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狭山事件の真相は?

1狭山現調隊:2003/08/24(日) 10:42
狭山事件については2ちゃんねるで議論されて来ましたが
見苦しい荒らしも多く議論が進まないのでこちらでの検討
もお願いします。


>参考< 
 ××××××狭山事件××××××(2000.11〜12)21レス
  http://mimizun.mine.nu:81/2chlog/occult/piza.2ch.net/occult/kako/975/975464201.html
 狭山事件(2002.2〜7)
  http://de.geocities.com/zeroyaruki/sayama/sayama01.html
 底知れぬ暗黒、狭山事件2rd(2002.7〜10)
  http://de.geocities.com/zeroyaruki/sayama/sayama02.html
 狂気の迷宮・狭山事件3rd(2002.10〜2003.1)
  http://hobby2.2ch.net/occult/kako/1034/10346/1034680074.html
 殺意の因習、狭山事件4th (2003.1〜5)(html化待ち)
  http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/occult/1043835444/
 虚構の闇、狭山事件5th (2003.5〜8)
  http://hobby4.2ch.net/test/read.cgi/occult/1053532994/l50
 無限回廊内のページ
  http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/sayama.htm

 盛況氏のHPで4thと5thを読むことができます。
  http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Poplar/6601/index.html

77おにぎり:2004/02/06(金) 09:22
おっと、「遺言状」→「遺書」でした。

78やぶちゃん:2004/02/06(金) 18:33
以下の「次兄の遺書」は、盛況さんのスレッドにあるものをコピーしたものです。これで全文のようです。

***(引用始め)

私の生きる道はどこにあるのかしら。
社会は流れ、
私も流されるとしたら、
余りにもさみしい夜になるでしょう。
明日の社会も今日の社会も余り変わりはないけれど、
私はただ私の社会の中にきょうという日を見つめて生きるのです。
そしてまた、
私は古いものの中にいつまでもいいところもあることを願いたい。
すべて終わり、
すべては夢だったのね。

***(引用終わり)

79おにぎり:2004/02/06(金) 19:37
はじめて見ました。ありがとうございました。

これが「遺書」とは・・・、まるで演歌の歌詞ですね。それに
微妙に女性言葉、今まさに死のうとしている者がこんな歌をう
たうものでしょうか。抽象的すぎます。恨み辛さを場合によっ
ては実名を記して訴えるはず。仮に本人が書いた遺書でないと
すると、「犯人」は文学的なものに憧れているそんな性癖があ
るのかもしれませんね。それも稚拙な・・。

奥富の遺書もアイマイなものでしたね、欠勤届け用紙の裏に
殴り書きしていたとか。

「真犯人探し」は人権上批判を受けているようですが、「狭
山事件」を考えるには避けて通れない重要なポイントだと思
います。

80おにぎり:2004/02/06(金) 20:07
次兄の「遺書」にこんなことを思いました。
これは、実名をあげることのできない「犯人」に対しての
メッセージだったのではないかと。さらに言えば、この
女性言葉から察するに、原文が存在していて(それも遺書
として)、読めばその意味がわかり相当のダメージを受け
ることを知っていたのではないかと。一人の人間が死を選
ぶとき、それ相応の意味をこの世に残すはずです。

81やぶちゃん:2004/02/06(金) 21:08
おにぎりさん、早速のレスありがとう!
自分にとって参考になるものをコピーしてまとめていたので、
ちゃんと元レスを提示しておきます。
殺意の因習スレッド4の以下の書き込みです。現書を確認していないので、
本当かと言われれば困りますが、とりあえず私は真として議論しますね。

***(引用始め)

03/04/28 15:41
今日発売の実話GONナックルズで作家の本橋信宏氏連載「昭和のミステリー」
に、狭山事件が書かれています。この板のことも載せている。
れいの次兄が1977年自殺したいままで謎だった遺書まで
載っけてます。善枝ちゃんが憑依したかのよう・・・・。
「私の生きる道はどこにあるのかしら。社会は流れ、私も
流されるとしたら、余りにもさみしい夜になるでしょう。
あすの社会もきょうの社会も余り変わりはないけれど
・・・・」
恐いッ!!

***(引用終わり)

82むむ・・・:2004/02/06(金) 21:17
常識的に考えて、次兄の遺書は女が書いたのではないですか。
その頃、「そうなのヨ」みたいな流行語もありましたが、当時を知っている私の感覚では男性はこんな文章を書きません。

ケビン・コスナー主演の「JFK」で、デイビッド・フェリーが明らかに他殺らしき自殺を遂げたとき、宛名のない不自然な遺書が二通見つかる場面がありますが、よく似ていませんか。

83やぶちゃん:2004/02/06(金) 21:50
激です。何だかチャットみたい(実はやったことがありませんが)!

ごめんなさい、では戻って長兄の手記からまず検討したいと思うのですが、
これについては、盛況さんのスレッドの1で、

亀井トム「狭山事件権力犯人と真犯人」の232ページからの転載と記されている504のレスのものと、
おにぎりさんのレス76のものと、
殿岡駿星氏の「犯人」の385ページのものとに、
微妙に表記の違いがあるのを発見しました。

句読点等、いちいち挙げるとくだくだしくなるのですが、
たとえばおにぎりさんのと殿岡版では、
504にある「と聞いても」と「遺影は」の部分のスペースがありません。
また、殿岡版では「世の皆様にお願い」が「世の皆様にお願ひ」となっています。
おにぎりさんのと殿岡版の方が正しいのかなと思ったりするのですが、
特にスペースには私の解析のこだわりがあるので、
どれが正しいのか、サンケイ新聞を今、確認することが出来ず、
ちょっと困っています。
しかし、今日はじっくり細部を語って見たいと思っていますので、
とりあえず、私は盛況さんのスレッドの1の504記載の次の表記で私見を述べたいと思いますので、ご了承下さい。
今後、何らかの形で原版との校合がなされなくてはいけないと切に思います。

また、もう一つ、同じサンケイ新聞に掲載されたという次の一文も問題にしたいと思います。
スレッド1の796にあります。

***(引用始め)

796 名前:488投稿日:02/07/15 10:49
犯人たるおまえに
なぜ善人に戻って呉れなかったのか、悪に取りつかれたおまえでさえ戻るのみの善をおまえは
もって居た筈であり、その善は今日のこの日を待っては居なかった筈なのに……

これも5月23日のサンケイ新聞夕刊に掲載された長兄の手記の一部とのことだが、
>>764の原文にはこの一節はない。
あとからの版か地元の版で付け加えられたのか、あるいは削られたのか、
そのへんの事情は調べてみたがよく判らなかった。

***(引用終わり)

ソースの不確かさが気になりますが、
やっぱり「気になる」文章ではありませんか?

