年一月に「仲間のために一碗(わん)を献じたい」と返事が来た。

 献茶式は旧司令部庁舎前の広場で開かれ、橋本知事や元隊員、遺族、裏千家の地元関係者ら約七百人が参加した。千玄室さんは出席者が見守る中、お点前を披露して慰霊台に献茶した。

 千玄室さんはあいさつで「私たち生き残りは、戦争が二度と起きないよう祈願しなきゃならないが、いくばくも命はない。大きな遺産として、平和のための語り草として(旧司令部庁舎を)保存してもらえたらありがたい」と訴えた。続いて橋本知事があいさつし、「どう活用するか、戦争を風化させない意味があるのかなと思う」と述べた。

71凡人:2015/03/29(日) 16:09:18 ID:da95RwFo0
「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(1) 身に染みた戦時のつらさ 市内の大塚房子さん(89)【栃木】
2015年3月24日東京中日

写真:「ウーッ、ウーッと言いながら、B29が次から次へと来た」と宇都宮空襲を振り返る大塚さん=宇都宮市で

 古びたコンクリートの敷地に、高さ三十センチほどの切り株のような柱の跡が並んでいる。今は住宅街が広がる宇都宮市清原地区に七十年前、鉄道のプラットホームがあった。市中心部から来る汽車が、陸軍の飛行機を修理する「航空廠(しょう)」で働く人たちを運んでいた。

 市内に住む大塚房子(ふさこ)さん(89)は、県立宇都宮第一高等女学校(現宇都宮女子高校)を卒業した一九四四年から、航空廠で事務員として働いた。上司の指示で、軍事通達など指令文面を印刷し、航空廠内の部長など幹部に通達する仕事だった。

 「一般の汽車だったから(満員の時は)乗れなくて(次の汽車を)待っているのがつらかった。冬なんか寒いときに駅の吹きさらしのところで。帰りは暗くなっちゃうんですよ」

 自宅から鉄道で通い、午後六時まで仕事。冬の帰路は寒さが苦痛でもあった。目が回るほどの忙しさで、つらさを感じるのも、ほっとひと息つけるのもこの場所だった。

 十八歳から二十歳まで、多感な青春時代を過ごした場所でもある。友人もできたが、仕事中は余計なことは話せない。帰り道におしゃべりをするのが楽しみだった。医者の娘という友人は、見習士官として大阪から来ていた男性に恋をした。「私は独身。そういうこともなかった」とほほ笑む。

 職場で大きな危険には遭わなかったが、四五年七月の「宇都宮空襲」では九死に一生を得た。

 現在のJR宇都宮駅前に住んでいた大塚さんは、あの日、風邪をひいて鼻詰まりで眠れず、航空廠の制服を着たまま、いすに腰掛けていた。「敵機数十機、鹿島灘上空より侵入。西方に向かって進行中」。午後十一時すぎ。ラジオの音声が聞こえたとたん、外が真昼のように明るくなった。

 家族を起こし、自宅庭の防空壕(ごう)にいったん入ったが、身の危険を感じて外へ出た。道路に出ると、ぼんぼんと炎があちこちで上がっていた。道路はふさがり、よその家の中を通過して東へ。川の中に逃げ、朝まで過ごした。

 翌日、黒く焦げた女性二人の遺体を見た。近くのトタン屋根の下には、中学生になったばかりの近所の男の子が、妹二人を抱えて死んでいた。

 戦時の記憶、そして七十年後の今。特定秘密保護法制定の動きを見ると、航空廠で働いていたときの「軍事機密は他言無用」という規律を思い出す。

 「(内部で)やっていることは、ほとんどよそでしゃべっては駄目だった。それが当たり前だと思ってやっていた」。それに比べ、今の世の中はいいと思っていたが、何となく昔に返っていきそうな気配がなくもない。「今の人は怖さを実際に知らない」

 大塚さんは戦後、保育士になり、市内の保育園で園長をした。幼児教育に携わる傍ら、戦争体験の語り部を務める。空襲警報のラジオの音、上官の部屋に入る時にしたあいさつ。今も鮮明に覚えている。 (後藤慎一)

   ×  ×

 第二次世界大戦中に軍需工場が並び、「軍都」ともいわれた宇都宮市には、戦時の記憶を伝える跡が今も残る。戦後七十年。市内各地の戦跡を訪ね、そこにまつわる人から話を聞き、平和への思いを未来へどう伝えるかを考える。

 <宇都宮空襲> 1945年7月12日深夜から翌日未明にかけ、米軍が宇都宮市中心部を標的に行った爆撃。市街地の約半分を焼失し、少なくとも620人が犠牲になった。焼夷(しょうい)弾の直撃や焼死、避難していた防空壕(ごう)での窒息死など、多くの子どもや女性も被害を受けた。宇都宮への空襲は軍需工場や鉄道関連施設が多かったが、この日はB29爆撃機約120機が市街地を襲った。

72凡人:2015/03/29(日) 16:09:46 ID:da95RwFo0
「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(2) 市役所近くの大イチョウ 中学教諭の田崎透さん(54)【栃木】
2015年3月25日 東京中日

写真:隣のビルの屋上まで枝が伸びた大イチョウ=宇都宮市中央で

 宇都宮市役所から県庁へつながる一本道。その四つ角の一つに、高さ三十メートルを超える巨木が隣のビルと競うようにそびえ立つ。市の天然記念物にもなっている大イチョウ。樹齢約四百年という戦後復興のシンボルは、息絶えることなく、移りゆく時を見つめてきた。

 大イチョウから五百メートルほど東にある市立旭中学校で理科を教える田崎透教諭(54)は、前任の一条中学校にいた二〇〇九年、この木が落としたギンナンを拾い、新たなイチョウを育てる「大イチョウプロジェクト」を始めた。

 一条中の当時の校長から促され、平和教育の一環としてシンボルになるものが必要だと考えた。それがあの大イチョウだった。

 顧問をしていた科学部の生徒とギンナンを拾いに行き、校庭の凍った土の中に植え、温度を下げたまま育てた。植木鉢に入れた苗木を間違って誰かに捨てられてしまった思い出もある。苗木は近くの中学校やホテルに配った。

 自らも本を何冊も読み調べてみると、大イチョウの歴史が分かった。

 一九四五年七月の宇都宮空襲で米軍のB29爆撃機の焼夷(しょうい)弾を受け、枝のほとんどが焼け落ち、表皮が炭化した。しかし、強い生命力で次の春には新しい芽を吹かせたという。戦時の記憶を呼び起こす存在。生徒たちが生まれる何十年も前の出来事に理解を深めるのに、大イチョウは大きく役立った。

 田崎教諭自身も、父母が宇都宮空襲を体験し、その記憶を聞いて育った。市内の母の実家には、低空飛行でやってきた米軍機の銃弾の跡があった。平和への思いに目覚め、大学卒業後は教職に就いた。

 理科の教諭らしく、事実確認にこだわった。戦争体験者に直接聞いたり、インターネットを使って、宇都宮空襲に参加した米軍の部隊関係者にも接触を試みたりしたこともある。

 「自分で調べて、それを包み隠さず生徒に伝え、判断させる。結論を求めるのではなく、生徒に考えさせるという方法で取り組んできた」

 大イチョウプロジェクトは一条中で二年、その後、転任した旭中でも四年続けてきた。そして迎えた戦後七十年。今年一月、市内の神社で行われた成人式で、プロジェクトの一期生に当たる一条中の卒業生たちと久しぶりに再会した。

 「大イチョウは空襲を受けたのに残った。生命力の強さを分からせてくれた。私も教員になって、中学生に戦争の事実を伝えていければと思う」。リーダー役だった東京都狛江市の大学生、根本友希恵(ゆきえ)さんはそう話した。戦時を耐えたイチョウと、現代の平和。長い時間のつながりをかみしめる。

 成人式会場であいさつに立った田崎教諭は、二十歳になった教え子たちに「今年は戦後七十年という節目の年。平和について、もう少し考えてほしい」と控えめに語りかけると、拍手が起こった。

 一本のイチョウから始まった平和への思いは、若い世代に受け継がれ、枝葉を大きく伸ばしている。 (後藤慎一)

73凡人:2015/03/29(日) 16:10:18 ID:da95RwFo0
「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(3) 二荒山神社脇の防空壕跡 絵本作家の大門高子さん(69)【栃木】
2015年3月26日東京中日

写真:かつていくつもの防空壕があった場所。今は駐車場の裏になっている=宇都宮市で

 今は立体駐車場になり、正確な位置は分からない。でも、ビル街の一角に風情はある。宇都宮市中心部の宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社の脇には十数年前まで、防空壕(ごう)がいくつも残っていた。一つで四十人ほど入れる大きな穴。近くの住民らが戦火から逃れるために掘った。

 東京都北区に住む元小学校教諭で、現在は絵本作家兼作詞家として活動する大門(おおかど)高子さん(69)は、宇都宮空襲があった当時、生後わずか十日目の乳飲み子だった。

 一九四五年七月十二日午後十一時すぎ。二荒山の近くに住んでいた家族は必死で逃げていた。自宅から二百メートルの防空壕へ、母親が兄の手を引いて走った。途中、衣服に火が付き、泣き叫ぶ人たちがいた。生まれたばかりの大門さんは毛布にくるまれ、母の腕の中にいた。

 防空壕にたどり着くと、母親が抱えていたはずの赤ちゃんがいない。逃げるのに夢中で、途中で落としてしまったことに気づかなかった。取り乱して自宅へ戻る。二十分ほどで見つけ、大門さんは奇跡的に助かった。そう何度も兄から聞いてきた。

 「私は戦争の『落とし子』なんです。記憶のない生後十日目の空襲体験が、自分にとっては生きる原点になっている」

 十二歳のころ、子どものいなかった都内に住む叔父の元に養子に入り、生まれ故郷の宇都宮を離れた。大学を卒業し、教師になってから千葉県や都内で暮らしたが、生後間もない戦争体験によって「大事な子どもたちを戦場には送りたくない」との思いに突き動かされてきた。

 宇都宮空襲では、女性や子どもなど多くの弱い命が奪われた。小学校や地域で平和教育を進める中、そこに人を追い立てた戦争への憎しみが強まった。

 五十四歳で教師を辞めてからは、都内で空襲体験を聞く講座を催したり、公害反対や平和運動に取り組んだりした。近年は終戦後、大陸から日本軍兵士が持ち帰った「むらさき花だいこん」という花を題材にした絵本を書き、合唱曲にもしてきた。その縁で中国を何度も訪問した。

 平和運動を通じて、輪は広がった。戦時下の動物の受難を描いた絵本の名作「ぞうれっしゃがやってきた」を基に、合唱曲を作曲した藤村記一郎さんとも一緒に平和の曲を作った。子どもたちに絵本を読んだり、都内でミュージカルのプロデュースや作詞をしたり。合唱で平和への思いをつなげる全国運動にも携わる。一行の歌詞を書くために何冊も本を読み、事実に向き合う。

 終戦の年に生まれ、今も平和運動に心血を注ぐ大門さん。多忙ながら、宇都宮で戦争体験をした友人をテーマにミュージカルを作る約束もしている。

 「原点は宇都宮の空襲にあるから」。六月にある小学校のクラス会を心待ちにしつつ、自分で決めた大きな宿題に取り組む。(後藤慎一)

74凡人:2015/03/29(日) 16:11:00 ID:da95RwFo0
「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(4)当たり前の平和に感謝 宇都宮中央女子高の「赤れんが」 【栃木】
2015年3月28日東京中日

写真:現在は多目的ホールとして使われている建物。平屋の造りだが存在感がある=いずれも宇都宮市の宇都宮中央女子高校で

 赤いれんが造りの建物が、花でいっぱいの校内に映える。宇都宮市の宇都宮中央女子高校にある陸軍関連の元施設は、姿を変えて「現役」を続ける。美しく積まれたれんが、室内にめぐらされた梁(はり)、アーチ形をした窓。今は多目的ホールとなり、生徒たちの楽しそうな声が響いている。

 明治後期の一九〇八年ごろ、当時の陸軍省が設計し、軍隊の第一線に立つ若い兵士が多くを占めた「歩兵第六六連隊」の厨房(ちゅうぼう)として建設された。室内にある板の間の下には、排水口などが当時のまま残る。

 宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物。時折訪れる見学者のため、生徒が案内用の音声を録音し、見学の際、希望者に貸し出している。教職員が案内することもある。

 終戦を経て、栃木師範学校の理科実習室、宇都宮中央女子高の倉庫へと役目は変わり、二〇〇〇年に国の登録有形文化財になった。「生徒が使えるように」と校長らが奔走し、多目的ホールに改修されたのが〇一年。それまでの卒業生にとっては「ごみ焼却場の横にあった倉庫」という思い出しかなかった建物がよみがえった。

 吹奏楽部の部員たちは、土日も含めて多目的ホールを毎日使う。部員は三十三人。部長の窪田紗弥(さや)さん(17)はチューバ、副部長の山口怜泉(れいみ)さん(17)はトロンボーンを担当する。

 「響きもいいし、すごく使いやすい場所」と窪田さんが話せば、山口さんも「演奏会と同じような環境で(練習)できる」と喜ぶ。「赤れんが」と親しみを込めて呼ぶ活動拠点は、かつては戦時中の建物だった。「知ってしまうと立つのが怖いな」と、言葉にしにくい感覚を持つ。

 両親は昭和四十年代生まれ。祖父母も七十代という二人は、戦争体験はほとんど聞いたことがなかった。昨年秋、修学旅行で訪れた広島で「宇都宮も空襲があったんですよ」と教えてもらい、考えるきっかけになった。

 広島平和記念資料館では、皮膚がただれた人の模型を見て鳥肌が立ち、背筋が凍った。その感覚は忘れることができない。日本人として見ておくべきこと、目に焼き付けておくべきことだと感じた。

 「自分たちにとって、平和って普通のことのように感じている。ここで音楽ができているのも、ありがたみを感じながら使っていきたいなと感じる」。窪田さんは言う。

 山口さんも続ける。「平和は当たり前じゃない。昔の人の経験があって、その復興があったからこその平和。戦争中に使っていたところがきれいになって、何も不自由なく使えているのは幸せだし、感謝しなければいけない」

 百年以上前にできた厨房では、どんな人たちが、どんな料理を作っていたのだろう。今となっては知るすべもないが、今を生きる女子高生たちは「赤れんが」の下で、平和について思いをめぐらせる。(後藤慎一)

75凡人:2015/03/29(日) 16:11:38 ID:da95RwFo0
「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(5)平和への思い 未来につなぐ 八幡山の地下司令部跡 【栃木】
2015年3月29日東京中日

写真:八幡山の一角にある地下司令部跡。扉の外から中をのぞくとトンネルの入り口が見える=宇都宮市で

 JR宇都宮駅から北西へ約一・五キロ、県庁に程近い宇都宮市の八幡山公園。花見の季節は桜をめで、散歩を楽しむ多くの人でにぎわう。その一角の小山に、高さ二メートルほどの穴がある。今は金網で封鎖されたこの場所の周りだけは、静かな時間が流れているようでもある。

 「本道(の長さ)は三百七十メートル。実は地下の軍事司令部を造るために掘った穴だったんだ」

 宇都宮市に住むグラフィックデザイナーで「宇都宮平和祈念館をつくる会」の事務局長を務める佐藤信明さん(70)は毎年初夏、市内の史跡を巡り、平和について考える「ピースバス」のツアー参加者を案内している。八幡山に残る穴も見学先の一つになっている。

 ピースバスが始まった一九八五年から九年間は「防空壕(ごう)」として紹介していた。ところが、九五年の戦後五十年を機に、市があらためて調査した結果、司令部跡だったことが判明した。

 市教育委員会が二〇〇一年に編さんした「うつのみやの空襲」によると、第二次世界大戦末期、本土決戦に備え、現在の国立病院機構栃木医療センター(宇都宮市中戸祭)の位置にあった「宇都宮師管区司令部」の地下移設が検討された。北関東を管轄し、動員、教育、警備などを任務とする組織だった。

 地下道は四五年五月から掘られ始めたが、完成を見ずに終戦を迎えた。だが、終戦後も「米軍が進駐してきた時に笑われる、このままでは日本軍の名折れである」と、東西と南北に掘られた九本の穴の貫通まで作業は続けられたという。

 今は入り口からのぞけるだけになっている。中に電球をともすための線を引いた形跡はなく、地面にコンクリートを張った跡もない。佐藤さんには、使われることのないこの戦争の遺物は「ひたすら穴を開けただけ」に思える。

 こうした戦跡は多くの人の目に触れることなく埋もれているが、歴史を身近にし、直視することのできる貴重な遺産だと佐藤さんは言う。それは、次世代に平和を考えてもらう材料にもなる。