84おにぎり:2004/02/06(金) 21:50
次兄の「遺書」であることにするためには、女言葉はあえて
避けると思います。

「遺書」は、いかにも死者の真実のメッセージのように思われ
がちので、これはちょっと疑ってかかった方がいいですよね。

それにしても、謎の遺書です。

85やぶちゃん:2004/02/06(金) 21:56
今日、長兄と次兄の手記についてちょっと時間をかけて考えてみたのです。
以下、ちょっと長いですが、よかったら、おにぎりさん、お付き合い下さい。
長兄の手記は素直に読んだとき、
この時点では、
筆者は石川さんが犯人ではないのではないかという否定的感懐を、
なぜか半ば以上、
持っているのではないかと思えるのです。
以下、当たり前と感じられるくどい部分がありますが、私見を述べます(以下、すみませんが常体で書きます)。

まずサンケイ新聞昭和38年5月23日夕刊掲載分について。
冒頭、わざわざ「犯人逮捕の報」と表現しながら、それに対する心因反応が「善○!本当にこの人なのか?」という極めて強い確認と疑義となっている点である。エクスクラメンションとクエスチョン・マークの使用がご本人によるのか、それとも記者による装飾なのかは不明だが、仮に後者であったとしても、その強い念押しの確認の要求と、詰問と言ってもいい厳しさは記号なしでも十分伝わってくる。
次にそれを受ける「聞いても」の逆接の接続助詞「も」の持つ前文への否定的効果である。
そして続く一字アケである。これは、まるで映画のように、疑問を投げかける兄から仏壇のカット、そしてゆっくりとした遺影へのズームインのようである。この映像的効果自体が私に、それこそ謀略物の日本映画のワンシーンを見るような、否定的な感じを促しさえするのだ。
「何もいわず」「表情すら変えられない」では、沈黙の否認イメージに、副助詞「すら」でさらにマイナスの駄目押しが加えられる。「られない」は勿論、被害者の死の無念を示すように表面上は読めるが、同時に、実は「犯人ではない」とはっきりと訴えたいのに訴え「られない」ではないか? と筆者が考えていることの反映された表現としても十分読める。
以下の新聞掲載の礼儀としての公的な謝辞の後(ここでは当然「(犯人逮捕の)この日を待っていた」という表現が、前文との齟齬で少しも真実味を帯びていないのが判然とする)、その尋常さを打ち破るように再び意味深長なスペースがくる。
続く「これ」の指示語は何を指すのか? これは犯人逮捕という事実、即ち、石川さんの犯行事実やその様態・動機等を指すのではなく、『この事件の意味する総体』を指しているのは明白である。
ちなみに、ここであえて「もの(物)」を「者」と表記しているところに、別な真犯人として特定の「人物」を暗示しているという解釈の可能性も成り立つであろう。
「何者かゞ」のあとも「何者か」に立ち止まらせ、印象付ける効果的なスペースだ。
ここまで来て再び、我々はまた不可思議な疑問文にぶつかる。「これも農村という古くからの何者かゞ ひそんで居たのではないのか?」
核心部、「何者か」は伝統に呪縛された前近代的な「農村という」運命共同体の中に「ひそんで」いる、特殊な属性を持ったなにものかだと言う。
では「何者か」とは何か? それは民俗学的な,隠蔽されてきた陰の習俗か負の思想か? おぞましき伝承? 淫猥なる秘儀? 封印された呪詛? 想像を絶する冷徹な戒め? しかし、そこで読者は霧に断ち切られてしまう。
しかし確実に言えることは、筆者もその属性の中に『現に生きており/生かされており/その属性を持ち』、その非を痛いほど理解し、それ打ち破りたいと思うが打ち破れないという悔恨があり、『そのような特殊な属性を持ったなにものかを背景としてこの事件は起こり、結果、妹は殺されなければならなくなった』と言っているのである。だからこそ『自分を』「責めざるお得ないのです」と述べているのである。
ともかくここに至って、実は、犯人逮捕の問題は、どこかへ吹き飛んでさえいるではないか。
ただ、それが筆者の主意として必ずしも読者に迫ってこないのは、それは、ひとえに、先ほどの謝辞や、やはりこの後の尋常な「この様な」以下の文辞にはさまれているからに過ぎないと思うのである。
犯人逮捕の報を受けた親族の一言としては、極めて不可思議なの手記だと思うのである。

86やぶちゃん:2004/02/06(金) 21:59
(つづき)
サンケイ新聞昭和38年5月23日夕刊掲載の手記の一部とされるものについて。

「犯人たるおまえに」という見出しのような書き出しは、明らかに前文の「この人なのか?」という書き出しと対照的にきっぱりとしている。
後ろの一気に続く一文は、どう読んでも、初対面の見ず知らずの犯人(とされた石川さん)をイメージして問いかけているとは思えない。
「戻って呉れなかったのか」の「呉れる」という補助動詞は、このような場合の容疑者にはまず使わないだろう。そもそも「戻る」という語は、本来の状態(善人である時のおまえ)を知っているとも取れる(もちろん知らなくてもよいのだが)。そして以下は次のようにも解釈される。
(あの時、私には)「悪に取りつかれた」(かのように見えていた)「おまえでも」、(私には良くわかっているぞ。おまえには、あの時)「戻るのみの善」(しかなかったはずだということを。私にそれがなぜ分かるかと言えば)、(そんな善を私とお前は共有していたからだ。そうだ、そのような)「善をおまえはもって居た筈なのに」、(なぜその善に従って「呉れなかったのか」)。
私には原文に奇妙な臨場感が感じられるのである。
彼が語りかけている人物は、かつて筆者の前に現にいた、熟知した人物のではないか、という臨場感である。
ここでは善人や善は宗教的な言辞として用いられているのであろうが、指摘されているように被害者の名前の一部と同字であり、そこに真犯人へのメッセージ性を読み取る識者もいる。私も、それが『真犯人への』メッセージであるかどうかは微妙に留保するが、明らかに『ある有意性を狙ったもの』だと考える。
最後の、「もって居た筈なのに」「待っては居なかった筈なのに」という両表現に至って、限りない愛惜と悔恨が強烈に感じられるのである。
これは断じて、妹を殺された兄が、見ず知らずの犯人に対して、なおかつ、前半で述べたような、その人物が犯人ではないかも知れないというアンビバレントな心情を持っている状態で記された手記とは思えないのである(強固な信仰に基づく考え方が筆者の中にある場合は書き得るとする意見もあろうが、私はその場合、表現はもっと異なってくると思う)。