 福島県相馬市出身の佐藤さんは、小学生のときに丸木位里(いり)・俊(とし)作の「原爆の図」を見て衝撃を受けた。「あの絵の怖さが原点。話を聞いて、原爆によって人が人でなくなるような状況を描いた絵だと分かった」

 大学に進学し、ベトナム戦争が泥沼化する中、戦争とは何かを深く考えた。宇都宮に移り住み、友人の誘いをきっかけに、平和祈念館を造るための運動に長く携わっている。

 平和祈念館をつくる会では、設立当初から集め、市内に保管している戦時中の釜や衣服を年に一度、宇都宮空襲展で公開している。その資料を受け継ぎ、常時保管できる祈念館を造り、未来に平和の思いをつなぐことを思い描く。

 「司令部跡は児童公園の下。こういうところに、祈念館ができればいいと話し合っていたんだ」。市街地の真ん中に、平和の砦(とりで)ができる日を願う。 (後藤慎一) =おわり

76凡人:2015/04/09(木) 10:47:11 ID:da95RwFo0
戦艦大和:総員死ニ方用意…1945年4月6日最後の出撃
毎日新聞 2015年04月05日 21時50分(最終更新 04月07日 10時20分)

大和の元乗組員の畦地さん:写真

 「総員死ニ方用意」。そう書かれた黒板が砲塔に掲げられると、乗組員たちはざわめいた。死の準備をせよ、という命令だ。戦艦大和は2日後の1945年4月7日、米軍の猛攻を受けて沈没し、約3000人が戦死した。18歳で水兵長として乗り組んでいた名古屋市在住の畦地哲さん(あぜち・さとし、88)は、今も自問する。「死を前提とする作戦だった。それは作戦と呼べるのか」【川上晃弘】

 4月6日、沖縄に向け山口県を出港した。仲間たちは艦上で「覚悟を決めた」「いざとなれば自決する」と言い合ったが、ぴんとこない。「戦死は当然と考えていたが、実際に自分が死ぬのだとは毛頭思えなかった」

 25ミリ3連装機銃の射手だった。敵機に照準を定め引き金を引く。照準器は最新鋭で、敵機の速度や進入角度を入力すると発射角度が自動的に計算される。艦首を0度とし時計回りに160〜180度(右舷最後部)が受け持ち範囲だった。

 運命の7日昼過ぎ、見張りの声が響いた。「大編隊発見」。見上げると100機以上の敵機が近づき、高度2500メートルから1機ずつ急降下を始めていた。日本の戦闘機より急角度でスピードも速い。照準を合わせ、射程1500メートル前後で引き金を引く。全機を狙う余裕はなく、1番機の次は3番機と一つおきに狙うのが鉄則だった。

 次々に照準を合わせるため命中の確認はできない。畦地さんの右手人さし指に、引き金を引く感触が今も残る。「とても軽い。ちょっと引くとババババッと。敵機が多い時は引きっぱなしだった」

 恐ろしいのは直撃弾だ。「爆弾が向かってくるのは何となく分かる。これは死ぬ、と何度か思った」。それて海中に落ちると艦橋を超す水柱が上がる。びしょぬれになり、そのたびに「俺は生きてる」と実感した。

 攻撃はどれほど続いたか。ある時点でぴたりとやんだ。「また来ると身構えていたが、もう現れなかった。気づいたら船体が大きく傾いていた」。戦闘終了を意味する「総員退去」の声を聞いた。持ち場を離れて最上甲板に出ると、遺体の一部が転がっていた。砲声はなく、静けさが広がっていた。仲間が何人か寄り添うように座っている。「いよいよだ」「思い残すことはない」。みなさばさばした表情だった。

 船がゆっくり傾いていく。傾斜がきつくなると、一人で船の横っ腹を歩いた。黒色から赤色に変わる喫水線まで行き、そこで靴を脱いで息を吸い、頭から海へ飛び込んだ。

 何秒間潜ったか。顔を上げると数十メートル先に大和が見えた。直後に火柱が上がり、黒煙に変わった。大和の姿はもう見えなかった。

 同僚と浮遊物につかまり漂流を続け、そこで歌ったのが、敵艦隊を沈没させた時の軍歌「轟沈(ごうちん)」だった。「自艦が沈められ『轟沈』はおかしいけれど、元気が出ればどんな歌でも良かった」。数時間後、味方の駆逐艦に救助された。
1-2

77凡人:2015/04/09(木) 10:47:57 ID:da95RwFo0
    ◇

 「結局、運だった」。生死の境目について畦地さんは言う。敵の攻撃も予想され駆逐艦の救助活動は日没で終わった。海面にはまだ複数の乗組員が漂っている。「彼らは救助直前に望みを断たれた。助かった私と彼らの間に何の違いもない」

 戦後は名古屋で親族の運送業を手伝うなどして生計を立てた。大和は今も海に沈む。遺骨や船体を引き揚げる話もあったが、畦地さんは反対する。

 「彼らは大和と共に逝った。大和を枕に休ませてあげることが一番の供養と思う」
 ◇戦艦大和

 全長263メートル、基準排水量6万5000トン、46センチ砲3連装砲塔3基を搭載した史上最大の戦艦。1941年12月に就役し連合艦隊の旗艦を務めたが、海戦の主体は既に航空機に移行。威力を発揮できぬまま、米軍の沖縄上陸を阻止する「水上特攻部隊」として航空機の護衛なしに出撃し、45年4月7日に屋久島沖で米軍機に攻撃され沈没した。乗組員約3300人で生還者は276人。
2-2

78凡人:2015/04/13(月) 10:06:48 ID:ve6M5DlE0
【特攻70年(上)】
23歳特攻隊員「日本はおしまい」「妻を守るために死ぬ」無念と絶望…母は「戦争協力者」と貶められ 
2014.10.23 11:00更新

飛行服に身を包み、出撃前の打ち合わせをする特攻隊員ら=昭和19(1944)年12月

 旧日本海軍の「神風特別攻撃隊」が初めての攻撃を実行してから、10月25日で70年を迎える。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻による戦死者数は6418人。彼らは何を思い、その後の日本人に何を託したのか-? 元特攻隊員の言葉などから英霊の思いに迫る。(編集委員 宮本雅史)


 毎年10月25日、愛媛県西条市の楢本神社で、「神風特攻敷島隊並びに愛媛県特攻戦没者追悼式典」が開かれ、今年で40回を数える。

 敷島隊は昭和19年10月20日、フィリピンのマバラカット飛行場で、海軍兵学校70期の関行男大尉=当時(23)、戦死後に中佐=を指揮官に5人で編成。25日、レイテ沖海戦で敵空母群に突撃し、護衛空母セント・ローを撃沈するなど戦果を挙げた。

 当時の新聞は朝刊1面で「身を捨てて国を救わんとする皇軍の精粋である」と報じた。

 関大尉は命令を受けた際「ぜひ、私にやらせてください」と承諾したとされるが、報道班員だった同盟通信の小野田政特派員は、出撃を控えた関大尉とのやり取りを回想録「神風特攻隊出撃の日」の中でこう記す。


 「関は腹立たしげにこういった。『報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて』『ぼくは最愛のKAのために行くんだ。命令とあらば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!』」

 関大尉は当時、新婚5カ月。KAは海軍用語で妻を指し、その言葉からは苦渋に満ちた決断が伝わる。

×   ×

 特攻隊員が愛する者を守り、国の行く末を案じる気持ちが行動の芯であったのはまぎれもない事実だが、美辞麗句で片付ける前に、生への執着を断ち切るまでの想像を絶する努力と決断があったことは想像に難くない。

 ところが、軍神とあがめられた特攻隊員に対する賛美は敗戦とともに影を潜め、遺族を取り巻く環境も一変した。

 関大尉の母、サカエさんも、「軍神の母」からいつしか「戦争協力者の母」という批判を浴びせられる。

 訪れる人もなく、衣類を闇米に代え、草餅を作って売り歩いた。晩年は西条市の小学校に住み込みで働き、昭和28年11月、還暦を前に亡くなる。

 意識が混濁する床で、「行男の墓を建ててください」とつぶやいて息を引きとったという。

 サカエさんが亡くなった際、戦時中は「軍神の母」につきまとっていた新聞記者が、「そんなもの記事になりますか。軍神がなんですか」と吐き捨てるように言ったという。

79凡人:2015/04/13(月) 10:08:52 ID:ve6M5DlE0
【特攻70年(下)】
特攻隊員は今の日本を望んだか…「あの人たちは何のために死んだのか。可哀想で」元婚約者の慟哭
2014.10.24 11:00sankei

飛び立つ特攻機。隊員らの目に今の日本人はどう映るだろうか=pic

 フィリピン・レイテ沖海戦で昭和19年10月25日、関行男大尉=当時(23)、戦死後に中佐=率いる旧日本海軍の「神風特攻敷島隊」が初めての攻撃を実行してから、70年となる。

 自身も海軍特攻隊員で、出撃前に終戦を迎えた「敷島隊5軍神 愛媛特攻戦没者奉賛会」会長の寺田幸男さん(88)は、英霊への感謝の気持ちを奪った当時のメディアとそれに醸成された世論は戦後の日本の姿をゆがめたという。「成人式が済んでいないような若者がにっこり笑って死んどるじゃろ。そんなのは日本しかない。日本人は誇りに思わにゃあいかん。それを教えないから、今の子供はのうのうとしている」

   ×   ×

 特攻作戦はその後も、陸、海軍が沖縄戦などで大規模に展開した。

 沖縄に向けての出撃前に終戦を迎えた元陸軍特攻隊員で第194振武(しんぶ)隊長だった堀山久生さん(91)=陸軍士官学校57期=は「国が負けかかっているときに、俺たちがやらんで誰がやるか。やらなきゃいかんのです。そうしなければ国が滅亡する」と振り返る。

 沖縄への出撃後に機体の故障などで帰投した元陸軍特攻隊員で、知覧特攻平和会館(鹿児島県)の初代館長、板津忠正さん(89)も「自分が死ななければ日本は救われないと信じている者もたくさんいた。私も『国のため、肉親のために死ねる』という満足感があった」と語る。

 戦局悪化の中、軍上層部には脳漿(のうしょう)を絞る者も、的確な判断を下す者もいなかったのだろうか。

 人間魚雷・回天を考案した黒木博司大尉=当時(22)、殉職後に少佐=は戦友に「中央の怠慢は国賊というの外なし。戦局今日に至りし所以、全く物にあらず人にあり」と軍上層部への怒りに似た思いを打ち明けている。

   ×   ×

 戦後70年近くたった日本の姿にいらだちを感じる関係者も多い。鹿児島・知覧飛行場から沖縄に出撃して散華した元陸軍特攻隊長の婚約者だった女性(95)=岐阜県=は最近、「あの人たちは何のために死んだのかしら。あの人たちの姿と思いを日本人は忘れてしまったのかしら。今の日本を見ると、かわいそうで仕方がない」と涙を流す。

 鹿児島・万世飛行場から沖縄に出撃して散華した陸軍特攻隊員の実兄は「隊員の多くは、子供たちに古事記を読ませるように言い残すなど教育の大切さを説いた。戦後、わが国は経済面で世界の牽引(けんいん)国に成長したが、何か、大切なものを忘れてしまった」という。

 戦後70年を経た日本人がこれから、どのような日本国を構築するのか-。英霊は現代の日本人にそう問いかけている気がする。(編集委員 宮本雅史)

80凡人:2015/04/13(月) 10:11:36 ID:ve6M5DlE0
【記憶の風景-戦後70年】
「ワレ イマヨリ ジバクスル」…特攻の無線響いた地下要塞 横浜・日吉、連合艦隊司令部
2015.2.8 09:59更新sankei

連合艦隊司令部地下壕の内部。画面手前が電信室だった。当時としては珍しい蛍光灯で照らされ、短波受信機約30台が並んでいたという=横浜市港北区

 「ワレ イマヨリ ジバクスル」。太平洋戦争末期、旧日本海軍は爆弾を積んだ戦闘機で敵艦船に体当たりする神風特別攻撃隊(特攻隊)を編成した。生きて帰れない任務。連合艦隊司令部の電信兵だった大島久直さん(85)=茨城県下妻市=は、若い命がついえる瞬間の信号音を何度も受けた。

 特攻は信号を送信状態のままにして行う。電文受信後に流れる「ツー」という長音が最後になった。「信号音の消えたときが敵艦に突入したか撃墜されたとき…。10秒ほどが本当に長く感じた」。大島さんの記憶は鮮明だ。

 大島さんが昭和20年2月に配属された連合艦隊司令部は、本来、艦隊の旗艦に置かれていたが、この時は地下にあった。慶応大学日吉キャンパス(横浜市港北区)に掘られた日吉台地下壕(ごう)。19年3月、海軍は慶応から敷地や建物を借り移転を開始、本土決戦に備え巨大な地下施設を造り、中枢機能の多くを移転させた。

 レイテ沖海戦をはじめ硫黄島や沖縄の戦いなど、戦争末期の作戦はここで指揮が執られた。20年の4月7日には、戦艦大和が米軍機の攻撃で沈没する様子も刻々と入電、電信兵は涙ながらに信号を受け続けたという。

 鉄製の扉を開けるとコンクリートに覆われた通路が伸び、懐中電灯を頼りに進む。総延長約5キロの地下壕内部は迷路のよう。司令長官室や作戦室、大島さんが所属した電信室も残る。定期的に見学会が実施されており、参加者は年間2千人以上にのぼる。「日吉台地下壕保存の会」会長で慶応高校教諭の大西章さん(63)は「“かわいそう”だけではいけない。遺産を残すことで戦争を考えるスタートにしたい」と、保存の意義を訴える。

 大島さんも昨年秋、約70年ぶりに地下壕を訪れた。電信室に入ると、言葉に言い表せない記憶が蘇(よみがえ)った。(写真報道局 奈須稔)

81凡人:2015/04/13(月) 12:26:56 ID:da95RwFo0
戦艦大和:沈没70年 呉で追悼式 戦死3千人の冥福祈る
毎日新聞 2015年04月07日 11時30分(最終更新 04月07日 13時51分)

「戦艦大和戦死者之碑」の前で執り行われた追悼式=広島県呉市で2015年4月7日午前10時半、大西岳彦撮影

 旧日本海軍の戦艦「大和」が沈没してから丸70年となった7日、大和が建造された広島県呉市にある旧海軍墓地で追悼式が営まれ、遺族や海上自衛隊関係者ら約300人が黙とうをささげた。参列者は、特攻として出撃し海に沈んだ戦艦の非業の最期に思いをはせ、戦死した約3000人の乗組員の冥福とともに、平和への誓いを新たにした。

 大和は呉の海軍工廠(こうしょう)で建造され、1941年12月に就役した。戦艦としては世界最大級の全長263メートル、最大射程約42キロに及ぶ46センチ口径の主砲3基を搭載していた。だが45年4月6日、米軍が上陸した沖縄に向かう水上特攻作戦のため停泊地の徳山(現山口県周南市)沖を出撃し、翌7日に鹿児島県沖で米軍機の猛攻を受けて沈没。乗組員3332人のうち9割以上が亡くなった。

 追悼式は乗組員の遺族や市民らでつくる「戦艦大和会」が主催。高齢化などで生存者が年々減り、会主催の追悼式は2005年以来。会長の広一志さん(91)=呉市=は、41年8月から2年間、信号兵として大和に乗船した。

 「若い世代は(日米開戦の)12月8日を知らない人もいる。大和を通じて、若い人にも戦争を知ってほしい」と話した広さんは、「失った大和の友人たちにも夢があり、生きていれば家庭も持ったはず。彼らの犠牲のおかげで今の平和がある。だからこそ、平和を大切にしていきたい」と話した。【石川裕士】

82凡人:2015/04/14(火) 20:32:21 ID:da95RwFo0
第二次大戦で一番とばっちりをうけたのはアメリカにいる日系移民や日系アメリカ人。こういうのを読むと、アメリカ政府が戦争当時とった日系人への人種差別行為が正当化されそうだ。アメリカでは当時日系人というだけで、大戦中ある日突然、数日後に自宅からの退去命令。家族全員が着の身着のまま、スーツケースだけを抱えて、ユタ等の内陸部僻地にいくつか新設された強制収容所へ強制入所させられた。そこは刑務所のように有刺鉄線のフェンスで囲まれて、銃を抱えた兵士が常駐する監視塔つきであった。現在あるロスの市役所の近くには、かつては日系アメリカ人がかなりの土地を所有して農業を営んでいたが、その集団疎開で二束三文で売り払い、土地や家財を失ったと聞く。これでかなり大もうけした白人がいたという。戦時中は同盟国のドイツ系やイタリア系アメリカ人は、まったくそんな待遇は受けなかった。どんなときも戦争は悲劇である。その後だいぶたってロナルドレーガンが大統領の時に、当時のアメリカ政府の誤りをみとめ、現存者に限って1人当たり2万ドルの損害賠償されたのは1988年。
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【戦後70年】
マレー作戦「日本、完璧な諜報」 英秘密文書「最悪の降伏」分析
2015.3.1 09:11産経

英国防諜機関のシンガポール支部の1940年7月の報告書の抜粋 (英国立公文書館所蔵)

 第二次大戦で「東洋のジブラルタル」といわれたシンガポールが日本軍によって陥落して73年。チャーチル英首相が「英国史上最悪の降伏」と嘆いた作戦の背景に、「第五列」など「完璧な諜報活動」があったと、英国側が分析、評価していたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。事前に地理や軍事力の情報を収集し、植民地支配から現地人を独立させるため、支援して協力させていた。戦前の日本のインテリジェンス(諜報)能力が高かったことが改めて浮き彫りとなった。

 「マレーにおける日本のインテリジェンス活動」(KV3/426)によると、英国の防諜機関のシンガポール支部は、日本が情報収集活動を本格化させた1940年7月に報告書で「日本はマレー半島、とりわけシンガポールで完璧な諜報活動を展開している。精巧な組織が存在しているとは聞かないが、国を挙げてかなり発達した諜報組織を持っている」と警戒していた。

 さらに41年4月、「日本の諜報活動は、スパイとして生まれてきたような日本人全てが関わり、彼らがこの国にいる限り続くだろう」と在留邦人が総出で情報収集していることを指摘。「あらゆる日本人を捕虜にし、国外追放する方法を検討すべきだ」と結論づけた。

 実際に同年12月8日に開戦すると、在留邦人約3千人がインドのプラナキラ収容所に抑留された。

 「英国史上最悪の降伏」について、42年6月2日付の報告書で陥落時のシンガポール防諜機関の責任者は、「少なくとも6人の内通者が日本の侵攻を手引きした」と指摘、さらに同7月23日付で「MI6」高官がMI5海外担当責任者にあてた書簡で、「ここ数年日本は想定を超えて驚くべき『第五列』活動を毎日のように行った」と指摘して現地人を味方につけた「第五列」を「敗因」とした。

 そして、マレーでは、全てのマレー人が積極的か潜在的に「第五列」に参加しているとの見方が広がるほど、日本が活動を活発化させたにもかかわらず、「英国側が重大に受け止めず官僚的態度に終始し、英将校らが不用意に重要事項を公然にしたことが悔やまれる」(42年7月30日、MI5幹部報告書)としている。

 日本の「第五列」活動が成功したことに関連して、「アジアを通じて日本の仏教の僧侶たちが頻繁に情報収集しながら、反キリスト教の汎アジア主義を訴えた」(42年6月6日報告書)と、欧米白人の植民地支配からの解放を訴えたことを記している。 (編集委員 岡部伸)

【用語解説】マレー作戦 日本軍は1940(昭和15)年夏ごろから軍、外務省、民間企業や台湾総督府、南方協会などが協力してマレー半島からシンガポールに至る地理や英軍の軍事状況、衛生防疫などを徹底調査し、海南島で上陸訓練まで行った。真珠湾攻撃の数時間前にマレー半島北端に上陸した日本軍は、55日間で1100キロを進撃し、42年2月8日、ジョホール海峡を渡ってシンガポール島へ上陸し、15日に英軍が降伏した。


【用語解説】第五列(fifth columnあるいはQuislings)

 自国の中に存在する仮想敵国および敵国に味方する勢力、裏切り者、スパイ、反逆者。有事の際は敵国に呼応して自国で破壊工作、情報詐取、攪乱(かくらん)、世論醸成、文化侵略などを行う。スペイン内戦で4個部隊を率いてマドリードを攻めたフランコ派のモラ将軍が市内にも呼応して蜂起する5番目の部隊(第五列)がいると言ったことが起源。

83凡人:2015/04/15(水) 20:12:16 ID:ve6M5DlE0
戦艦大和:総員死ニ方用意…1945年4月6日最後の出撃
毎日新聞 2015年04月05日 21時50分(最終更新 04月07日 10時20分)

大和の元乗組員の畦地さん=写真

 「総員死ニ方用意」。そう書かれた黒板が砲塔に掲げられると、乗組員たちはざわめいた。死の準備をせよ、という命令だ。戦艦大和は2日後の1945年4月7日、米軍の猛攻を受けて沈没し、約3000人が戦死した。18歳で水兵長として乗り組んでいた名古屋市在住の畦地哲さん(あぜち・さとし、88)は、今も自問する。「死を前提とする作戦だった。それは作戦と呼べるのか」【川上晃弘】

 4月6日、沖縄に向け山口県を出港した。仲間たちは艦上で「覚悟を決めた」「いざとなれば自決する」と言い合ったが、ぴんとこない。「戦死は当然と考えていたが、実際に自分が死ぬのだとは毛頭思えなかった」

 25ミリ3連装機銃の射手だった。敵機に照準を定め引き金を引く。照準器は最新鋭で、敵機の速度や進入角度を入力すると発射角度が自動的に計算される。艦首を0度とし時計回りに160〜180度(右舷最後部)が受け持ち範囲だった。

 運命の7日昼過ぎ、見張りの声が響いた。「大編隊発見」。見上げると100機以上の敵機が近づき、高度2500メートルから1機ずつ急降下を始めていた。日本の戦闘機より急角度でスピードも速い。照準を合わせ、射程1500メートル前後で引き金を引く。全機を狙う余裕はなく、1番機の次は3番機と一つおきに狙うのが鉄則だった。

 次々に照準を合わせるため命中の確認はできない。畦地さんの右手人さし指に、引き金を引く感触が今も残る。「とても軽い。ちょっと引くとババババッと。敵機が多い時は引きっぱなしだった」

 恐ろしいのは直撃弾だ。「爆弾が向かってくるのは何となく分かる。これは死ぬ、と何度か思った」。それて海中に落ちると艦橋を超す水柱が上がる。びしょぬれになり、そのたびに「俺は生きてる」と実感した。

 攻撃はどれほど続いたか。ある時点でぴたりとやんだ。「また来ると身構えていたが、もう現れなかった。気づいたら船体が大きく傾いていた」。戦闘終了を意味する「総員退去」の声を聞いた。持ち場を離れて最上甲板に出ると、遺体の一部が転がっていた。砲声はなく、静けさが広がっていた。仲間が何人か寄り添うように座っている。「いよいよだ」「思い残すことはない」。みなさばさばした表情だった。

 船がゆっくり傾いていく。傾斜がきつくなると、一人で船の横っ腹を歩いた。黒色から赤色に変わる喫水線まで行き、そこで靴を脱いで息を吸い、頭から海へ飛び込んだ。

 何秒間潜ったか。顔を上げると数十メートル先に大和が見えた。直後に火柱が上がり、黒煙に変わった。大和の姿はもう見えなかった。

 同僚と浮遊物につかまり漂流を続け、そこで歌ったのが、敵艦隊を沈没させた時の軍歌「轟沈(ごうちん)」だった。「自艦が沈められ『轟沈』はおかしいけれど、元気が出ればどんな歌でも良かった」。数時間後、味方の駆逐艦に救助された。
    ◇

 「結局、運だった」。生死の境目について畦地さんは言う。敵の攻撃も予想され駆逐艦の救助活動は日没で終わった。海面にはまだ複数の乗組員が漂っている。「彼らは救助直前に望みを断たれた。助かった私と彼らの間に何の違いもない」

 戦後は名古屋で親族の運送業を手伝うなどして生計を立てた。大和は今も海に沈む。遺骨や船体を引き揚げる話もあったが、畦地さんは反対する。

 「彼らは大和と共に逝った。大和を枕に休ませてあげることが一番の供養と思う」

 ◇戦艦大和
 全長263メートル、基準排水量6万5000トン、46センチ砲3連装砲塔3基を搭載した史上最大の戦艦。1941年12月に就役し連合艦隊の旗艦を務めたが、海戦の主体は既に航空機に移行。威力を発揮できぬまま、米軍の沖縄上陸を阻止する「水上特攻部隊」として航空機の護衛なしに出撃し、45年4月7日に屋久島沖で米軍機に攻撃され沈没した。乗組員約3300人で生還者は276人。

84凡人:2015/04/20(月) 14:02:21 ID:da95RwFo0
【戦後70年】
「作戦室が被弾し、一挙に57人が戦死」「主砲が火を噴くと米軍機に大穴」深海に眠る戦艦「武蔵」と「大和」について語る…戦艦大和会顧問の相原謙次氏 2015.4.20 11:00 産経ニュース

最高速度で進む戦艦大和(大和ミュージアム提供)

 戦後70年の特別企画として3月27日に大阪市内で開催された「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会」(産経新聞社など主催)。大和の元乗組員や遺族らでつくる「戦艦大和会」顧問の相原謙次氏(60)が講演、今年3月、フィリピン沖で発見された戦艦「武蔵」と、現在も長崎県男女群島沖に眠る戦艦「大和」について語った。

 《フィリピンのシブヤン海で3月、発見された戦艦大和の姉妹艦、武蔵。レイテ湾に出撃する艦隊や沈没時の写真などを示しながら、発見者のポール・アレン氏が公開した映像を分析した結果などを報告》

 武蔵の最後は昭和19(1944)年10月、フィリピンを奪還しようとレイテ湾の島に上陸したアメリカ軍を撃退するため、ほぼ航空部隊はなくなっていたのだが、主力の水上部隊で殴り込みをかけに行った。武蔵は、途中のシブヤン海でアメリカの機動部隊の猛攻撃を受けて沈没した。なんと受けた魚雷は20本以上、爆弾は17つ以上。列国の戦艦であれば魚雷4本で沈むところ、10時間以上かけてようやく沈んだ。当時の乗組員たちが耐えて耐えて耐え抜いたが、ついに10月24日午後7時35分沈没した。

 護衛していた駆逐艦「磯風」の艦橋から武蔵を撮影した写真がある。写真では大きく左前側に傾斜しているのが分かる。海底の武蔵の写真では、左側の錨(いかり)がなかった。左側に傾いたために傾斜を復元しようと、15トンある主錨を切り落としたためだ。

 一番主砲塔が抜けた穴の直径は12メートル。艦橋、煙突が映っていた。艦橋では航海中は上層部が指示を出すが、戦闘配置につくと、艦長や砲術長らは防空指揮所に上がる。屋根がないので、艦長はヘルメットに防弾チョッキを着て羅針盤の前で指揮をした。当時の武蔵の猪口敏平艦長もそう。海底の武蔵は第一艦橋の右側に大きな破口があった。これは相手の爆弾が防空指揮所に命中し、第一艦橋を貫いて、その下の作戦室で爆発したため。艦の上層部が一挙に57人戦死した。戦闘詳報をつけている係員も全員戦死し、猪口艦長は右肩に重傷を負いながらも第二艦橋に移り最期まで指揮した。海底の武蔵には、この大破口があり、15メートル測距儀の右側が取れて無くなっていた。ちなみに戦艦大和の測距儀は、艦首の下敷きになっていた。しかし、測距儀の両端のレンズはまだキラリと光っていた。

 武蔵の沈没場所(フィリピン中部コブラドール島北東)については、戦闘詳報に記録されていたものより、大きく流されていたようだ。

 武蔵には車台に水上飛行機を乗せて火薬の力で発進させる機械「カタパルト」があり、これも写っていた。このカタパルトの車台の車輪を開発した技術者が戦後国鉄の技術研究所に入った。高速でも脱線せず安定して走る、新幹線の車輪を開発する技術に生かされた。

 ちなみに、これが平成11(1999)年に撮影した大和の菊の御紋です。(直径)1・5メートル。アレン氏の映像にはチーク材とあったが、ケヤキ材です。ケヤキを彫刻して漆をかけて金メッキを施しています。海底の大和の菊の紋はまだ金色に輝いていた。
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85凡人:2015/04/20(月) 14:03:14 ID:da95RwFo0
 《相原氏は、大和沈没までの歴戦について、当時の写真や資料を紹介する》

 大和の最初の作戦はミッドウェー海戦。ミッドウェーではなぜか、空母の後ろ300海里(555・6キロメートル)について行ったので交戦はしていない。マリアナ沖海戦では機動部隊の随伴で大和も出撃したが、練度が低く空母や航空部隊がほぼ全滅してしまう。そしてレイテ沖海戦。武蔵など多くの艦艇を失いながら、もう少しでレイテ湾というところで謎の反転をしている。このとき大和はアメリカの機動部隊の集中攻撃を受けた。一番主砲塔などに爆弾が命中したが、かすり傷程度だった。

 昭和20年3月19日の呉の初空襲では、大和の上空で、三四三航空隊が激しい大反撃をした。アメリカ海軍が本土空襲で一番損害を受けたのがこのとき。呉は(第二次大戦中)14回空襲を受け、うち6回が大空襲だった。全国で11番目に多い、市民2千人が犠牲になった。大阪は4番目に多く、1万人超の市民が犠牲になっている。

 ちなみに大和が最後の主砲を放ったのはこの時だ。沖縄特攻作戦では一発も撃っていない。このとき江本義男測的長が「弾込め」の命令を出したらしい。有賀幸作艦長は「なぜそんな命令を出した」とすごい怒った。大和の主砲は遠距離を撃つためにあり、撃つ際には外の配置の乗組員は中に入らねばならない。敵は中距離近距離に来ているのに、高角砲などが反撃できなくなる。対空弾を撃つので、市街地に破片が落ちる危険もあった。しかし、一度弾を込めると発射しない限り取り出すことができない仕組みになっていたため、仕方なく6門発射した。

 アメリカ軍のパイロットによると、大和が火を噴いたら飛行機の横に大穴が開いたらしい。戦後その話を聞いて江本さんは「おお、当たったか」と話していた。江本さんは一年半前に亡くなられた。

 アメリカ軍は、呉港沖合にいた大和を狙って呉周辺に機雷を仕掛けたが、大和は19日の前の晩に呉を脱出していて助かった。その後、沖縄の人を守るため水上特攻をかけることになった。昭和20年4月6日午後4時に出港。大和は佐世保に向かうふりをして沖縄に突っ込み、アメリカ軍の基地がある岸壁に乗り上げ、大砲を撃ち、弾がなくなれば生き残った兵は艦を捨て、陸戦部隊と合流せよ、というのが作戦だった。最初からやられるのは分かっていた。

 のの字運動をしながら爆弾魚雷を回避する大和だったが、第一次攻撃隊の爆弾が後部艦橋に命中し、この火は最後まで消えなかった。魚雷10本と爆弾多数を受け、左側に大きく傾き横転、沈没。その後、二番主砲塔と三番主砲塔の火薬庫が誘爆した。

 《相原氏は、沈没した大和の潜水調査についても、生存者や元乗組員らの証言とともに紹介した》

 戦闘詳報の場所に大和は沈んでいなかった。終戦直後から大和の遺族、元乗組員の生活の面倒を見ていた、生存者で戦艦大和会初代会長の石田恒夫さん(故人)が、昭和55年から会の有志と私財をなげうって沈没場所を慰霊のために探し始めた。ちなみに会は生存者が亡くなって休止状態だったが、昨年に元乗組員、広一志さんを会長に再結成している。

 55年の調査でソナーに大和らしきものが映った。56年は台風で中止になり、57年の探索で大和を発見した。60年の調査では菊の紋章を発見した。
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86凡人:2015/04/20(月) 14:03:55 ID:da95RwFo0
 《平成11年8月の調査について言及》

 大和は大陸棚の端に引っかかっていた。海底の大和は、菊の紋章のあるところから一番主砲塔と二番主砲塔の間で真っ二つ。その折れた二番主砲塔から艦尾までがその前部にひっくり返った状態だった。三番主砲塔は火薬庫が誘爆したので大きな破口が空き、大きく九の字に曲がっている。一〜三番主砲塔はひっくり返った状態。艦橋の上部はバルバスバウ(球状船首)の下敷きになっていた。マストは一番主砲塔の抜けた穴の横に引っかかっていた。スクリューも右端の一つが飛んで海底に突き刺さっていた。

 《大和に結集された技術の戦後の活躍について、映像とともに紹介》

 日本は昭和31年に造船業で世界一となり、現在まで造船大国として栄えてきた。背景には、大和に注ぎ込まれた高度な技術や人材があった。効率的な生産管理システムのほか、薄くて速く造れる装甲板の技術は製鋼業に、高い精度を誇った世界最大の測距儀は、その後のカメラ技術に生かされた。

 戦艦大和は3332名中3056名の方と九州南西沖水深350メートルのところに沈んでいる。大和は当時日本の科学技術とものづくりの結晶として生まれた。しかし、遺憾なくその性能を発揮する機会はあまりなかったが、その技術が花開いたのはむしろ、戦後だ。