87おにぎり:2004/02/06(金) 22:10
ちなみに、私が引用した長兄の文は「狭山事件への告発状」(亀井トム)
からです。

どうも長兄は真犯人を知ってるようですね。よくわかりました。

今日はショックでした。次兄の遺言・・これは要チェック。

88やぶちゃん:2004/02/06(金) 22:24
付き合いすみません。
さて、最後に、次兄の遺書を検討を一応、してみましょう。

単純な点から言うと、どちらも(長兄のものは前の長い方と比較して)五文によって構成されています。
試みに対応させて通し番号と記号を振ってみます。
なお、句読点を時々省略する傾向のある長兄の文(スレッド版)には句読点を補います。
兄の最後は二文ともとれますが、
これは
「苦しかった事だろう、安らかにねむりたまえ!」の中間部に、
被害者への呼びかけが挿入された一文と解釈します。

①(A 兄)善枝の位牌の前で犯人逮捕の報をきき(、)「善○!本当にこの人なのか?」と聞いても(、)遺影は何もいわず、表情すら変えられないのです。
 (B 弟)私の生きる道はどこにあるのかしら。

②(A 兄)全国から多大なる激励、慰めの手紙をいただき(、)一刻も早く今日のこの日を待って居たのですが(、)長びいてしまいました。
 (B 弟)社会は流れ、私も流されるとしたら、余りにもさみしい夜になるでしょう。

③(A 兄)これも農村という古くからの何者かゞ(、)ひそんで居たのではないのか? と責めざるお得ないのです(。)
 (B 弟)明日の社会も今日の社会も余り変わりはないけれど、私はただ私の社会の中にきょうという日を見つめて生きるのです。

④(A 兄)この様な憎むべき犯罪が善枝以外に(、)誰の許にも起こらぬ様世の皆様にお願い致します(。)
 (B 弟)そしてまた、私は古いものの中にいつまでもいいところもあることを願いたい。

⑤(A 兄)苦しかった事だろう(、)善○よ! 安らかに(、)ねむりたまえ!
 (B 弟)すべて終わり、すべては夢だったのね。

すると、奇妙な一致が見られます。

①Aでは、死者の遺影は語らず、写真の冷たいのっぺりとした表情のまま『答えはない』。
 Bでも、個としての生の絶望から、明らかに突き放した表現で、『答えはない』ことが分かっている諦観が示されます。
②Aは『公』への礼儀としての謝辞。
 Bも社会という『公』への末期の疑問です。「余りにもさみしい夜」とはいつの夜なのか?
③Aは手記の核心部です。『古い因習』への強い猜疑が示され、「何者か」に事件の真相が暗示されます。
 Bも自殺に至る心境の核心部です。私の社会が「今日」も持つ『古い』「なにものか」に押しつぶされつつあること、即ち自殺の真相が暗示されます。
④Aは懇願です。
 Bも懇願です。
⑤Aは被害者の鎮魂の言葉です。「安らか」な「ねむり」を祈って終わります。
 Bも訣別、虚無への回帰、自己の魂の己が挽歌です。「すべては終わり」であり、「すべては夢」だと。

どうみても、これは次兄が長兄の手記を意識して記述した遺書としか思えません。
だとすると、これは極めて異様に不可解です。
自己の経営する店の経営に苦しんでいたとされる(それが自殺の原因と聞いています)次兄が、
何ゆえに、自分の自殺の動機とは無関係なはずの(何らかの事件のトラウマが彼のノイローゼ様症状と関係がなかったとは言えないと思いますが)、
過去のの思い出したくもないはずの忌まわしい親族の事件の、
選りに選って、犯人逮捕時の、
どうみても異様な長兄の手記を、モデルにしなければならなかったのか。
そこには、おのずと隠されたメッセージ性を読み解きたくなってしまうのです。

推理小説の読み過ぎかしら?
(実は推理小説は年をとってからはほとんど読まないのですが)
それとも、う〜ん、やっぱりこれは、おにぎりさんの言うように、ライターにはめられたのかな?

とりあえず、牛のよだれみたいなレスでごめんなさい。

89やぶちゃん:2004/02/07(土) 00:14
次兄の引用元を間違えました。全文掲示はもっと後の部分でした。
引用しておきますね。

***(引用始め)

03/05/01 12:59
「私の生きる道はどこにあるのかしら。社会は流れ、私も流されるとしたら、
余りにもさみしい夜になるでしょう。明日の社会も今日の社会も余り変わり
はないけれど、私はただ私の社会の中にきょうという日を見つめて生きるの
です。そしてまた、私は古いものの中にいつまでもいいところもあることを
願いたい。すべて終わり、すべては夢だったのね。」

実話GONナックルズ6月号「ミステリーの交差点」
本橋信弘氏の文より抜粋しました。
たったの2ページだけど、氏の実体験とスレのまとめのような感じで
とてもおもしろい。
もっと読みたいなぁ。

***(引用終わり)

なお、このあとに、かなりこの本橋氏の記事に批判的なレスも見られます。
ただ、 記事自体がでっちあげとの印象は少なくとも感じられません。
ただ、この次兄についての情報は非常に少なく、
資料的に確度が高いのは、殿岡氏の「犯人」の358/359ページの記事ぐらいでしょうか。
ちなみに、それによると
「(石川さんの)二審が終わってから三年後の一九七七年一〇月四日に自宅で変死」
「遺書はあったらしい」
とあります。

90おにぎり:2004/02/07(土) 20:55
遺書といえば、限りなくあやしい奥富のは、

病気にまけた。申し訳ない。
父母たのむ。
兄姉様

とあったそうですが、これまた不自然ですね。もう少し
死に臨むリアルさが滲むものだと思うのですが。

91おにぎり:2004/02/07(土) 21:00
(補足)
自殺の原因は「病気」なんだとムリに強調しているようで。
事実病気だとしても、もう少し書きようがあるんじゃないか
と考えます。結婚式を翌日に控えているわけですから。これ
では、婚約者は納得できないでしょう。婚約者に対する謝罪
も無いというのも不自然です。

92むむ・・・:2004/02/07(土) 22:49
どの遺書も自殺した本人が書いたようには見えない。?????