 志を持って日本を守ろうとした乗組員、生存者、遺族、大和の建造に一生懸命頑張ってきた科学技術者、ものづくりの職人たち。こういう人たちの思いを消し去ることなく後世まで伝えていけば、先人たちが喜んでくれると思う。


 あいはら・けんじ 今年4月から、戦艦大和の元乗組員や遺族らでつくる「戦艦大和会」顧問。呉市顧問。講演当時は、大和ミュージアム統括。呉市史や日本海軍史など近現代史研究や歴史を生かしたまちづくりに取り組み、全国で講演を行う。大和ミュージアム建設事業にも携わり、平成11年には大和の潜水調査も行った。
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87凡人:2015/05/01(金) 05:28:30 ID:ve6M5DlE0
抑留死名簿新たに1万人、シベリア外2130人
2015年05月01日 02時09分Yomiuri

厚労省が公表した旧ソ連による抑留中に死亡した人のロシア語で書かれた名簿=写真

 厚生労働省は30日、第2次世界大戦後に旧ソ連が設置した収容所などで死亡した日本人抑留者のべ1万723人の名簿を新たに公表した。

 このうち、現在の北朝鮮や南樺太(現サハリン)など、シベリア以外の抑留死亡者は2130人。厚労省はこれまでシベリア以外での死亡者の名簿を公表していなかったが、戦後70年となり、遺族への情報開示を進めるため、保有資料をすべて公表することにした。

 名簿は、旧ソ連が作成し、ロシアの国立軍事古文書館や国防省などが開示した死亡者名簿などを基に、厚労省がまとめた。カタカナ氏名と死亡日、埋葬地を明らかにし、日本側資料との照合で身元が特定できた2660人については、漢字氏名と出身地も併記した。

 地域別では、シベリア抑留(ナホトカなど沿海地方を含む)の死亡者が8593人。残る2130人はシベリア以外で、内訳は、▽朝鮮半島北部(現在の北朝鮮)興南地区1853人、元山地区11人▽中国・大連178人▽南樺太・千島列島88人――だった。

 名簿はおおむね、抑留先の収容所や病院、強制労働を目的に振り分けられた「労働大隊」などの単位で作成されている。今回の公表で、南樺太・千島列島の死亡者のうち30人以上が労働大隊に所属していたことが判明。抑留に詳しい研究者は「シベリア以外でも強制労働があったことが裏付けられた」と指摘した。

 ただ、抑留中に死亡したのに名簿に氏名がない人もおり、厚労省はロシア側の資料をすべて取得できたわけではないと思われる。同一人物が重複して名簿に掲載されているケースもあるとみられ、厚労省は精査を進める。

 抑留死亡者の調査を巡っては、1991年に来日した当時のゴルバチョフ大統領からシベリアでの死亡者名簿(約3万7000人分)が提供されたのを機に、旧厚生省が本格着手。原則、身元を確認して公表してきた。シベリア以外の死亡者名簿も、2000年以降に入手していたが、シベリアの調査を優先して公表はしていなかった。

88凡人:2015/05/15(金) 17:44:21 ID:da95RwFo0
大学のシンボルである直属応援団が愛する高崎にあった陸軍歩兵第十五連隊。先に秩父事件の鎮圧出動したことに触れた。日本のために戦い玉砕していった第十五連隊を糾弾するつもりは毛頭ない。彼らは彼らの当時の義務をまっとうしたに過ぎない。彼らはいわば戦争の犠牲者。その勇敢さに畏敬の念は起こるものの、だからといって、盲目に崇拝することはできない。政治家を中心に、戦争美化、日本の歴史浄化を企てる動きがとても気になる戦後70年を迎えた今。太平洋戦争の風化が甚だしい。これから生まれてくる子供たちのためにも、真実を明らかにすることが益々重要性と緊急性を帯びている。真実を次の世代に残すことは我々の義務と確信する。それを知ることにより初めて、同じ不幸が起こらないような対策が一緒になって考えられるからである。間違いは間違いとはっきり言える勇気。そういった勇気もが、同じように尊敬される社会に生きたいものだ。
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Mar.2007
BC級戦犯裁判にみるビルマ・カラゴン村事件
―裁かれた高崎215連隊―
岩根 承成

http://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-07/iwane.pdf

事件の概要について。アジア太平洋戦争末期の1945年7月上旬、群馬県高崎の連隊歩兵第215連隊第3大隊による、タイ国境近くのビルマ東南部モールメン地方のインド人部落カラゴン村殲滅作戦が強行された。その結果、少なくとも女、子供を含む600人以上の住民が虐殺され、約10人の若い女性住民が拉致され、その後村が焼き払われた。

(1)「戦争犯罪者を裁く軍事法廷」
1)被告一覧
「 全員 日本帝国陸軍第33師団第215連隊第3大隊 1から8
 全員  憲兵隊 9から14」

9)被告の個人別の抗弁・弁明
被告1(市川清義・大隊長) 少佐 イチカワ セイギ
彼は上官からの命令を受け、それを実行する他はなかった。虐殺は拒否されることなく、迅速か
つ人間的に実行された。いかなる村民も拷問を受けず、子供は世話をする人がいなくなれば孤児
として後に残されるので、それを避けるために殺す必要があった。彼は10人の女性を拉致した
ことを認めたが、村長の妻は虐殺されたと述べた。女性たちは日本軍のスパイとして働くために、
自らの自由意志で来たのだと。

被告4(柳沢泉)、5(緑川寿)、7(田島一郎)
これら被告は、実際の虐殺を実行した中隊長であった。彼らは、村民を駆り集めたこと、銃剣で
突き刺すことを指揮したことは認めた。それは自分たちが受けていた命令に基づいてなされたも
のであり、自分たちには命令に従う義務があり、行為は迅速かつ人間的になされたと述べた。彼
らは、殺害に先立ついかなる村民への虐待も否定し、逃れた村民が事件全体の話を歪曲、誇張し
ているのだと述べた。
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89凡人:2015/05/15(金) 17:49:03 ID:da95RwFo0
(2)村民の法廷証言
事件に遭遇しながら、生き延びられた村民が、次々と法廷で証言した。ここでは2人の村民の法廷証言を抜粋して「 」内に示し(一部要約)、考察を加える。Aが証言者である。

○カラゴン村長(37歳) Mohd Usoofの証言
Q 日本兵は村人をどこに集めたのですか。
A 男はモスク、女は近くの聖職者の施設(zayato)に集められるのを見ました。
Q 集められた村人は、何人でしたか。
A 600 人以上。
Q 集められた村人は、日本兵にどのような扱いを受けましたか。
A 両手を背中で縛り、長いロープで一人ずつ繋ぎ、10〜15人ずつの固まりとなって、ちょっと
離れた井戸まで連れて行かれるのを見ました。それから悲鳴を聞いたのです。
Q 彼らが井戸に着いて、そこで何が起こったか見ましたか。
A 引きずられ、目隠しされ銃剣で突き刺され、井戸に投げ込まれるのを見ました。
Q 銃剣で刺すのはどのくらい続きましたか。
A 3時から6時半までです。暗くなった後、子供や女が悲鳴を上げるのを聞きました。
Q あなたが12日にカラゴンへ戻った時の村は、どのような状態だったのですか。
A 家はすべて焼け落ち、井戸は死体だらけでした。
Q カラゴンでは何人が殺されたか分かりますか。
A 600人以上だと思います。
Q 何人が行方不明でしたか。またその男、女、子供の内訳も教えてください。
A 637人。男が174人、女が195か196人、子供が266か267人です
Q 女性や子供たちが日本軍に逆らって行動していると、あなたは本当に思っていたのですか。
A はい。
Q 幼い子供たちを殺したことを、どのように弁明しますか。
A 子供たちに対してとるべき他の方法がありませんでした。
Q それをもう少し詳しく説明してください。
A 第一に、私が受けた命令には、子供たちを殺すことも含まれていました。もし、子供たちの命を助けたら、彼らは孤児になり、生きていくこともできないでしょう。時間を節約し、私の任務を遂行するため、彼らを殺さざるを得ませんでした。
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90凡人:2015/05/15(金) 17:51:15 ID:da95RwFo0
次に、「10〜15人ずつの固まりで井戸まで連れて行かれ」、そこで「銃剣で突き刺され、井戸に投げ込まれた」など、殺害されるまでの日本軍による村民の扱いと殺害状況が、生々しく証言されている。この「固まり」は「20〜30集団」とも述べており、この地獄が3時間以上にわたったとも証言している。

なお、井戸の数について、別の証人Supe An(男性35歳・農業)は「死体の入っていた井戸はいくつありましたか」の質問に、「22のすべての井戸です」と答えている。また、Abudul Rashid(男性24歳)は実際に調べた結果を、「死体が投げ込まれたのは22の井戸でした」と、証言している。

さらに、女性拉致については、12人が連れ去られ2人が逃げ帰ったと証言した。逃げ帰った1人Haki (Haky)Janは、この時証言者として法廷に出廷していることが確認された。残りの女性については、後に日本軍の手で殺害された8)。

④ 戦時国際法・ハーグ「陸戦の法規慣例に関する条約」への認識
「Q 1907年の陸戦の法規慣例に関するハーグ協定・条約を聞いたことがありますか。
A その協定という言葉は聞いたことがありますが、詳細は知りません。
Q 日本がこのハーグ協定の加盟国であることに気づいていましたか。
A 忘れていました。
Q 日本軍が戦争における国際ルールを守る義務があることに気づいていましたか。
A はい、知っています。
Q 占領軍は占領地の住民に対してある義務があることに気づいていましたか。
A いくつかあるかもしれません。
Q 大多数のカラゴン村民が、確かにスパイとして働いたと見なしましたか。
A はい。
Q スパイを、適切な裁判なしに処刑できないことを知っていましたか。
A それは知りません。
Q もし、あなたがイギリスのスパイであるゲリラを捕まえたら、その場で処刑はしないですね。
A はい。しかし村民らは敵と協力していたため、彼らを敵と見なしました。 」

以上、戦争法であるハーグ「陸戦の法規慣例に関する条約」について、大隊長であり少佐の地位にある市川が十分な認識を持っていなかったこと。裁判なしに捕虜やスパイを処刑できないという規則さえ、「知りません」と答えるなど、日本の軍隊内では戦争法がいかに軽い存在であったかが分かる。

付記) 筆者のカラゴン村事件研究への取り組みは、1998年刊『新編高崎市史 資料編10』編さんの仕事に始まり、その後、前掲3本の拙稿の執筆、2001年度前橋国際大学公開講座、2006年第10回戦争遺跡保存全国シンポジウムにおける報告の機会を経て、本稿の執筆に至った。この間、多くの方々からのご教示、ご協力を頂いた。記して感謝したい
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91凡人:2015/06/25(木) 01:29:39 ID:da95RwFo0
「ひめゆり」涙で校歌 慰霊祭に元学徒や遺族ら400人参列
2015/6/24 1:58 Nikkei

 沖縄戦の犠牲者らを悼む「慰霊の日」を迎えた沖縄県は、23日午後も各地で冥福を祈る式典が営まれた。傷病兵の看護のために動員された「ひめゆり学徒隊」の慰霊祭も開かれ、元学徒や遺族ら約400人が参列した。

 同学徒隊は沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校で編成。生徒222人が動員され、123人が犠牲になった。同窓生は慰霊碑「ひめゆりの塔」(糸満市)での式で両校の校歌を涙ながらに歌唱。元学徒で、ひめゆり平和祈念資料館の島袋淑子館長(87)は「ひめゆりの塔も資料館も平和の砦(とりで)になってほしい」と取材に答えた。

 学徒だった姉を亡くした富田静子さん(82)は「憧れの存在で、教師になって頑張るつもりだったはずの姉。戦争に巻き込まれて悔しいという思いは今も変わらない」と悲痛な表情を浮かべた。

 また県教育委員会は23日午前、糸満市内の小学校から最後の激戦地、摩文仁(まぶに)まで歩き、沖縄戦への理解を深めてもらう「ピースウオーク」を初めて実施。県内の高校生約150人が参加した。県立真和志高校3年、酒井弘輝さん(17)は「きょうの自分たちには飲み物もあるし帽子もあったが、当時は何もなく、はだしで歩いたと聞いた。当時の人たちのつらさを感じた」と汗を拭っていた。

92凡人:2015/08/01(土) 11:25:36 ID:da95RwFo0
「加害の歴史」にも力 前橋で戦争写真展、300点展示【群馬】
2015年8月1日東京中日

中国人強制連行の関連写真を見学する市民=前橋市で

 終戦の日を前に、「2015平和のための戦争写真展」が三十一日、前橋市本町の前橋プラザ元気21で始まった。今年は戦後七十年に合わせ、最終日の二日に特別講演会を開く。

 戦後五十年から毎年開かれており、県平和委員会など六つの市民団体が主催。主催団体に日中友好協会前橋支部と日朝協会群馬支部が参加し、日本が中国や朝鮮半島に侵略した「加害の歴史」にも力を入れている。

 写真展は入場無料で、約三百点を展示。多数の中国人が県内に強制連行された「藪(やぶ)塚(太田市)・月夜野(みなかみ町)事件」に関連する写真、中国・南京の虐殺現場とされる写真が並ぶ。

 展示には、高崎にあった陸軍歩兵第一五連隊がパラオで多くの戦死者を出した様子や、前橋空襲、広島と長崎の原爆、沖縄戦などの写真もある。

 会場で、日中友好協会県連合会の山本健二理事長(74)は「前橋空襲を経験し、市民が次々と犠牲になる姿を目撃したのが私の原点。日中戦争への反省から、日中友好に関わってきた。中国・南京などの現地を見学したが、何らかの虐殺行為があったのは史実と実感した」と指摘した。

 二日は午後一時半から、慶応大の大西広教授(中国・アジア経済論)が、「知らないですまない戦後七十年-どうする隣国関係」と題して前橋プラザ元気21で講演する。

 資料代三百円。事前予約は必要ない。問い合わせは、山本理事長=電027(251)0466=へ。 (菅原洋)

93凡人:2015/08/08(土) 01:43:00 ID:da95RwFo0
広島への原爆投下を伝えるアメリカの1945年8月7日付けの当時の新聞記事。
(Originally published by the Daily News on August 7, 1945. This story was written by Jack Doherty.)
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http://www.nydailynews.com/news/world/u-s-drops-atomic-bomb-hiroshima-1945-article-1.2286808

U.S. drops the atomic bomb on Hiroshima in 1945
NEW YORK DAILY NEWS
Wednesday, August 5, 2015, 12:00 PM

THE PHOTO PROVIDED BY U.S. ARMY VIA HIROSHIMA PEACE MEMORIAL MUSEUM, NO SALES, CREDIT MANDATORY AP provides access to this publicly distributed HANDOUT photo to be used only to illustrate news reporting or commentary on the facts or events depicted in this image. AP
A mushroom cloud billows about one hour after a nuclear bomb was detonated above Hiroshima, Japan on Aug. 6, 1945.

WASHINGTON, D.C., Aug. 6 - The most terrible weapon in history - an atomic bomb with more explosive power than 20,000 tons of TNT - was dropped on Japan last night, it was disclosed today as President Truman hurled a new ultimatum at the [Japanese], warning them to surrender or be wiped out.

In revealing the most closely guarded secret of World War II, the President announced in a dramatic statement issued through the White House:

“Sixteen hours ago (7 P.M. Sunday, New York time) an American airplane dropped one bomb on Hiroshima, an important Japanese army base. The bomb had more power than 20,000 tons of TNT. It had more power than 2,000 times the blast power of British ‘Grand Slam,' which is the largest bomb ever yet used in the history of warfare… it is an atomic bomb. It is a harnessing of the basic power of the universe. The force from which the sun draws its power has been loosed against those who brought war to the Far East.”

ATOMIC BOMB DROPPED ON NAGASAKI IN 1945

The extent of damage from superbomb No. 1 was not immediately learned. A War Department statement said that “reconnaissance planes state that an impenetrable cloud of dust and smoke covered the target area.”

“As soon as accurate details of the result of the bombing become available, they will be released by the Secretary of War,” it added.
Atomic bomb was dropped on Japan, published August 7, 1945.
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Atomic bomb was dropped on Japan, published August 7, 1945. Atomic bomb was dropped on Japan, published August 7, 1945.

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New York Daily News
Atomic bomb was dropped on Japan, published August 7, 1945.

(The Associated Press pointed out that the one atomic bomb dropped on Japan carried a wallop more violent than 2,000 B-29 superfortress normally could hand a city, using the old type TNT bombs. One B-29 ordinarily can deliver about 10 tons of TNT bombs to a target.)