93やぶちゃん:2004/02/08(日) 10:56
おにぎさんやむむ…さんのご意見を聞いてみて、
まさにこの事件に関わる、脅迫状、手記、複数の遺書といった、
実際に書かれた文書類の、
極めて不可解な書記法、表現、記述目的との不整合といった、
不可解な共通性が浮かび上がってきたと実感しています。
今後も、折に触れて考えてみたいと思います。

94盛況 ◆cQ5CwQT2.c:2004/02/09(月) 20:08
やぶちゃんさんにお誘い頂いたので、チョット投稿します。
>>83での、原本に忠実な「長兄の手記」について。

 善枝の位牌の前で犯人逮捕の報をきき
「善枝!本当に この人なのか?」
 と聞いても 遺影は何もいわず、表情すら
 変えられないのです。
 全国から多大なる激励、慰めの手紙をいただき
 一刻も早く今日のこの日を待って居たのですが
 長びいてしまいました。 これも農村という古
 くからの何者かゞ ひそんで居たのではないのか?
 と責めざるお得ないのです。
 この様な憎むべき犯罪が善枝以外に 誰の許 
 にも起らぬ様、世の皆様にお願ひ致します。
                      (4、5行アキ)
 苦しかった事だろう 善枝よ!
 安らかに ねむりたまえ!

これが正確な処だと思われます。これは既述の如く、『狭山事件権力犯人と真犯人』
に画像で転載されておる物です。但し、スペースはそれが実際明確にスペースのつもり
で書かれたものかどうかは、読む人の解釈しだいと言う部分もあるでしょう。そう言う
意味でスペースかどうかやや疑わしい部分は、
 「本当に」の後
 「聞いても」の後
普通に読めばスペースと解釈出来る為、上記ではそのように記載しました。

あと「世の皆様にお願ひ」の「ひ」は、「い」の草書風とも見えるが、他の部分の「い」
とは明確に違うので「ひ」と解釈するのが正しいでしょう。

更に、「犯人たるおまえに」以降の部分はこの画像では見当たらず、御指摘の通り、ど
こにどう付いていたのかは不明。
亀井本では『「犯人たるおまえに‥‥」と題した手記』と書かれて上記の画像が掲載さ
れているが、画像にも本文にも「犯人たる‥」以降の記述は無し。
殿岡本ではその部分の記述は何も無し(本文のみの紹介)。
甲斐本では「苦しかった事だろう」の前に「犯人たる‥」があったかのような記述の仕
方。
取り敢えず、以上です。

95やぶちゃん:2004/02/09(月) 22:34
盛況さん、早速のご投稿、嬉しい限りです! 
手記の字句表記その他の情報、ありがとうございます。
あつかましいお願いですが、次兄の遺書の情報についてはどのようにお考えか、
またの機会にお教え下さい。

96おにぎり:2004/02/23(月) 21:04
狭山事件は「謎の脅迫状」から始まっていますが、特に「少時様」
(わざと読みとれるように斜線数本で消してある)とは、いった
い誰のことか・・単なる架空の名前としても、この文字から受け
る印象は大きいものがあります。まさに「謎」めいています。

先日購入した古本(明治三十四年刊の復刻版)の末尾にこんな
広告がありました。

 『豪傑の少時』(タイトル)
  ・・・古豪傑が少年時代に於ける・・・(解説)
明治時代には「幼年」「幼時」を意味するのに「少時」も使われて
いたことがわかりました。

こんなことを考えました。

「少時」=子ども時代
宛名の「中田栄さく」=「少時」
(中田栄作は幼年期に、ごく一部の親しい人達から「少時」とニック
ネームで呼ばれていたのではないか・・あくまで推量ですが)
脅迫状の元の宛名「少時」は、実は読む人が見ればそれが誰をさして
いるのか、ひょっとしたらこの脅迫状を出した「犯人」がだれである
かすら分かるような用語だったのでは・・・。

5月2日の「佐野屋」での張り込みの前に、栄作と登美恵が「善枝」は
もう殺されていると言って泣き出したこととか、「犯人は多分知ってい
る人だから・・」といったコメントが栄作からあったことの矛盾が解け
るような気がします。ご意見を期待します。

97入間川:2004/03/31(水) 05:11
狭山事件の犯人は、もう死んでいる。この事件は、もう終わっている。真犯人は、今はもう墓の下にいる。

9898:2004/04/16(金) 16:21
真犯人が死んでいたとしても、真相が明かされない限り
「もう終わっている」ことには絶対ならない。

99ろった:2004/04/16(金) 22:20
ちょうけいでしょう。

100おにぎり:2004/04/17(土) 22:12
真相が明かされていないため、石川一雄氏はいまでも犯人
扱いで、ここに「狭山事件」が今の問題としてあるわけで
す。多分、真犯人は墓の中ですね。いいかげん、司法が信
頼を得るかどうかのひとつのバロメーターが「狭山事件」
でしょう。70年代の司法の右傾化がいまでも続いている
のでしょうね・・、「三権分立」って死語なんですか?

101ろった:2004/04/17(土) 22:30
人間世界なんでそうなるんでしょうねぇ。人間は人と人が
つながっていますしねぇ。

102盛況 ◆cQ5CwQT2.c:2004/05/04(火) 23:58

>>96でのおにぎり氏の投稿にもある通り、脅迫状の「少時様」に就いては、
現在迄様々な説があり大きな謎の1つです。この「少時様」に関連して、
今回、2板の新井 泉、1−531両氏と共に行った現地での調査の結果、
若干の新事実を見い出しました。
現在正確な事実関係を確認の為、鋭意再調査中です。

新井氏及び1−531氏とも協議の上、然るべき時期が参りました際、
それらの事実につき投稿させて頂くと共に、小生サイトにその報告を(取り敢えず
推理は別として)UPする所存です。

103新井 泉:2004/05/05(水) 00:39
取敢えず2chのスレが荒れ放題で、5月1日にも事件についての書き込みが無い
と云うのを見て少々がっかりしました。
申し訳御座いませんが暫らくこちらのスレをお借りして、事件についての投稿を
させていただきます。

さて、>>102 盛況 様の投稿に有りますように我々は被害者の命日と思われる
5月1日に現地巡見を行いました。
その巡見に於きまして、脅迫状の新解釈に繋がる事項の発見に至りました。
そちらの方については、プライバシー等に係わる事項も含まれておりますので、
我々も細心の注意を払っての発表とさせて戴きたく思います。
現在現地の写真を含めまして、盛況 様にHPの製作依頼をさせて戴いております。
近い将来公開できるようになると思いますので御期待願います。

先ずはご挨拶までに。

1041-531:2004/05/05(水) 02:24
102盛況氏にて紹介をいただきました1−531でございます。
新井氏のプロデュースによりまして、上記のごとく現地を廻ってまいりました。
これまで我々が知り得なかった事実による、脅迫状新解釈から推理を膨らませて、
新たな「説」を構築すべく準備しております。
盛況・新井両氏とも協議しながら、私の冥想を迷走させてみたいと思います。

以後わたくしは「犬神」と名乗らせて頂きます。

105盛況 ◆cQ5CwQT2.c:2004/05/05(水) 23:31
脅迫状の宛名「少時様」についてこれまでに推理されて来た事は主として、
「しょうじ様と言う名の他家の子供を誘拐しようとしていた偽装」或いは「時
が少ないと言う犯人側か、被害者宅か、その心理や状態を表したもの」との事
であった。また被害者一家周辺に「しょうじ」と言う人物がいたのではないか
との推理も様々に為されていたのであった。

今回地元在住の新井 泉氏の尽力により、1−531氏(改メ犬神氏)と共に、
自転車を使用しての肌理細かな実地見分を行う事が出来た結果、特に少時様の
問題につき示唆を与えると思われる事実を発見した次第。

取り敢えず現時点での詳細に就きましては新井&531両氏に願うとして、暫
定的且つ簡単な頁を作成しましたのでそちらをこれよりUPしておきます。

106新井 泉:2004/05/06(木) 00:01
それでは盛況 様の後を引き継ぐ形になりますが、『正治』様についての考察を投稿します。

今回の巡見中、中田家の墓所を偶然発見することができました。
被害者であるYさん、次女であるTさんの墓を参りご冥福を祈った後、偶然にも
盛況 様が右から3番目の墓石の側に刻まれた『正治』様の文字を発見しました。
つまり、かつて中田家に『しょうじ』様が居たのです。
この方は、昭和19年に31歳で台湾に於いて戦死された方で、
年齢的に推測すると『栄作』氏の弟に当たるのではないか?と云う事になります。
ここで我々は以下の推理をしました。

①脅迫状にある『少時様』は『正治』氏の事ではないか?
②『正治』様は何か中田家に於いて過去に忌まわしい事件に係わっていたのではないか?
③犯人は脅迫状を書くに当たって②の事項を知っていた人物ではないのか?

等々であります。この「正治」様が、果して事件に関連性がある名前であるのか否か、
また関連性があるとしたらそれはどの様なものであったのか、それについては調査を継続
し、僅かでも事件の真実に接近出来る様、努力して行く次第であります。

107おにぎり:2004/05/06(木) 07:13
画期的な発見ですね!今後の成果期待してます。

ところで、「少時」という言葉を、また別のところで発見
しました。

「自分は訳もなく非常に感動した。広いパリーの都、広い
フランスの国に、今自分を知って居るものは、全く此の内儀
一人。然し今宵、此の都を去って了へば、其れが最後で、
少時(しばらく)にして、二人は何もかも忘れ果てて了ふの
であろう。彼女は時が来れば勝手に死んで了ひ、自分も亦、
何処かの国で病気にかかって斃れて了うのだ」(永井荷風
「船と車」)

ここでは、亀井説のように「少時」が使われています。今では
奇異にみえる「少時」という単語も明治には結構一般的に使わ
れていたんですね。

108behavio:2004/05/06(木) 14:10
盛況氏に質問ですが
貴殿のサイトの死体埋没状況の写真はどこから入手さたのでしょうか?
他にもナマナマしい写真はお持ちなのでしょうか?

109通りすがり:2004/05/06(木) 15:58
亀井トム著「狭山事件・権力犯罪の構造」という本に
載っていますよ。
この本は、今でも比較的手に入れ易い。
盛況氏サイトの写真も、おそらくこれを転載したものだろう。

110レイムダック:2004/05/06(木) 16:55
盛況さん達は、奇しくも被害者の命日(本当は違うかもしれないが)
にお墓参りをしたわけですね。

ところで、盛況さんのHPにUPされているお墓の写真は、
5月1日当日に撮影されたものですよね?
命日にしては、花なども奉られていないし、
家族が墓参りした形跡がないようで、この点がちょっと
気になりますね。

それと自殺(?)した次女のお墓の苗字は、嫁ぎ先の
苗字になっているとは知っていたが、それなら当然、
Y家のお墓に眠っているとばかり思っていたが、お墓は
N家で、被害者である妹の横に並んでいたんですね。

どのような事情があったかは知らないが、この事実は、
いささか感慨深い。

111盛況 ◆cQ5CwQT2.c:2004/05/06(木) 18:36
>>107
今回「正治」様の名前を見い出し得た事は(またその前にそもそも墓所を発見
し得た事)全くの僥倖でしたが、それから考えている事は亀井氏やおにぎりさ
んが書いている意味と、この「正治」様を掛けているのではないか?と言う事
です。そもそもこの脅迫状は既に多く語られている様に、門をカドと読ませる
意図であったと思われる事に代表的な様に、所謂「掛け言葉」を駆使している
と考えられる為です。
しかし今の処、見い出した事実が実際どのように事件と繋がるのかと言う「推
理」の前に、事実の正確な取り纏めを小生としては優先しております。

>>108->>109
本件に関連した写真を所有している訳ではありません。小生も写真は精々が市
場で入手可能な書籍かネット上で見るだけです。但し、屍体埋没状況の物は、
以前に2板で「オカ板画像掲示板」と言う所に誰かが貼ったモノを使用。初め
は直リンであったが、消えたのでキャッシュに残ったモノを自分でUPした、
と言う事です。勿論亀井本のはそれ以前に見ていましたが。

>>110
小生自説では命日と言う事になっているので、当然それを意識して現地に向い
ました。そして命日にしては花も手向けられてないし線香も無い。しかし、近
日UPしますが、新井氏に追加調査を依頼しまして、その画像が届きましたが、
4日に新井氏が再度赴いた際、御遺族が墓参をしていた様です。その写真には
被害者の墓に(そしてこの墓にのみ)花が手向けられています。詳細は新井氏
の報告を望む。

更に、姉のお墓の件は我々も実に不可思議です。やはり公判での夫YH氏の態
度に顕われていた様に、相当に深い事情がその裏に横たわっておるものと見ら
れます。

112レイムダック:2004/05/06(木) 19:02
>>111
そうですか。では家族のお墓参りは1日の夕方か、翌日くらいだったのかな。
人ごとながら、いくぶんほっとしました。
自殺した次兄のお墓もあったんですよね?