Last night’s bomb hit Hiroshima, on the Inland Sea, on the southeast coast of the main [Japanese] home island of Honshu. Truman warned that others would strike if the [Japanese] did not surrender immediately.

“It was to spare the Japanese people from utter destruction,” the President said, “that the ultimatum of July 26 was issued at Potsdam. Their leaders promptly rejected that ultimatum. If they do not now accept our terms, they may expect a rain of ruin from the air, the like of which has never been seen on this earth. Behind this air attack will follow sea and land forces in which numbers and power as they have not yet seen and with the fighting skill of which they are already aware.”
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94凡人:2015/08/08(土) 02:06:42 ID:da95RwFo0
Even Deadlier Ones Coming.

War Secretary Stimson revealed that even deadlier atomic bombs will soon be made. “Improvements,” he said, “will be forthcoming shortly which will increase by several fold the present effectiveness” of the terror weapon.

Stimson flatly declared that “we are convinced that Japan will not be in a position to use an atomic bomb in this war,” and added that “it is abundantly clear that the possession of this weapon by the U.S. even in its present form, should prove tremendous aid in the shortening of the war against Japan.”

Here, superimposed on an aerial photo of Manhattan and Long Island City, are the boundaries of Hiroshima (broken white line) first city to feel the effects of the atomic bomb.

New York Daily News
Here, superimposed on an aerial photo of Manhattan and Long Island City, are the boundaries of Hiroshima (broken white line) first city to feel the effects of the atomic bomb.

The use in combat of the single atomic bomb was the culmination of three years of effort by science, industry, and the Army. So closely guarded was the secret of the new weapon that 125,000 workers at three hush-hush plants in Richland, Wash.; Oak Ridge, near Knoxville, Tenn., and near Santa Fe., N.M., never knew what they were producing, in more than two and one-half years.

On the super weapon, which works on an entirely new theory, the U.S., in cooperation with the British, gambled $2,000,000,000 that scientists could smash the atom, thus releasing the deadliest source of power ever discovered. Truman said that “we have spent $2,000,000,000 on the greatest scientific gamble in history and - won.”

The atomic bomb uses uranium as the essential ore in its production. War Secretary Stimson said that “steps have been taken and will continue to be taken to insure adequate supplies of this mineral.”

Race of Scientific Minds.

President Truman’s statement revealed that the bomb, despite its imagination-staggering deadliness, has an “exceedingly small” physical size, which confounded workers at the three atomic bomb plants. “They see great quantities of material going in and they see nothing coming out of these plants,” he said, “for the physical size of the explosive charge is exceedingly small.”

The history of the atomic bomb is also the history of feverish race among Germany’s scientific minds, and the combined scientific minds of the U.S. and Great Britain. The Battle of the Laboratories,” as President Truman called it, “held fateful risks for us as well as the battles of the air, land and sea, and we have now won the battle of the laboratories as we have won the other battles.”

YOTSUGI KAWAHARA/AP
Nuclear bomb victims are sheltered at the Hiroshima Second Military Hospital's tent relief center at the banks of the Ota River in Hiroshima, Japan, one day after the world's first nuclear bombing.

Prior to 1939, it was an accepted scientific belief that, theoretically, the atom could be smashed to release atomic energy. No one, however, knew any practical method of doing it. By 1942, the Germans, President Truman said, were working 24 hours a day to find a way “to add atomic energy to the other engines of war with which they hoped to enslave the world. But they failed.”

“Beginning in 1940, before Pearl Harbor, scientific knowledge useful in war was pooled between the U.S. and Great Britain, and many priceless helps to our victories have come from that arrangement,” he continued. "Under that general policy the research on the atomic bomb was begun. With American and British scientists working together, we entered the race of discovery against the Germans.”
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95凡人:2015/08/08(土) 02:07:57 ID:da95RwFo0
Experiments Conducted Here.

The late President Roosevelt and former Prime Minister Churchill, Truman said, agreed that experiments should be conducted in this country, free from bombing attack and threat of invasion.

Highly praising the resultant success of the combined Anglo-American efforts, the President commented: “What has been done is the greatest achievement of organized science in history. It was done under high pressure and without failure.”

With use of the shattering new weapon, he added, “we are now prepared to obliterate more rapidly and completely every productive enterprise the Japanese have above ground in any city. We shall destroy their docks, their factories, and their communications. Let there be no mistake; we shall completely destroy Japan’s power to make war.”

END OF THE WAR/HIROSHIMA PHOTO PACKAGE(FILES) This file photo dated 10 August 1945 shows two brothers who survived the atomic bombing of Hiroshima four days earlier. Around 140,000 people, or more than half of Hiroshima's population at the time, died in the first atomic bombing 06 August 1945, with another 70,000 people perishing in the bomb dropped over Nagasaki 09 August 1945. Following the bombings, Japan surrendered 02 September 1945 to Allied forces, officially ending World War II, bringing down the curtain on the costliest conflict in history. The 60th anniversary of the bombing of Hiroshima will take place with ceremonies in the Japanese city on 06 August 2005. AFP PHOTO/HO/FILES

AFP/AFP/Getty Images
This file photo shows smoke billowing 20,000 feet above Hiroshima, Japan while smoke from the burst of the first atomic bomb spread over 10,000 feet on the target at the base of the rising column.

Truman said he would recommend to Congress establishment of a commission to control production and use of atomic power in the U.S., and that he would “give further consideration and make further recommendations” to Congress as to how atomic power can become a “powerful and forceful influence towards the maintenance of world peace.”

Stimson announced that the man who directed the Army’s $2,000,000,000 job of discovering and perfecting atom-smashing was Major Gen. Leslie R. Groves, formerly of Pasadena, Calif., who now lives here. Groves, for the past three years, has held the title of commanding officer of the “Manhattan Engineering District,” the phony name given the hush-hush project to fool spies.

Many Plants Played Part.

A partial list of industrial firms which contributed “so signally” to the atomic bomb, as given out by Stimson, included:

Du Pont de Nemours & Co., which designed and constructed the mammoth Hanford installations in the State of Washington; a special subsidiary of the M.W. Kellogg Co., of N.Y., which designed one of the plants at Clinton, Tenn.; The J.A. Jones Co., which built the Clinton plant, and the Union Carbide and Carbon Co., which operates it. Other firms listed were the Stone & Webster Engineering Corp., Allis-Chalmers, Westinghouse, Chrysler, General Electric and Tennessee Eastman Corp.

Stimson also named a policy committee, with Truman’s approval, to formulate recommendations for postwar organization of atomic power development.

On the committee are Stimson, as chairman; and State Secretary Byrnes; former Undersecretary of the Navy Ralph A. Bard; Assistant Secretary of State Will Clayton Harvard President Dr. James Conant; M.I.T. President Dr. Karl T. Compton; and George L. Harrison, president of the New York Life Insurance Co., who is now a special consultant to Stimson. He was named alternate chairman of the committee.

Stimson also revealed that a combined policy committee, set up in August, 1943, to expedite production, was staffed by Stimson, Bush and Conant for the U.S.; Field Marshal Sir John Dill and Col. J.J. Llewellin for the United Kingdom; and C.D. Howe, for Canada.
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96凡人:2015/08/13(木) 03:12:52 ID:da95RwFo0
前橋の女高生が爆弾製造 戦後70年「その時、子どもたちは」戦時下の教育
2015年08月12日高崎前橋経済新聞

群馬県立前橋高女(現在の前橋女子高校)の女高生らが作っていた「風船爆弾」の傘の部分のレプリカ(縮小版)

 戦後70年、学校教育を通して戦争の悲惨さを訴える「戦時下の学校教育展 その時子どもたちは」が8月10日、「前橋市総合教育プラザ」(前橋市岩上3、TEL 027-230-9095)で始まった。

【写真】風船爆弾の製造の様子(前橋市立高等女学校)

 1931(昭和6)年の満州事変から日中戦争、太平洋戦争と戦火が拡大するに伴い、勤労奉仕や勤労動員など教育現場も戦争の色が濃くなる。

 戦争末期には、群馬県立前橋高女(現在の前橋女子高校)、前橋市立前橋高女(現在の市立前橋)、共愛女学校(現在の共愛学園高校)、久留万国民学校(現在の中央小)の生徒が、日本軍が計画した秘密兵器「風船爆弾」関連の作業に携わっている。

 戦争に染められていく教育現場。1945(昭和20)年8月5日、後に前橋大空襲と呼ばれるようになる空爆が襲う。この空爆により市街地にあった国民学校(現在の小学校)3校、共愛女学校、県立前橋高女、前橋工業学校(現在の前橋工業高校)、平方実業女子校が焼失した。

 同展では資料、写真など約200点の展示を通して、恒久平和を訴える。

 開館時間は9時〜17時。入館無料。9月30日まで。日祝、第2第4土曜休館。

97凡人:2015/08/20(木) 10:45:13 ID:da95RwFo0
【北関東の戦争遺跡】
旧中島飛行機地下工場(群馬県太田市)
2015.8.20 07:04 Sankei

 ■特攻機製造拠点 未完のまま終戦

 太田市。北関東随一の工業都市であるこの街には、飛躍的な発展を遂げた富士重工業がある。同社の前身は、終戦まで高い技術力を備え、日本の航空機やエンジンメーカーとして東洋最大、そして世界有数の航空機メーカーの中島飛行機製作所だった。元海軍機関将校の中島知久平が大正6年12月に飛行機報国を念じて創設した。

 創業以来終戦までに製作した機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種で、総生産機数は2万5935機に及んだ。工場は分散され、太田工場では陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を生産したとされている。

 なかでも、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」は、陸軍を代表する戦闘機の主力機として使用された。だが、数々の偉業を成し遂げた中島飛行機は、米軍の戦略爆撃の主要な攻撃目標とされ、B29による爆撃で太田工場は徹底的に破壊された。

 米軍の空襲を避けるため建設を進めた旧中島飛行機太田地下工場は、広大な太田市八王子山公園墓地(西長岡町)の奥にある樹木に覆われた人目に付きにくい丘陵地に残る。戦局が悪化し、本土決戦に備えて昭和20年1月に建設を開始。特攻機の製造を目指したが建設途中に終戦となったという。

 地下工場の建設作業に携わったのは1500人とされ、10時間交代の突貫工事だったといわれている。計画では1トン爆弾に耐え、工場の規模は約2ヘクタール、操業開始は20年11月としていた。

 「旧中島飛行機太田地下工場を保存する会」の代表で、戦争遺物に詳しい石塚久則さん(68)は、「戦後、米国の調査団が入ったときには、工場につながる地下道は崩壊していた」という。

 太田市史によると、「終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われたが、調査に訪れた20年11月13日には、既にすべての入り口が崩れ落ちていたため、工場の地下道の調査は不可能であった。幅13フィート、高さ11フィートの地下道30本は完全に掘り抜かれ、木材の支柱が立てられていた。工場内には工作機械は設備されず、運び込まれてさえもいなかった。たった1本のかろうじて小型四輪駆動車が通行できるような非常に狭い道を通って、工場跡地までたどり着いた」としている。

 石塚さんは、「地下道の入り口は土が柔らかく、崩落の危険性があり中には入れない。ただ昔、村の子供が入り込み迷子になったという話は聞いている。未完成だったが、とても広かったのではないか」と話す。

 地下道は今、金属の円筒で補強され、入り口前には「立ち入り禁止」の看板と柵が設置されているだけである。(前橋支局 平田浩一)

98凡人:2015/08/29(土) 11:11:51 ID:da95RwFo0
太田の戦争遺跡「地下工場」知って きょう、あす「戦争記録展」米軍調査の図面など【群馬】
2015年8月29日 東京中日

現存する地下工場跡の入り口=太田市の八王子公園墓地で

 太平洋戦争末期、中島飛行機が太田市の八王子丘陵に地下工場の建設を進めていた。地下工場跡の保存や研究に取り組む「中島飛行機太田地下工場跡を保存する会(トンネルの会)」は二十九日と三十日に、同市菅塩町の強戸行政センターで「太田戦争記録展2015」を開く。米軍が調査した地下工場の図面など、東毛地域の戦争遺跡の資料を展示する。

 地下工場は米軍の空襲を避けるため、一九四五(昭和二十)年一月に建設を開始。約二ヘクタールの敷地に碁盤の目のようにトンネルを通す計画だったが、完成前に終戦を迎えた。完成していれば特攻機を製造する予定だった。

 約三千人が十時間交代制で働き、強制労働させられた中国人も命を落としたとされる。終戦時点で計画の半分にあたる範囲に幅四メートル、高さ三、四メートルのトンネルが三十本掘り抜かれ、木材の支柱が立てられていた。十一月に米軍の調査団が訪れた時には既に全ての入り口で崩落が始まっていたという。

 現在はトンネルの入り口の一つが、西長岡町の八王子公園墓地の斜面に残るのみだ。入り口近くに由来を解説する市教委の看板が立っている。内部へは立ち入り禁止になっている。

 トンネルの会は地域の戦争の歴史を伝えようと地元の有志が結成。二十三年前から毎年、地下工場近くで記録展を開いている。石塚久則会長(68)は「始めた当初は『トンネルを掘ったことがある』とか『働いていた中国人を見た』という人もいたが、今ではほとんどいなくなった。地元の人にこそ地元の戦争とはどんなものだったか理解してほしい」と話している。

 展示は午前九時〜午後四時で、入場無料。 (原田晋也)

99凡人:2015/09/10(木) 09:51:05 ID:da95RwFo0
言論抑圧の時代知って 我孫子で「アサヒグラフ」から見る戦時報道展【千葉】
2015年9月9日 東京中日

戦況を勇ましく伝える「アサヒグラフ」=我孫子市の杉村楚人冠記念館で

 雑誌「アサヒグラフ」から、戦時中のメディアの報道姿勢を紹介する企画展が、我孫子市の杉村楚人冠(そじんかん)記念館で開かれている。紙面からは、戦意高揚が強調された時代の空気が伝わってくる。 (三輪喜人)

 戦後七十年と市の平和都市宣言三十年の記念事業。杉村楚人冠は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリストで、記念館によると、アサヒグラフが一九二三年に創刊されるときの編集責任者だった。

 会場には、戦況が悪化した四四年十月〜四五年三月までの同誌十二点を展示。B4判の週刊誌で、誌面には勇ましい言葉で日本を美化する記事が並ぶ。

 特攻隊の出撃ルポでは、見出しや文章で「神」の言葉を使い、特攻隊員を神格化。自爆攻撃を「敵艦に突撃する神鷲」と表現した。

 働き手を戦場に取られ、苦しいはずの農村でも、紙面に登場する人たちの表情は晴れやか。写真には「あなたの汗が手不足も肥料不足をも征服した」との説明が添えられ、明るく闘う農民を印象づける。

 劇場を工場に変えたり、大阪の中心部で畑作が行われていることを報じたときは、「国民の士気は下がるどころか、尻上がりである。決戦の十九年を送り、決勝の二十年を迎えようという東京、大阪の街頭風景には悲壮感などみじんもない」と伝えている。

 担当した同館の高木大祐さんは「暗い部分を一切出さず、真剣な表情か笑顔で埋め尽くし、日常生活の記事が戦意高揚に組み込まれている。軍の検閲もあり、言論が抑圧されていた」と指摘。「暮らしが悪くなる中で、これを読んでいた当時の人の気持ちを想像してみてほしい」と話した。

 杉村楚人冠は当時、同誌に随筆を連載し、絶筆となった号も並ぶ。十月四日まで。月曜休館。

100凡人:2015/11/17(火) 15:44:37 ID:da95RwFo0
「知らぬ間に戦争に巻き込まれた」。知っていた筈である。ところがあっという間。日本の場合は核融合と同じで、権力が決めたことがいったん運動として始まると止まることが難しくなり、益々加速する。みな右に盲目に従う。物事を考える筈の教授たちや学生たちは学んだことはかき捨てて、いつの間にか戦争遂行の歯車に化す。アメリカの警告に従って中国侵略を止めていたら、この時点で未曾有の日本人犠牲者や国土の破壊は防げた筈である。また戦争を当時真っ向から公然と反対した人物たちが、日本の真のヒーローとして戦後崇めなければいけないだろう。ところが彼らは闇に葬られたまま。なんと戦争拡大をしアメリカを戦争に巻き込んで、日本を滅亡一歩手前まで持っていった軍人たちが英霊として祭られる日本。理屈では理解できない宗教国日本の一面を覗かせている。
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法大、学徒出陣2500人の記録 平和祈念碑建立20年を記念【東京】
2015年11月17日

写真=「戦争は自分たちと無関係、と考える学生に先輩の無念を伝えたい」と語る加藤さん=町田市の法政大多摩キャンパスで

 太平洋戦争中、法政大学から、学徒出陣で約二千五百人が動員された。その学生たちの遺品などを集めた学徒出陣資料展が十六日、町田市相原町の法政大多摩キャンパスで始まった。学内に学徒出陣の記憶を回顧する平和祈念碑を建立して二十年になることを記念した展示で、二十一日まで。 (栗原淳)