次姉のお墓については、まだ正式に嫁入りしたわけではなかったので、
実家の墓地に埋葬されたのでしょうか。
戸籍上は改姓していたことと、形式上は結婚していたことの、せめてもの
証拠としてY姓にしたのかもしれませんね。
それに、死んだからといってN姓に戻すと「離婚した」ことになってしまうし。

お墓がN家の墓地になったのは、若くしてこの世を去った四女が淋しくないよう
にと、遺族が希望しY家も承諾した結果なのかもしれませんね。
そうだとしたら、むしろいい話だと思いますが。

113新井 泉:2004/05/06(木) 20:01
>>112 レイムダック様
>>111の盛況様の投稿の補足をさせて戴きます。
我々は被害者の命日と云う事も意識して、巡見の日程を5月1日としました。
偶然に被害者の墓を発見出来たのは、何か引き付けられる物があったからかもしれません。
私は以前にも何度か一人で周辺を回ってみたのですが、N家の墓所については発見する事が
出来ませんでした。
N家の墓所は、恐らく平成になってから大規模な改修があった様です。
想像するに父親E氏が亡くなったのを機に施工されたと思われます。
この時期にN家とY家での話し合い等があり、次女Tさんの墓もN家の墓所に移設されたの
ではないかと思います。

Y家ではTさんが亡くなって約40年、Tさんの事を知る人もいなくなり無縁仏になろうと
していた所、不憫に思ったN家が墓所の改修を機にTさんの墓をN家墓所内に移設したのでは
ないかと想像する次第です。

また、1日当日はN家の墓所が解らなかった為、手ぶらでの墓参りとなってしまいました。
後日補足調査を兼ねて花を持って再びYさんの墓を参ると、花と線香が手向けてありました。
僭越ながら持参した花を供え、改めてYさんのご冥福をお祈りしました。

またN家の墓所は本家の物のようで、分家となった次兄の墓はありませんでした。

114レイムダック:2004/05/06(木) 21:25
>>113
父親のEさんはいつ亡くなったのかは分りますか?

115レイムダック:2004/05/06(木) 21:26
>>113
父親のEさんは、いつ亡くなったのか分りますか?

116盛況 ◆cQ5CwQT2.c:2004/05/06(木) 21:57
>>114
平成2年7月28日、84歳で逝去されています。

以前は殿岡氏改良説の頑固な保持者であった小生ですが、考えと月日を重ねて
いるうちに「被害者宅はやはり被害者だ」(まあ当然ですが)との思いを持ち
今回墓所に参って、
そんな思いを強める事となった。被害者一家に関わり事件の動機に繋がる事実
が、もしあったとしてもである。
であるから、これから作成しようとする今回の見分を基にしたやや詳細な報告
頁は、個人的には相当複雑な思いを抱きつつ、と言う事になる。その為ネット
上で公開出来る範囲の事とし、一部仮名での制作とさせて頂きます。

その頁の制作にこれから取り掛かる為、この後のレスは少々お休みさせて頂き
ます。

117新井 泉:2004/05/07(金) 19:52
今回の巡見にて知り得た名前ネタをもう1つ。
既刊の出版物により既出だったら、申し訳ないのですが三女の名前と兄弟の名前の
共通性についてを投稿します。

先ず三女の名前は『登伏子』ちゃんと表記がありました。(読み方については解りません、
また行年より三女と判断しました。)
この事を踏まえて、長男『健治』長女『喜代子』次女『登美恵』三女『登伏子』次男『喜代治』
四女『善枝』三男『武志』と云う事となります。

まず名前の共通性として長男と次男に『治』の文字が見受けられます。
次に長女と次男には『喜』の文字が見受けられます。
次女と三女には『登』の文字が見受けられます。
ここまではある程度、法則性に則ったものと思われます。
(先祖よりの名前から字をいただいて子の名を付ける。または、兄弟で同じ文字を使う事により
他人が見ても兄弟と判別し易くする等々)
然し四女『善枝』三男『武志』とここからは、兄姉との共通性が見出せません。

ここまで踏み込んだ事になると調べようがないので想像になってしまうのですが、
上記の事より思い出されるのが母の乱行。
N家では、四女が『種違い』(ひょっとすると三男も?)であると云う事を
子供が生まれた時点より、強く意識していたのでしょうか?
若しくは単なる偶然なのでしょうか?

118おにぎり:2004/05/07(金) 22:17
> 117
系字的分析、説得力があります。新情報ありがとうござい
ました。
ところで、2歳で亡くなった三女ですが、「登伏子」で間違い
ないでしょうか。「伏」という文字はあまり人名には用いられ
ないような気がするのです。たとえば「登代子」という可能性
はありませんか?

119レイムダック:2004/05/08(土) 11:36
>117
なるほど。
確かに某巨大掲示板では書きにくい内容ですね。
夭逝した三女の名は、私も「登代子」であるような気がします。
ちょっと調べてみても、こういう字の女性の名前は見当たらなかった。
他の兄弟にはごく普通の漢字を用いているので、なおさらそういう気がしますが。
墓石の写真はありませんか?

120新井 泉:2004/05/08(土) 15:10
>>118 おにぎり様
そう言われると自信がないですが、私も少々首を捻りながら(読み方が解らないの意)
メモを取っていた覚えがあるので恐らく間違いはないと思います。
この点については再々度調査してみます。
『登』と『子』は間違いないので、それまでは仮名とさせて戴きます。
また墓石には2歳ではなく、3歳となっておりました。
こちらはそれ程問題ではなく、数え年と生まれ年の表記の違いと思われます。
(3女は2女と年子で、もし数え年の表記だとしたらTさんと双子と云う事になってしまう)

>>119 レイムダック様
HDのファイルを見ましたら、その写真は撮り忘れてる事に気付きました。
写真を撮りに行く事はさして難しい事ではないのですが、それを公開するのは少々問題が
ありますので要検討という事になってしまいます。
またこちらの板をお借りしてる理由の一つに『真面目な(現調)隊員』を増やすと云うのも
あります。
遠方にて参加出来ない方もいらっしゃるでしょうが、御自分の目で現地の空気や事件の
あった場所を確認する事によって、何かを感じ取って戴けると思います。
これから現調予定等も書き込みますので、そちらに参加される事をお勧めします。

不完全な報告となってしまい申し訳ありません。

121レイムダック:2004/05/08(土) 23:46
N家当主の弟さんについては、「昭和19年に31歳で台湾に於いて戦死された」
とありますが、これは墓石に刻まれているのですか?
それとも別の調査での発見ですか?
某掲示板では、弟さん(被害者Yさんからみると叔父さん)の戦死について、
Yさんの母の死とからめて疑問視する死者を侮辱するともとれる投稿が
なされています。

私は住んでいるところが九州と遠いのですが、現調は3度ほど経験しました。
石川氏と奥さんにもお逢いしてお話を伺ったことがあります。
石川氏はN家については全くの被害者という認識で、長兄さんが犯人扱い
されたことを、我が事のように憤っておられました。
真犯人については自殺した元作男を疑っておられるようです。
奥さんは「単独犯ではない」というご意見でした。

「鴨居の万年筆を仕掛けた」とされる巡査は、石川氏を冤罪に陥れたにっくき
張本人のはずですが、事件前にだいぶ世話になったせいなのか、それほどの
悪感情を持っておられないのはちょっと意外でした。
ただ、「一番悪いのはH」と、「十年で出してやる」と約束して自白させられた
あの警視のことを言っておられました。

122犬神(1−531):2004/05/09(日) 01:32
「昭和19年に31歳で台湾に於いて戦死された」
これは墓石に刻まれていたものです。

123盛況 ◆cQ5CwQT2.c:2004/05/09(日) 13:27

姉(次姉)の墓について、小生としてはこう考えています。
この墓石の建立者は父(栄作氏)となっています。この事から、やはり逝去後、
この被害者宅の墓所に葬られたのではないかと言う推測です。戸籍上はY家の
嫁となっていた姉ですが、亡くなる年の秋に挙式の予定であったので、挙式を
以て「正式」な婚儀と考えていたならば、挙式前且つ実家での死去であるから、
実家の墓所に葬ったと言う事です。その際、墓石に刻む氏名としては戸籍上の
氏名を重んじた、と。
もっとも、これは嫁ぎ先の墓所に一旦入ってから、父生存中(平成2年7月以
前)に新井氏が投稿されているような経緯があって、移築されたと言う事も勿
論考えられます。

124レイムダック:2004/05/10(月) 13:54
>>123
実況見分の解説読みました。
その詳細は考察に敬意を表したいと思います。
三女の名は、長女と次男の名前から推測すると、やはり「代」の字が
正しいように思われますね。
墓石を実際に見ていないのでなんともいえませんが。

四女(被害者)と三男の名前の付け方は、確かに上の兄姉達とは
違いますね。四女は片親違いらしいですが、三男もそうなのでしょうか。
四女は非業の死を遂げ、三男ものちに養子に出たそうですが・・・

125M_I:2004/05/10(月) 19:46
>>石川氏はN家については全くの被害者という認識で、長兄さんが犯人扱い
されたことを、我が事のように憤っておられました。

横から失礼します。それはとても興味深いです。もし詳しくご記憶されていましたら
具体的にどのような内容(言い回し)だったのか教えて頂けると嬉しいです。

遺体の埋葬のされ方はその集落の慣わし(?)的なものだったという発言を見かけたことが
あるのですが、これは本当なのでしょうか?違った場合、遺体の詳しい状態を知りたいのですけど
文章ではちょっと(僕は)想像できませんでしたので、何かの文献で絵か図で載ってないですかね。

126レイムダック:2004/05/10(月) 21:01
>>125
遺体埋没の情況は、亀井トム著「狭山事件」(上・下)が詳しいですよ。
この本は今でも比較的古本で手に入れ易いと思います。
亀井本は今では評判悪いですが、この本は初期のもので、比較的冷静な推理が
展開されています。高裁の寺尾判事も「参考に読んだ本」の中に挙げていました
(ご存知の通り、判決には全く反映されていませんが)。
遺体埋没については、一口で言うと「この地方の埋葬方法の逆形式をとっている」
ということですね。
「犯人〜狭山事件より」を書いた殿岡氏は新聞記者のようです。

石川氏が言及された事件の件については、彼が仮釈放中ということもあり、
あまりおおっぴらにできない微妙な部分もあります。
石川氏を支援する人の中には、被害者家族を疑う人もまだ多いようですが、
石川氏は、その考えは間違いであると、はっきり述べておられます。

127おにぎり:2004/05/10(月) 21:19
>>125
さらに補足すれば、遺体や証拠品など、事件の第一次的証拠は
「狭山事件公判調書目録」(部落解放同盟中央本部発行)
にあります。実にリアルです。古本で入手可能かと思われます。

それと・・真犯人ですが、石川さんは自分を牢獄につないだ長谷部警
部補や寺尾を許せないわけで、犯人探しはさほど意識してないと思わ
れるのですが。

128盛況 ◆cQ5CwQT2.c:2004/05/10(月) 21:24
>>124 レイムダック氏
恐縮です。今回の見分については、投稿だけでするよりも、画像を見て頂いた
方が解り易いと思い、先に頁を制作しての発表とさせて頂きました。
夭折された三女の名前について、新井氏が御多忙と推察されるので結果のみ小
生から申し上げます。先程頂いた新井氏の報告によりますと、おにぎりさんや
レイムダックさんの御推察の通り、「代」の字が正しいと解りました。詳細は
新井氏の報告を望みます。

>>125 M_I氏
レイムダックさんが投稿された通りです。
本件の屍体遺棄のされ方が「両墓制の逆形式」である事を唱えたのが亀井トム
で、「本当」と言うよりもそう言う推理も有り得ると言う事です。確かに土葬
では4本の縄で棺桶を墓穴に降ろし、降ろしたら縄を外す。屍体には荒縄が外
されぬままぐるぐる巻きにされていた。両墓制の埋め墓に置く拝み石が穴から
見つかった玉石、犬ハジキ棒(埋め墓に立てておく)が芋穴にあった棒切れ、
との推理、簡単に言うと。

遺体の状態は通常に購入出来る本では「無実の獄25年」か「差別が奪った青
春」と言った処でしょう。後は絶版モノが多いですが「狭山事件 権力犯罪の
構造」などをネットの古本販売で根気良く検索すれば手に入るでしょう。更に
極めつけがおにぎりさんがお薦めした「狭山事件公判調書目録」です。

129テフテCテタテ_テbテN:2004/05/10(月) 21:46

確かにそうですね。
ただ、石川氏はこうも言っておられます。
「いかに長谷部らの卑劣な罠に引っかかったとは言っても、自分が嘘の自白さえ
しなければ、真犯人は捕まっていたかもしれない。
その意味では、善枝ちゃんとご家族の方には本当に申し訳なく思っています。」

やはり「代」でしたか。
となるとやはり四女と三男の名前に違和感を感じますね。
なんらかの事情があったとしても、それを名前に反映させるとは、それ(スキャ
ンダル?)を暗に認めたことにもなるわけですから、そう考えるとかなり複雑に
なりますが。
旧来の家父長制の習俗の残滓だったのでしょうか?
「N家に生まれた女の子は育たない」という噂話は、どういう根拠だったのか、
なにかのスキャンダルがあったとして、真犯人はそれを利用しようとしていたの
かも興味深いこととではありますね。

130レイムダック:2004/05/10(月) 21:49
失礼。名前欄がなぜか文字化けしていました。
>>129の投稿は前段が>>127おにぎりさんに、後段は>>128盛況さんに
宛てた私のものです。

131behavio:2004/05/11(火) 00:34
>>128
「無実の獄25年」という本を最近購入しましたが、死体の写真はなかったです
イラストはありました。またこの本には中田家の葬式の様子が
写ってるという話をどこかのスレで読みましたが、私がかった本には
それもありませんでした。初期に発行されたものとは
内容が多少違うのでしょうか?