 動員された学生たちは、繰り上げで卒業するなどして学舎に別れを告げ、出陣した学生のうち約二百人が戦死した。大学では学徒出陣の証言や資料を収集しており、その一部が公開されている。会場のエッグドーム二階には、学生を写真付きで紹介するパネル、当時の戦況を伝える新聞など約三十点が並ぶ。

 野球部のエースで東京六大学野球で活躍した坪谷幸一さんは、特攻隊として沖縄方面に出撃し、帰らぬ人になった。坪谷さんの遺影や出身高校の恩師にあてた遺書も展示されている。

 主催した法政大経済学部同窓会は、学部OBで学徒出陣を経験した俳優の故根上淳さんが中心となり一九九五年、学部がある多摩キャンパスに祈念碑を建てた。副会長の加藤毅さん(78)は「当時の学生は、まさか自分が前線に行くとは思っていなかっただろう。知らぬ間に戦争に巻き込まれた。政治や社会の動きには常に敏感になって」と後輩に呼び掛けた。

 午前九時〜午後五時。無料。二十一日は午前十時半から、記念講演などで構成する「戦争と平和を共に考える集い」があり、根上さんの夫人で歌手のペギー葉山さんもあいさつする。問い合わせは同窓会=電042(783)2550=へ。

101凡人:2016/01/11(月) 13:06:49 ID:da95RwFo0
東京外大80年越し むのさんらに卒業証書【社会】
2015年11月1日 朝刊

卒業証書を手渡され、笑顔で掲げるジャーナリストむのたけじさん=31日、東京都府中市で

 東京外国語大(東京都府中市)は三十一日、戦争の混乱などが理由で卒業式に出られなかった十四人に卒業証書を授与した。授与式には本人四人と一人の遺族に加え、一九三六年に卒業した百歳のジャーナリストむのたけじさんも出席し、学徒出陣を経験した後輩たちと共に証書を受け取った。

 大学によると、記録がなく詳細は不明だが、三六年は同年二月に起きた「二・二六事件」の影響で卒業式ができなかった可能性がある。戦時中もできない年があったほか、終戦前後は式に出席できない学生も多くいた。

 戦後七十年に当たり、証書を受け取っていない可能性のある当時の卒業生らに呼び掛けたところ、むのさんのほか四一〜四六年に卒業した十三人が受け取っていないと判明。うち三人は亡くなっており、遺族が受け取りを希望した。

 むのさんは三二年、前身の東京外国語学校に入学した。卒業試験と二・二六事件が重なり、当時皇居の近くにあった学校は包囲されて近づけなかったという。その後に卒業式があったのかどうか、記憶ははっきりしない。

 証書を受け取ったむのさんは、あいさつで「個人の運命が軍国主義の波にもてあそばれる時代。惨めな状況だった」と振り返り「感謝と尊敬を母なる学校にささげたい」と力強く語った。

 東京都江戸川区の堀川敏雄さん(92)も授与式に出席。四二年に入学し、翌年、学徒出陣で召集された。語学力を買われて海軍の情報士官に。広島への原爆投下の米国側発表もいち早く知ったという。

 卒業後は通信社の特派員として海外で活躍し「大学で培った語学力が人生を助けてくれた」。式の後、証書をじっと見つめながら「ようやく一つ、けりをつけられた」と感慨深げだった。

102凡人:2016/02/26(金) 10:07:51 ID:VlxKdLtM0
二・二六事件から80年 「血染めの芝生」警護の誇り今に伝える
2016.2.26 07:44 Sankei

殉職した清水与四郎巡査が倒れたとされる「血染めの芝生」に水をやる警視庁警備部の関岡明警護課長(後方の写真は殉職した警察官に遺影)=2月25日午後、東京・霞が関の警視庁(宮川浩和撮影)

 陸軍の青年将校らが軍事クーデターを狙った昭和11年の「二・二六事件」は、26日で80年となる。政府要人が殺傷され、首相官邸など日本の中枢が占拠された大事件。警視庁も応戦したが強力な武装と兵力に圧倒され警察官5人が殉職した。東京・桜田門の警視庁本部には当時をしのぶ“遺品”が引き継がれ、首都の治安を担う誇りを今に伝えている。

 警視庁本部16階。警護課の窓辺に置かれたプランターに芝生が茂っている。首相官邸で襲われた岡田啓介首相(当時)を警護中に殉職した清水与四郎巡査=当時(29)=が倒れ、鮮血で染まった庭の芝生を移植したものだ。

 「命がけで警護する。同じ任務を持つ先人の誇り、気概を感じる」と警護課の関岡明課長は語る。同課には、首相や外国元首ら要人を守るSP(セキュリティーポリス)が所属する。

 警視庁史などによると、清水巡査は官邸の裏門に近づく部隊に気付き、岡田首相に危険を伝えた。直後、侵入した兵士と銃撃戦になり、十数発を被弾。事件当日は大雪で、鮮血は積雪を溶かし芝生に染みた。この間に、岡田首相は身を隠して、九死に一生を得た。

 事件後、岡田首相は東京都葛飾区の浄心寺に清水巡査の墓を建立。「清水与四郎君の殉(たお)れた場所の芝草」と記した碑の前に芝生も移植された。同課は参拝を続けてきたが、事件を後進に伝えようと平成9年末、寺に依頼してプランター1鉢分を譲り受けた。毎日、課員が水やりを欠かさず、大切に手入れされている。

 首相官邸は14年に新築。警視庁もテロなどに対処する総理大臣官邸警備隊を新たに発足した。同隊は警護課に置かれ、約100人が勤務している。

 海外で過激組織などのテロが相次ぎ、日本でも緊張感が高まる中、主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)が5月に迫る。「サミットはもちろん、日々一つ一つの警護全てが重要だ。先輩方の心構えをかみしめつつ、任務に当たりたい」。関岡課長は力を込めた。

 二・二六事件 昭和11年2月26日、陸軍の青年将校が1483人の兵を率い起こしたクーデター。天皇親政を唱えて高橋是清蔵相、斎藤実内大臣ら政府要人を殺害、永田町一帯を占拠した。29日までに鎮圧され将校らは処刑。犬養毅首相が暗殺された7年の五・一五事件に続き、軍部が影響力を増す契機となった。

103凡人:2016/12/05(月) 02:45:14 ID:/9hL6NYE0
真珠湾関連の無線日誌発見 送信所、2カ月前から緊迫
2016年12月4日(日) PM 04:52 Jomo

 日米開戦の口火を切った真珠湾攻撃で、旧日本海軍が潜水艦に向け、軍事情報の無線送信に使ったとされる「依佐美送信所」(愛知県刈谷市)の当時の稼働状況が記された業務日誌が見つかった。具体的な内容は分からないものの、攻撃2カ月前の1941年10月中旬からほぼ連日稼働し、事態が緊迫していく様子が読み取れる。共同通信が刈谷市に情報公開請求し、4日までに確認した。

 真珠湾攻撃から8日(日本時間)で75年。国家機密だった戦時の軍事通信に関する情報はほとんど残っていない。開戦に向かう旧日本軍の足取りを検証する上で日誌は貴重な史料だ。

 Pic=依佐美送信所の真珠湾攻撃当日の業務日誌記録(愛知県刈谷市提供)

104凡人:2016/12/10(土) 23:42:22 ID:/9hL6NYE0
「軍神」遺族 真珠湾に思い
2016年12月09日 Yomiuri

◆前橋の岩佐さん 「戦争は過ち」

 旧日本軍による真珠湾攻撃で戦死し、「軍神」とあがめられた海軍士官が前橋市にいた。日米開戦から8日(日本時間)で75年。今月下旬には、安倍首相が現職首相として初めて、真珠湾の追悼施設を訪れる。「軍神」のおいで、同市在住の岩佐直衞さん(90)は「ようやくこの日が来る。戦争をしたのは過ちだった」と、日米の和解を静かに喜ぶ。

 直衞さんの叔父、岩佐直治さんは1941年、10人の特殊潜航艇乗組員の1人として真珠湾攻撃に加わった。2人ずつ乗った5隻で湾内に進入したが、駆逐艦などに撃沈され、直治さんを含む9人が命を落とした。直治さんは大尉から中佐へ2階級特進。軍部は9人を「九軍神」とたたえた。軍歌も作られた。

 直衞さんの兄と直治さんは年があまり違わず、直衞さんにとっては、剣道が強く成績も良い「兄」が2人いるようだった。

 最後に直治さんに会ったのは41年の秋、直治さんが休暇で帰宅した時だった。海軍の白い軍服を身に着け、恩師や友人を訪ね歩いていた。決死の作戦を控えているそぶりは、まったく見せなかった。「今考えると、福々しい顔が少しやせていた。訓練が厳しかったのだろう」と振り返る。

 42年春に軍部が直治さんらの戦死を発表すると、自宅には、子供から大人まで「軍神詣で」の人が次々と訪ねてきた。直衞さんの母親や姉は、お茶を出すなどの対応でせわしなくなった。「中佐殿を手本として皇国のために働く」などと書かれた手紙が、県内外から「読み切れないほど」届いた。

 直衞さんは「自分も、一日も早く軍人になろう」と志願して、44年に海軍甲種飛行予科練習生となった。だが、訓練機の調達もままならず、空を飛ぶ機会もなく石川県で終戦を迎えた。19歳だった。復員して前橋市の実家に戻ると、手入れがおろそかになった田んぼが、雑草で覆われていた。陸軍に徴兵された兄は、南太平洋のパラオ・ペリリュー島で玉砕していた。

 戦後、直衞さんは農業を営み、妻や子供と穏やかに暮らしてきた。その傍ら、直治さんが訓練のため滞在した三机湾(愛媛県伊方町)での「九軍神」追悼式に出席したり、前橋市内で直治さんの法要を行ったりした。特殊潜航艇乗組員のうち唯一捕虜として生き残った酒巻和男さんらとも交流を図った。妻や友人とハワイを旅した際は真珠湾を訪れ、追悼施設「アリゾナ記念館」の様子を目に焼き付けた。

 安倍首相がオバマ米大統領と同館を訪問することについて、「良いことだ」と歓迎する一方、「12月8日の方が、戦死者へ気持ちが伝わって、意義が深かったはず」とも思う。

 訪問当日は、自宅でニュースを見守るつもりだ。「戦争は過ちだった。戦死した人も命を落とす必要はなかった」との思いは、これからも変わらない。

<真珠湾攻撃>
 1941年12月8日未明(現地時間7日朝)、旧日本海軍の機動部隊がハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲攻撃。米海軍戦艦「アリゾナ」などを撃沈した。戦死者は日本側が特殊潜航艇乗組員ら約60人だったのに対し、米側は約2400人に上った。同戦艦の上には、追悼施設「アリゾナ記念館」が設けられている。

105凡人:2017/06/29(木) 07:35:37 ID:tAhv4idc0
学徒出陣70年
「人間魚雷」 暗闇の恐怖
2013年08月16日 00時57分Yomiuri

元県柔道連盟会長 石岡 貢さん91=人間魚雷「回天」での訓練の様子を語る石岡さん=周南市回天記念館前には回天の模型が展示されている(山口県周南市大津島で、同市提供)

 「次か、遅くとも次の次が自分の番だな」。元県柔道連盟会長の石岡貢さん(91)(弘前市松森町)は1945年、瀬戸内海の基地で出撃を待っていた。所属は「回天」部隊。海軍の特攻兵器で、別名「人間魚雷」だ。

 弘前市出身で、旧制弘前中で柔道を覚えた。内またと足払いが得意で頭角を現し、日本大学時代、都内の大会で優勝した。将来は指導者になりたいと考えていたが、戦況の悪化に巻き込まれていく。在学中に徴兵された。

 長崎県の魚雷艇部隊を経て、回天部隊に配属された。魚雷艇の装備や燃料が不足していくにつれ、回天部隊に行く人も多くなった。

 基地には、10代〜20代の隊員40〜50人がいた。海中での訓練は少なかったが、魚雷艇とは全く違った。魚雷を改造し、1人がぎりぎり乗り込めるだけの空間。潜望鏡で外を見る以外は真っ暗闇だった。記憶から捨て去りたい光景だ。

 回天は操縦が難しく、訓練中の事故が頻発した。石岡さんも終戦間近の訓練で死を垣間見た。あぐらをかいて操縦していたところ、岩に衝突。「沈む」と感じたが、後続の船の誘導で救出された。この時、左膝を強打して骨がずれた。ある日、年下の隊員が事故死した。引き揚げると、機内には妹の写真が何枚も貼ってあった。「哀れでならなかった」と振り返る。周南市回天記念館(山口県)によると、15人が訓練中の事故で死亡した。

 回天を搭載する潜水艦は1回の航海で数週間、戦地を巡った。部隊が敵艦を撃沈すれば、士気が上がったが、次々と隊員が出撃していき、「じわりじわりと死の恐怖を感じていた」。

 出撃は、入隊時期が古い順に命じられていたようだった。1回の出撃は6人ずつ。自然と順番が計算できた。終戦直前、自分より少し前に入隊した隊員が出撃し、覚悟を決めたところで戦争が終わった。隊員は30人ほどに減っていた。左膝は曲がらないほど悪化していた。「この足では柔道は続けられない」と弘前に戻り、家業の布団店を継いだ。

 柔道はもうできないと諦めていたが、高校や警察署からの依頼を受けて道場に出向くと有段者を投げ飛ばすことが出来た。一度は消えた柔道への思いに火が付いた。失った時間を取り戻すように指導に没頭した。

 今でも海中に散った戦友の顔と名前は忘れていない。「入隊時期がもう少し早ければ、間違いなく死んでいた。狭い船内で1人死んでいくことはどれほどさみしかったか。多くの若い人が、特攻で夢を絶たれたんだ」
(小池和樹)

<回天> 日本海軍の特攻兵器。魚雷を改造し、搭乗員が操縦して敵艦にぶつかる。全長14.75メートル、全重量は8.3トンで1人乗り。搭乗員は潜水艦から乗り込み、機内は直径1メートルで身動きがほとんど取れない狭さだった。山口県の大津島などに基地が作られ、計145人が命を落とした。

106凡人:2017/07/26(水) 14:28:06 ID:tAhv4idc0
特攻機「桜花」実機を公開 空自入間基地で来月22日【埼玉】
2017年7月26日

写真=航空自衛隊入間基地で保存している特攻機「桜花」の実機(同基地提供)

 航空自衛隊入間基地(狭山、入間両市)内の修武台記念館で保存している太平洋戦争中の特攻機「桜花」の実機や、1911年に日本で初飛行を行ったフランス製飛行機「アンリ・ファルマン」復元機などの一般見学会(無料)が8月22日、行われる。希望者は3日までに往復はがきで申し込む。 (加藤木信夫)

 見学会は昨年九、十一月に続き三度目。入間基地に対し、一般からの見学希望が数多く寄せられているため、これらに試行的に応えるための措置という。

 桜花は、機体に爆弾を積んだ全長約六メートル、幅約五メートルの小型ロケット機。大型攻撃機につるされ、敵の軍艦に接近した後、空中で切り離され、エンジンを点火。パイロットが操縦かんで操作しながら体当たりする。

 太平洋戦争末期の追い詰められた日本軍を象徴する特攻機とされる。公開機は戦後、神奈川県の厚木基地で進駐軍に接収され、米軍ジョンソン基地(現在の入間基地)へ移送。基地内で道しるべやオブジェとして使用後、六三年に日本に返還されたという。

 一方のアンリ・ファルマンは、初飛行を行った所沢飛行場(現在の所沢航空記念公園など)で保管されていた機体を同様に進駐軍が接収。米本土の空軍基地で当時の部品を使用して復元後、同基地内の博物館で展示されていた。六〇年の日米修好通商百周年を記念して返還されたという。

 見学は二十二日午前と午後の部に分かれ、定員はいずれも約五十人。往復はがきで申し込む。申し込みのフォーマットは入間基地のホームページ(名称で検索)にある。応募者多数の場合は抽選。未就学児は不可、小学生は保護者同伴。現地はバリアフリーには対応していない。

 問い合わせは入間基地修武台記念館運営室=電04(2953)6131、内線2355=へ。

107凡人:2017/08/09(水) 00:26:50 ID:rz9OMYFw0
【ペリリュー島 忘れられた戦場を訪ねて】
(上)今も残る高崎歩兵連隊激戦の爪痕
2017.8.8 07:03 産経

 先の大戦で日本軍約1万人が玉砕したパラオ諸島ペリリュー島。「3日あれば占領できる」と豪語した米軍を、高崎歩兵連隊などの日本軍は4分の1の兵力で73日間にわたってくぎ付けにした。米軍の死傷率も史上最も高く、そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られてこなかったため「忘れられた戦場」と呼ばれる。生々しい痕跡が島の至るところに残り、激戦を今に伝えている。

 6月18日、コロール島からボートで1時間、世界遺産の美しい島々を縫うようにしてペリリュー島に到着した。焼けつくような日差しの下、参加者とともに慰霊を行った。慰霊の旅は戦後70年の節目となる平成27年4月9日、天皇、皇后両陛下が慰霊されたことで注目を集め、戦跡を訪ねる日本人が増えているという。

 昭和19年9月、サイパン、テニアン、グアムを攻略した米軍の次の目標はペリリュー島飛行場だった。フィリピン総攻撃態勢を敷く米軍にとって、この島を放置すれば日本軍航空機がフィリピン攻略の邪魔となり、占領すれば飛行基地として使用できる。ペリリュー島の戦いは「東洋一」といわれた飛行場の争奪戦であった。

 ガダルカナル上陸以来、栄光と精強をうたわれたウィリアム・M・ルパータス少将率いる米海兵隊第1海兵師団2万8千人が上陸を開始したのは、9月15日早朝だった。南北9キロ、東西3キロのペリリュー島を、ルパータス少将は「こんな小さな島は3日もあれば占領できる」と豪語し、2個師団約4万人の海兵、陸軍部隊をつぎ込んだ。

 迎え撃つのは、日本陸軍高崎歩兵第15連隊(連隊長・飯田義栄少佐)1842人、水戸歩兵第2連隊(連隊長・中川州男大佐)3488人を中心とする守備隊9838人。中川大佐は、隆起珊瑚礁の島の至る所にある自然の洞窟を縦横無尽に拡張して要塞化し、上陸が予想される南部には最精鋭の千明(ちぎら)武久大尉率いる高崎歩兵第15連隊第3大隊750人を配置した。

 千明大尉は片品村に生まれ、旧制沼田中学から昭和10年に陸軍士官学校56期生として入校した。士官学校時代、天覧試合にも出場した剣道の達人で、当時、28歳だった。

 米軍上陸前、日本軍は3日間にわたるすさまじい砲爆撃にさらされ、ジャングルは消え、がれきの山となった。だが「西浜」と呼ばれた南部海岸から上陸を始めた米軍に向け、日本軍が一斉に砲射撃を浴びせる。

 千明大隊も猛攻撃を加え上陸部隊を混乱させる。米軍上陸後は「アンパン」と呼ばれる地雷を抱き、敵戦車下に潜り込み自爆する戦法を千明大隊が繰り返し、米軍を恐怖のどん底に陥れた。しかし、9月16日未明、千明大尉が指揮中に敵銃弾を受け、戦死。指揮官を失った後も反撃を続けたが、18日までに750人が玉砕した。群馬県出身者を中心とする全員が20歳前半の現役兵だった。

 玉砕は必至とみていた中川大佐は、事前に内地にこう連絡していた。

 --通信断絶の顧慮大となるをもって最後の電報は左記の如く致したく承知相成(あいなり)たし

 一 軍旗を完全に処し奉(たてまつ)れり

 二 機秘密書類は異●なく処理せり

 右の場合、サクラを連送するにつき報告相成たし

 今回の慰霊ではペリリュー島北部の北波止場から上陸し、海軍航空司令部跡に向かった。現在はジャングルに覆われているが、当時は滑走路を一望できた。頑丈なコンクリート造りで、地下には待避壕もある。しかし天井には無残な穴が開き、壁には無数の銃痕が残り、米軍の砲爆撃の苛烈さを物語っている。 (将口泰浩=作家)
                   ◇
 【将口泰浩氏と行く トラック諸島慰霊の旅】連合艦隊泊地だったトラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク州)を訪ねるツアーを開催。

 将口氏はトラック諸島に渡り、「冒険ダン吉」のモデルにもなった森小弁の生涯を描いた「ダン吉」を産経新聞で連載した。

 平成29年9月24日(日)=成田からチュークへ▽2日〜5日目=チューク巡訪▽6日目=成田へ。旅行代金は1人39万6000円。問い合わせは「JTBコーポレートセールス 霞が関第六事業部営業1課」(〒100-6051 東京都千代田区霞が関3の2の5 霞が関ビルディング12階)(電)03・6737・9361、FAX03・6737・9365

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108凡人:2017/08/27(日) 08:21:43 ID:N3gutJNg0
今の世の中、この情報化社会で、左翼もそうだが、右翼も馬鹿じゃなくちゃなれないと凡人は思う。
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あの戦争に「負けたけど勝ったんだ論」の罪深さ
古谷経衡 | 文筆家/著述家2017/ 8/15(火) 8:48

「敗戦の日」に靖国神社に翻る日章旗(2017年の写真ではありません)(写真:ロイター/アフロ)

◆「負けたけど勝ったんだ論」とは何か
 8月15日。72年目の敗戦の日である。戦後の右派、保守派を「支える」あの戦争に対する戦争観の主流に「負けたけど勝ったんだ論」というのがある。これは私が勝手に名付けたものだが、要するにこの「論」とは次のようなものだ。

「太平洋戦争(右派は大東亜戦争と呼ぶ)は、軍事的にはアメリカに敗北した。が、アジア解放という戦争大義は正しいものであり、実際に戦後、欧米の植民地であったアジア各国の独立の切っ掛けを作ったのは日本だったのである。よって日本は戦争には敗れたが、結果的には戦争目的を達成したのだから、これは戦争に勝利したと同じなのである」

 というものである。繰り返すように私はこれを「負けたけど勝ったんだ論」と呼ぶ。この理屈は、90年代後半に大ベストセラーになった小林よしのり氏の『戦争論』にも通底して色濃く反映され、その後のネット右翼の世界観にも大きな影響を与えているものだ。

◆日本は敗戦国ではない??
「アジア解放の戦争大義は正しく、結果として戦後それが達成されたのだから、日本は負けたけど勝ったのだ」というのは、完膚なきまでにアメリカに叩きのめされた戦後の日本人にとって、なるほど自尊心をくすぐる得心のいくものだったといえ、心の防御装置として機能したことは評価できる。

 だが時代が進むと、この「負けたけど勝ったんだ論」は、現在、保守論壇のみならずそれを妄信するネット右翼の中に、あの戦争への「普遍的評価」として、前述のように様々な媒体を通じて定着している。

 しかし、この敗北を認めぬ「屁理屈」ともいうべきこの手前勝手な理屈こそ、最も罪深い戦争観である。「負けたけど勝ったんだ論」の世界観の中では、日本は敗戦国ではないということになる。だからあの戦争への反省も行われないどころか、あの戦争での日本軍の行いは手放しで肯定、美化される。

◆「敗戦国」の帳消し
 そして結果として勝ったのだから、軍事的な勝者の存在も希釈化される。つまり、勝者としてのアメリカの存在を希釈化し、まるで自分たちと同等の存在として考える素地が生まれる。

 所謂「親米保守」と呼ばれる戦後の右派、保守派が、片方で「あの戦争におけるアジア解放の大義は正しかった(対米決戦の正当性)」と言いながら、片方では「日米同盟の強力な紐帯」と叫ぶ根底には、この「負けたけど勝ったんだ論」が浸透しているのだ。

 なにしろこの理屈では日本は勝ったのだから、戦勝国アメリカと気分的には同等である。勝ったのだから、敗戦の屈辱という感情も、原爆や大空襲によるアメリカへの報復感情というのも薄れる。

「負けたけど勝ったんだ論」は、日本の軍事的敗北を希釈化する一方で、戦勝国アメリカの圧倒的存在感、勝者としての振る舞いをも希釈化させる。なにせ「負けたけど勝った」のだから、あの戦争を反省する必要も無いし、アメリカへの敵愾心というものも必要以上に持つ必要はない。「親米保守」にとって、「負けたけど勝ったんだ論」ほど便利な世界観はないのだ。
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109凡人:2017/08/27(日) 08:22:32 ID:N3gutJNg0
◆「負けたけど勝ったんだ論」のウソ
 あの戦争を始めるにあたり、日本が「アジア解放」「東亜新秩序建設」「大東亜共栄圏」のスローガンを戦争大義に掲げたことは事実である。そして真珠湾と時を同じくして開始された「南方作戦」により、英仏蘭の植民地であった東南アジアに日本軍が侵攻すると、現地住民から「解放軍」として歓迎された事実があることもまた事実である。

 ところが、すべての戦争には戦争大義の美名が存在するのと同じように、「アジア解放」の掛け声も、また美辞麗句に過ぎなかった。1934年、アメリカ議会は米西戦争(1898年)でスペインから割譲したフィリピンを1946年に独立させることを約した。

 そこへ日本軍がだしぬけに1941年の対米開戦とともにやってきたのだから、フィリピンの独立はご破算となる。日本軍政の不手際も目立ち、フィリピンの対日感情はあの戦争中、アジアの中で最も悪化した。日本軍が来る前に、フィリピンの独立はアメリカ議会によって承認されていた。こうした「負けたけど勝ったんだ論」に都合の悪い事実は無視される。

◆「アジア解放」のお寒い実態
 確かに日本は、南方作戦によって占領した米英仏蘭の植民地を独立させた。ビルマ、フィリピン、仏領インドシナを次々に独立させ書類上の「アジア解放」を演出して見せたが、実際には傀儡政権であった。そして肝心の蘭印(現インドネシア)の独立は、敗戦に至る最後まで検討こそされ、ついぞ行われなかった。

 ビルマやフィリピンは独立させたのに、なぜ蘭印(インドネシア)は独立させなかったのか。政府・大本営は、パレンバン、バリクパパン等の良質の油田やボーキサイトなどの天然資源が豊富な蘭印は、最後まで軍による直轄地とした。これは、「アジア解放」の掛け声が美辞麗句に過ぎなかったことを意味する。

 重要資源を産出する蘭印は、日本の戦争遂行上、直轄地とする必要があったためである。蘭印から産出され資源を日本に海上輸送し、工業力を増強する。そうして増強させた工業力を軍需に投入し、対米持久戦を展開させる。これが、政府・大本営の目的だったのだから、蘭印を独立させることなど無理な相談であった。こうした「負けたけど勝ったんだ論」に都合の悪い事実は常に無視される。

◆「アジア解放」に都合の悪い事実は黙殺
 戦後、アジアの植民地が次々と宗主国から独立したが、そこにあの戦争における日本の戦争大義が関与した、という要素はゼロではないものの、無理筋である。確かに、インドネシア独立戦争には残留日本兵が協力した。ベトナム、ビルマにもその部分はある。

 しかし、それならば日本軍が一切侵攻していない中東やアフリカ諸国が、なぜ次々と英仏等から独立したのか、説明することはできない。植民地独立は、世界史的潮流であり、日本の戦争大義が正しかったからではない。

 アルジェリアはフランスに併合されたが、戦後独立戦争を戦い独立を勝ち取った。アンゴラはポルトガルに抗してアンゴラ独立戦争を展開し勝利した。

「大英帝国の至宝」インドにおける独立運動は、言わずもがなM・ガンジーによる無血抵抗運動から始まった。ガンジーとその支持者によるイギリスインド支配の象徴・製塩専売への抵抗は、日本軍の「アジア解放」のはるか前、1930年から始まる。「アジア解放」の胎動は、日本が来るよりも早く、アジアの人々の手によって開始されていたのだ。
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110凡人:2017/08/27(日) 08:23:50 ID:N3gutJNg0
◆都合が悪くなるとトンデモ陰謀論に逃避
 そして「負けたけど勝ったんだ論」を信奉する人々は、同じアジア人の中国に対する満州事変以降の行動に対しての矛盾について、途端に寡黙になる。「アジア解放」の大義を正しいものとしているのに、同じアジア人である中国への攻撃については、当然矛盾になるから沈黙する。

 片方で「アジア解放」を叫びつつ、片方で中国大陸で無思慮な戦線拡大を続けていた事実は、どう考えても「負けたけど勝ったんだ論」の世界観には都合が悪い。

 よってここで登場するのが、「日中戦争はコミンテルンの陰謀で、日本は被害者である。日中戦争は侵略ではない」というトンデモ歴史観である。「負けたけど勝ったんだ論」を支持するネット右翼に、この陰謀論は大変都合がよいので支持されている(詳細は拙記事”アパホテル問題の核心〜保守に蔓延する陰謀史観〜”を参照のこと2017年1月24日付)。

◆「負けたけど勝ったんだ論」から生まれるもの〜「敗戦責任」の不問〜
 「負けたけど勝ったんだ論」は、あの戦争の歴史的事実を遮蔽し、都合の悪い事実を黙殺し、良い部分のみを取得する歴史修正主義の一種である。

 「負けたけど勝ったんだ論」から生まれるものは、あの戦争への無反省、無批判と、盲目的肯定と賞賛である。アメリカの戦争が正しかったというつもりは一切ないが、少なくとも日本が掲げた「アジア解放」は美辞麗句に過ぎず、戦後における植民地独立の源泉が「アジア解放」とか「大東亜共栄圏」にある、というご都合主義からは、なぜあの戦争で日本が敗北したのか、なぜ勝てなかったのか、という「敗戦責任」への考察は生まれない。

 岡本喜八監督が1967年に映画化した『日本のいちばん長い日』。ポツダム宣言受諾決定を受けて、陸軍大臣・阿南惟幾が割腹する直前に、部下に述べる決別の台詞。

「生き残った人々が、二度とこのような惨めな日(8月15日)を迎えないような日本に、何としてでもそのような日本に再建してもらいたい」

出典:岡本喜八監督・映画『日本のいちばん長い日』(カッコ内筆者)

 「負けたけど勝ったんだ論」は、8月15日を日本が戦争に敗北した日という厳然たる事実を忘却せしめ、この日が日本人にとって「屈辱の日」「惨めな日」であるという感覚をも忘却せしめ、至って「あの戦争は正しかったのだ」という、先の戦争から何も学ばない、何の反省もない、先の戦争の美化・賞賛だけで「なぜ負けたのか」の失敗の本質を追求しない歴史観を増殖させている。

「二度と悲劇は繰り返しません」とか「戦争は絶対によくない」というのは結構なことだが、静かに跋扈する「負けたけど勝ったんだ論」を何とかしないと、二度・三度の間違いは繰り返されるのではないか。

古谷経衡 文筆家/著述家
1982年北海道札幌市生まれ。著述家。NPO法人江映理事長。日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部卒。TOKYO FM「タイムライン」隔週火曜レギュラー他、テレビ出演など。主な著書に『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『草食系のための対米自立論』(小学館)、『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』(コアマガジン)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『戦後イデオロギーは日本人を幸せにしたか 戦後70年幻想論』(イースト・プレス)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)、『クールジャパンの嘘』(総和社)等多数。
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111凡人:2017/09/03(日) 05:04:32 ID:N3gutJNg0
「日本兵は強く戦い、忍耐深く、戦い方が非常に紳士的だった」。日本のマスコミはよく親日外国人の意見を報道や掲載し、日本のよさや素晴らしさを日本国内にいる日本人向けに喧伝することをよくやる。日本人のイメージを悪くする反日意見は取り上げてもとても稀であることは知っている。産経新聞のこの記事はその代表。ジャーナリズムを標榜する一流新聞ではなくて、購読者数を増やすことが目的の商業新聞であることには間違いない。とくに旧日本兵に対して「戦い方が非常に紳士的だった」なんて考えている外国人がどれだけいるか疑わしい。それは*ハワイの奇襲(本当なら騙し打ち)攻撃をひとつとっても、大多数が反対する見解を示すだろうと予想されるからだ。最近観たハリウッド映画『Hacksaw Ridge』(2016)ではアメリカ兵が戦場での日本兵を指して"sneaky"と言っているし、戦闘場面では白旗を振って穴から出てくる日本兵の小グループが、それを見て近寄ってくるアメリカ兵たちに向かって手榴弾を投げつける場面があるが、とても紳士的とは思えないのである。その向かってくる手榴弾を他のアメリカ兵の命を救うために蹴飛ばしたが、その爆発で自分が怪我をしてしまうのが、その映画の主役。それで彼のHacksaw Ridgeでの救助する役が終り、映画も終る。これはハリウッドが生み出した嘘か。この映画は真実に基づくとある。笑。*Takeo Iguchi, a professor of law and international relations at International Christian University in Tokyo, discovered documents that pointed to a vigorous debate inside the government over how, and indeed whether, to notify Washington of Japan's intention to break off negotiations and start a war, including a December 7 entry in the war diary saying, "our deceptive diplomacy is steadily proceeding toward success." Of this, Iguchi said, "The diary shows that the army and navy did not want to give any proper declaration of war, or indeed prior notice even of the termination of negotiations ... and they clearly prevailed. 英語のWikiと違って、日本語のWikiにはかなり日本に都合よく美化した戦争物語が書かれていることに凡人は気付く。真実を語る教育的な世界的運動のWikiのはずだが、すでに日本のWikiは日本の学校教科書化していることにはとても残念である。
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【戦後72年】
「日本兵は強く、紳士的だった」 寄せ書き日の丸返還の93歳元米兵ストロンボさんの“日本愛”に称賛・感動
2017.9.2 17:00 産経

 長年の苦悩を背負い続けた元米兵は、約束を果たした安堵(あんど)からか、慈愛に満ちた表情に変わっていた。米西部モンタナ州に住む元海兵隊員、マービン・ストロンボさん(93)。「必ず家族の元に返す」。先の大戦の戦地サイパン島で、日本兵の遺体から日章旗(寄せ書き日の丸)を持ち帰り、73年の時を経て初来日し、願いをかなえた。遺骨や遺灰もなかった遺族は、帰ってきた日章旗を「宝」と呼び、むせび泣いた。「73年後の奇跡」のニュースへの反響も大きい。(社会部 天野健作)(※8月21日にアップされた記事を再掲載しています)

◆狙撃兵として激戦地へ
 精悍(せいかん)な顔付きとピンと伸びた背筋。来日直後の記者会見で見せたストロンボさんのかくしゃくたる姿は、かの戦地を駆け巡った雰囲気を醸し出していた。

 「多くの人が殺され、そして命を落とした。非常に悲惨な光景だった」。ストロンボさんは戦時中、海兵隊の狙撃兵として、サイパン、テニアン、タラワという激戦地で戦った。

 1944年7月ごろ、サイパンに上陸してしばらく歩いていると大砲があるのを目にした。興味を持ってじっと眺めていると自分の隊から離れてしまった。すぐに追いかけようとしたが、気がつくと日本陣営の前線に立っていた。

 足元には刀を持った日本兵の遺体が眠っているかのように横たわっていた。遺体には傷がなく迫撃砲にやられたと察知した。胸元にはきれいに畳まれた旗。

 「この旗が非常に重要な大切なものだと見て取れた。だから持って帰るのは罪悪感があった。しかし、もし私が持って帰らなければ、永遠に戦地で失われてしまう。いつかどうにかしてこの旗を家族の元に戻すからと約束した」

 旗は、自宅のキャビネットのガラス戸の中に飾って大事に保管した。自宅を訪れる客の目に触れるようになっていた。子供たちも喜んで一緒に写真撮影したりしていたという。
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112凡人:2017/09/03(日) 05:07:18 ID:N3gutJNg0
 ストロンボさんは今年3月、旧日本兵の遺品の返還に取り組む「OBON(オボン)ソサエティ」に相談した。日章旗には「武運長久(ぶうんちょうきゅう=出征した兵士の無事がいつまでも続くこと)」と大書され、約180人の署名があった。その中の42人が「安江」姓だった。神社の宮司の協力もあり、旗の持ち主は、安江姓が多い岐阜県東白川村の安江定男さん=享年(25)=だと分かった。旗に署名した6人がいまだ健在だということも明らかになった。

◆「兄のにおいがする」
 「長い間、待っていました」。8月15日、東白川村でストロンボさんを出迎えた安江さんの弟、辰也さん(89)はそう切り出した。

 互いの兄弟姉妹や近況に触れながら、「若いときのあなたもハンサムだったでしょう」と辰也さんが向けると、ストロンボさんも「そうだろうね」と冗談を言い合うほどすぐに打ち解けた。辰也さんはふいに「私は兄に代わってあなたに話をしているようだ」と漏らした。

 日章旗の返還は感動的な場面だった。ストロンボさんから直接受け取った辰也さんは旗に何度も顔を埋めながら、涙をにじませて「兄のにおいがする」と話した。

 辰也さんは「この旗に、定男の『武運長久』を願いながら記名頂いた180人の皆様の『しっかりやってこいよ』『きっと帰ってくるんだぞ』という気持ちの真心が通じて、帰ってくることができたと思っている」と話した。

 辰也さんによると、兄の安江さんとは日本を離れる前日、面会した。短い時間で終了5分前というときに、兄は声を潜めて「南の離れた島にいく。生きて帰れそうもないが、お前たち3人(兄弟姉妹)で力を合わせて、両親のことを頼んだぞ」と話したのが最後だったという。

 辰也さんはストロンボさんにこう声をかけた。「いまあなたの国と日本は世界に冠たる友好国になっている。旗をうちの宝にして、大切に長く長く伝えていきたいと思っている」

◆読者からの手紙
 このニュースには称賛の声が相次いだ。

 ネットでは「93歳を国賓で迎えろ」「互いに命をかけたものでしか分からない世界」などと好意的な意見が並ぶ。「戦争したことのない韓国がアレなんだもんな」と、何度も過去を持ち出し日本に対し“歴史戦”を挑む韓国を揶揄(やゆ)する意見もあった。

 《(記事を)読むと胸がいっぱいに。日章旗は無形英霊と思います。心からストロンボさまのご苦労と平和の友情に感動して感謝します》

 東京都練馬区の徳永光さん(59)は産経新聞にこのような手紙を寄せた。

 手紙は《慈愛和平の心境は大切です》とした上で、《長年の約束を守ってお疲れさま》とするストロンボさんへのはがきも託した。

 約束を果たし、帰国直前に取材に応じたストロンボさんは17日、「ようやく旗を返すことができてすばらしい気持ち。正しいことができたのだと感じた。少しも後悔することはない」と言い切った。

 そして「戦争中は敵同士だったが、戦時中でも私は日本兵に対して一定の敬意を持っていた。日本兵は強く戦い、忍耐深く、戦い方が非常に紳士的だった」と語った。

 旗の橋渡しをしたオボンソサエティの共同代表、敬子・ジークさん(49)=米オレゴン州在住=は「こんなに奇跡的なことは最初で最後かも。退役軍人で健在な人もいるが、来日されるまでの方はいないでしょう」と話していた。

 寄せ書き日の丸 先の大戦では出征にあたり、家族や知人らが武運長久を祈って日章旗に署名やメッセージを寄せ書きし、多くの日本の将兵は受け取った日章旗を肌身離さず身に着けて戦地へ赴いた。一方、連合軍の将兵らは戦火に倒れた日本の将兵が持っていた日章旗を戦利品として入手。故郷へ持ち帰った。その後、日章旗の返還を希望する旧将兵やその遺族が出てくる一方、近年は国内外のインターネットオークションで売買されるケースも増加、問題となっている。
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113凡人:2018/08/18(土) 03:04:57 ID:9F476DDg0
本当の日本史とは?日本の精神論とは?その片鱗だけだが、重要なポイントは捕えていて面白い記事である。学生には教えない、また教科書には載らないもう一つの日本の歴史。「志願」と「命令」の言葉の使い分けは慰安婦問題にも言及されてよいだろう。日本史の美化に余念のない右翼主義・似非教育者たち。隠ぺいとねつ造。そこには真理のかけらの一つも何もない。右翼というバカ者たち。それに染まる教職員が集う高崎経済大学というブラック大学、凡人の目には高校、の体質とレベルの限界がよく見えて面白いではないか。
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鴻上尚史が受けた衝撃… 特攻帰還者を幽閉した「振武寮」の驚愕の内幕とは?〈dot.〉
2018/8/15(水) 7:00配信 AERA dot.

写真=1944年10月。三重県・明野教導飛行師団にて。ラッキーセブン隊の一員で、陸軍初の特攻隊「丹心隊」の一員に選ばれた佐々田眞三郎少尉(左)と談笑する大貫少尉

 太平洋戦争末期に、特攻帰還者を幽閉する「振武寮」という施設があった。そこでは上官が帰還兵を殴打し、怒声を浴びせ、再び生きて戻ることは許されない、と思わせる精神教育が行われた。2009年に出版された『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』は、元特攻隊員が知られざる内幕を明かした、驚愕のノンフィクションだ。

 鴻上尚史さんのベストセラー『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』は、実はこの『特攻隊振武寮』からヒントを得て書かれたのだという。鴻上さんが本書から受けた衝撃とは?

*  *  *
『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』という本を書きました。9回出撃して、9回生還した陸軍一回目の特攻隊員、佐々木友次さんに関する本でした。

 じつは、佐々木さんという存在を教えてくれたのが、この『特攻隊振武寮』でした。

 この本の中の「ところで佐々木だが、その出撃はトータルで8度に及び、周囲が死に追い立てるのをあざ笑うかの如く、ことごとく生還している」という文章に衝撃を受けた所から、僕の佐々木友次さんに対する旅は始まったのです。ですから、この本を読んでいなければ、『不死身の特攻兵』も生まれませんでした。佐々木さんの存在を教えて下さった著者の渡辺考さんには、感謝しかありません。

 2009年に出版されたこの本を手に取ったのは、特攻に出撃し、帰ってきた隊員を軟禁する『振武寮』という理不尽そのものの存在に衝撃を受けたからです。

 僕は子供の頃から、特攻隊に特に関心がありました。理解したいのにできない、という理由が大きかったと思います。どうしてそんな戦術を取らなければいけなかったのか。なぜ、終戦まで続いたのか。本当に「微笑みながら突入」したのか。分からないこと、知りたいことは山ほどありました。

 特攻関係の本はとてもたくさん出版されています。僕と同じように「特攻とはなんだったのか?」ということを知りたい人が多いのだと思います。

 多すぎてどれを読めばいいのか迷うほどですが、『振武寮』の存在は特攻の理不尽さを別な角度から照射したものだと思います。

 もう一人の著者の大貫健一郎さんが大貫妙子さんのお父様だったことで、この本はより身近な存在になりました。大貫妙子さんとは、テレビの仕事で何度か共演しました。ライブにも行きました。大貫健一郎さんの体験が、より切実なものとして僕に迫りました。

 今回、文庫化にあたり再読してみると、9回生還した佐々木友次さんと、大貫さんの発言や行動、気持ちに似た部分が多いことに気付きました。

「死ぬことが運命ならば、生き残ることも運命ではなかろうか――」

 この本の冒頭の大貫さんの言葉です。これは、佐々木さんの「(生きて帰って来れたのは)寿命としか考えられない」という言葉に対応すると思います。

 人は自分を超えた圧倒的に大きなものに翻弄された時には、時代とか運命とか寿命とかを考えるようになるのではないか。そう思わなければ、多くの仲間が死んで、自分が生きていることに説明がつかない。あまりにも小さな偶然や出来事が、死と生を簡単に分けるという残酷な現実を知れば知るほど、無力感に抗えなくなる。そういうことかもしれません。

 操縦士であることの感想も似ています。
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114凡人:2018/08/18(土) 03:09:04 ID:9F476DDg0
 激しい訓練や屈辱的な扱いを受けても、辞める奴は一人もいなかった。「大空をかけめぐる爽快感は他の何物にも代えがたく、戦闘機を自由自在に操縦できるようになったときは、ああ男に生まれてよかったと思いました」と大貫さんは書きました。

 佐々木さんは言います。「なにせ、空へ浮かんでれば何でもいいんでね」「戦場に行くのが恐ろしいとかあんまり思ったことないですよ。飛んでいればいいんです」

 お二人とも、本当に空を飛ぶことが好きなんだなと感じます。そして、空に上がれば、どんなに激しい軍隊のいじめも階級的重圧からも解放される。

 パイロットは技術職であり、プライドを持つ存在だったのだと分かります。

 そんな人達にある日、体当たりの命令が来る。その時の反応も似ています。

 大貫さんは書きます。

「みな一様に青ざめた。冗談じゃない、そんなことできるわけないじゃないか。俺たちは戦闘機乗りを志願したわけで、戦わないで突っこんでいくなんてとんでもない」

 佐々木さんもまた「いや話にならんですよ。動揺して」と僕に語りました。1カ月の間に何人もの殉職者を出しながら、死に物狂いで急降下爆撃の訓練を続けているパイロット達に、突然、体当たりの命令を出す。それは、彼らの技術の否定であり、プライドの否定であり、存在そのものの否定でした。

 大貫さんと佐々木さんの違いは、所属した部隊の隊長が喪服に倣って黒マフラーをつけたか、「我々は爆弾を落とす。体当たりはしない」と宣言するかでした。

 また、大貫さんは一応、「志願」の形になっています。ほとんど、暗黙の空気としての「命令」ですが、形としては一応、「志願」です。戦後、指導部が強弁し続けた内実のない「志願」です。

 佐々木さんの場合、はっきりとした「命令」でした。

 飛行時間は佐々木さんの方が何倍か多いようです。結果、佐々木さんは実戦での急降下爆撃の難しさを経験します。そして大貫さんは、特攻が指導部が思っているほど簡単なことではないと気付きます。

 爆弾を落としても当たりにくいから、直接体当たりしようというのは、「航空の実際を知らないか、よくよく思慮の足らんやつだ」と、佐々木さんの上官、岩本隊長は言い放ちました。

 作戦の理不尽さに怒り、呆れたのは二人とも同じです。

 自国の島に不時着した場合でも、飛行機を燃やし、自決せよという命令を本気で言うことの理不尽さと愚かしさ。

 生還するたびに、佐々木さんが浴びた「次は必ず死んでこい!」「どんな船でもいいから体当たりしろ!」という命令の理不尽さや愚かしさと同じです。

 命令した上官が「最後の1機で必ず私はおまえたちの後を追う」と言いながら、戦後も生き延びたのも、お二人とも同じです。

 大貫さんにこの言葉を言った司令官は95歳まで、佐々木さんの司令官は68歳まで生きました。

 特攻に出発する時に、充分な掩護も戦果確認もなかったのも同じです。「精神一到すれば何事か成らざらん」という精神論で大貫さんは押し切られましたが、佐々木さんもたった1機での特攻を求められました。

 大貫さんと佐々木さんが同じだと書いていますが、じつは、多くの特攻隊員はみんな同じだったということです。佐々木さんの方が1944年の11月から12月、大貫さんは1945年の4月ですから、状況は大貫さんの方が悪化していますが、ごく初期を除けば、特攻の実際は悪化しながらも、とても似ているのです。

 掩護機や戦果確認機を出す余裕はどんどんなくなり、出せたとしてもほんの数機、百機単位で波状攻撃して来るアメリカ軍機にはなんの意味もない編成でした。

 そして、後半、『振武寮』に入れられる大貫さんと、9回も特攻を繰り返しフィリピンの山奥に逃げ込む佐々木さんの運命ははっきりと分かれます。

『振武寮』の倉澤清忠少佐の存在は凄まじいの一言です。戦後、復讐を恐れて80歳まで拳銃を持っていたという記述には唸りました。本人が自分のしたことの意味を知り、どんなに怯えていたのか分かります。

 同時に、インタビューのあけすけな語りに、これまた唸ります。「12、3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ」を始めとした発言に衝撃を受けます。

 この本は、大貫さんの「特攻隊員に選ばれて、不時着するまで」と「『振武寮』に入れられた顛末とそこでの生活」、そして、もう一人の著者、渡辺考さんの丁寧な「特攻隊の歴史と実態」の3つの大切な部分によって構成されています。
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115凡人:2018/08/18(土) 03:11:25 ID:9F476DDg0
 大貫さんは、「私は自分が特攻であるということは、周囲の親しい者を除いては誰にも語りませんでした」と書かれています。

 じつは、佐々木さんもずっと語ってきませんでした。若い頃に一度、長いインタビューに答えた以外は、話して欲しいという依頼をずっと断ってきたのです。

 けれど、ある時期、それはたぶん自分の寿命としての人生を意識し始めた時に、自分の歴史を語り始めました。

 大貫さんは2012年に、佐々木さんは2015年にお亡くなりになりました。よくぞ言葉を残してくれたと思います。

 大貫さんや佐々木さんの言葉をしっかりと受け止め、未来の人達に渡すことが、今を生きる日本人の責任のような気が僕はしています。(文/作家、演出家・鴻上尚史)
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116凡人:2019/07/13(土) 17:45:34 ID:/8TRzhd60
中曽根康弘元首相と従軍慰安婦問題
2018年8月の記事。
http://rapt-neo.com/?p=28575

朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。

「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。

中曽根元首相は自分の”手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

まず、”手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の”手記”のほうがデタラメということになってしまう。

だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。

第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。

同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
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117凡人:2019/07/13(土) 17:48:10 ID:/8TRzhd60
本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。

すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる

主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。

バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

そして2つの地図を見比べてみると、”ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。

そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。

つまり、中曽根首相がこうした”強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。

一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。

----------------(転載ここまで)

このように、「中曽根康弘」は戦時中に「慰安婦」を集めて「慰安所」を作り、それを自慢げに記録に残したりするような人物なのです。
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