「狭山事件公判調書目録」にはいろんな写真が載っているのでしょうか?

132Dark:2004/05/11(火) 01:12
横レスです。
>>131
>>109で投稿されてる本にその写真はあります。他には載ってなかったと思います。
「狭山事件写真集」については、地蔵の写真が違うようですが、
他は同じだと思います。
本の質問は2ちゃんの狭山スレあたりでした方が良いでしょう。

133レイムダック:2004/05/11(火) 14:15
現調に何度も行っている人に確認したのですが、次姉のお墓は、最初からN家の
墓地に、被害者である四女の隣に建立されていたそうです。
そもそも「夫」であるYHさんは、葬儀はおろか通夜にも参席していない(あるい
は参列を拒否された?)上、自分宛の遺書さえ見せられただけで貰っていないと、
公判で証言しています。
ということは、喪主はN家の父親だったはずですから、葬儀に参列していない
(させていない?)Y家の墓地に、遺体だけ埋葬するというのはまずあり得ない
話でしょう。

134盛況 ◆cQ5CwQT2.c:2004/05/11(火) 20:51
その姉の遺書についてですが、公判証言をつぶさに読んで見たところでは、
「遺書」がどのような形態であったのかも語っていないし、と言う事は、その
「遺書」が夫宛のものであったかどうかも結局の処不明です。
しかし『Yさん、幸せになって下さい』と言う様な文面があったと言い、その
様にある程度内容に関してはっきりと証言していると言う事は、夫は確かに、
ある種の遺書的な文面は家族から見せられたのでしょう。

そうすると言うと、この「遺書」(姉の、夫宛の)はあったのかどうか、と言
う事になるわけですが、小生は、これは姉の日記(の最後の頁)に書いてあっ
た事を、夫はその時見せられたのではないか、と。
要するに姉の「遺書」と称する物は、「日記」に書いてあったのではないか。
 (個別宛の「封書」ではなく)
ト言うのが、現在小生がこの「姉の遺書」について考える処です。

>>129後段でレイムダックさんの投稿内容については、実は小生も全く同じ様
な方向で考えてはいます。が、その詳細はまだ個人的に練れてませんから、も
う少し考慮したいと思います。そのあたりの考慮を突き詰めて行けば>>78以降
でやぶちゃんさんが考察しておられた次兄の「遺書」に関する事迄、結果的に
は行着くと思いますが‥‥。

135レイムダック:2004/05/11(火) 21:42
>>134
公判記録などによると、次女の遺書は3通で2通が父と兄弟宛てで、残り1通が
「夫」宛てとのことです。ただし「夫」は遺書は見せられたがどんな内容だった
か、縦書きか横書きかさえ忘れています(法廷証言は次女の死から8年後)。
遺書は日記にしていた大学ノートを引きちぎって書かれていたそうで、枕の下にあり、
封筒はなかったとのことです。

136M_I:2004/05/11(火) 22:51
>>126>>127>>128レイムダック氏、おにぎり氏、盛況氏
ご親切なレスポン感謝致します、とても参考になりました。
それで遺体に施されたものから素直に読み取るのは難しいということのようですね。
自分は最近になってこの事件を知りザバっと成り行きを読んだ程度の者なのですが、
遺留品はとりあえず「両墓制」という埋葬形式を意識されたと思われる上に、
それを逆にされている(そう見ることも出来る)ということですか。
これはちょっと嫌な感じではありますがこの事件らしい全体に漂う「工作」感があらわれていますよね。
一発目にこの事件を知った時は「劇場型」・「愉快犯」をイメージしたのですが、とりあえずこれを温存しておきます。

自分は2ちゃんの議論等を経験してない分、表面的な印象を諸に拾える状態にあります、
これを利点として(活用して)違ったアプローチが出来れば良いかなと思います。
あらゆる可能性は皆さんが拾ってらっしゃるようですから、厳密なほうに1名加担するよりも
変わった方向に割り振られたほうが良さそうな感じがします。
それにしましても皆さん真剣に追跡されてますよね、敬意を称します。
発生から40年ですよ、これひっくり返したら(当たり前ですが)オオゴトですよ(笑)

>>129レイムダック氏
貴重なお話有難う御座います。
僕が思っていたのとは違うかもしれないし、そうかもしれないという微妙な感じです。
確か石川氏は被害者家族と面識がなかったようなので、石川氏も事件に無関係であれば
当然彼自身にとっても狭山事件は客観視するしか方法がないですから、第三者同様に
文献を読み、長兄さんに疑念を持つはずだろうと考えました。
事件後も周辺の人間も自殺かどうかは分かりませんが亡くなってますよね、
「何か知ってるかもしれない人物」はもう一人しかいないと言ってもいいくらいですよ、
時効にもなっていることですし「自分が出られるとしたら関係者の自供しかない」と
石川氏は気づいて良心に訴えかけるような圧をかけているのかなと推測してました。
この解釈は事件解決にあたって特に意味がある訳でもないばかりか、地元有力者の件を
差し挟むと弱くなってしまいますが、地元有力者の件を「切り捨てる」とまだ生きてきますよね。

姉の日記もあるんですか、実は今一番欲しいといえば、
「被害者の日記」と「長兄さんの報道陣にやった推理」ですね。
文献にあたってみます。(絵で良かったのに遺体の写真が載ってるんですね、それもリアルに)
とりあえず僕は勘を足掛かりに可能性を狭めて考えてみたいです。

137盛況 ◆cQ5CwQT2.c:2004/05/11(火) 23:05
>>レイムダック氏
「夫宛」の遺書に限定して言うと遺族に(この夫も遺族なのですが)「遺書」
を見せられた処「ぼくのことが書いてあって‥」と言う事で、その言いっぷり
を一応信用すれば、それは実は夫宛の遺書ではなく、家族宛のものに書いてあ
ったか、やはり日記の文言を見せられたのではないか‥?と言う意味でした。

しかしこれは長兄の「日記には常識では考えられない事が書いてあったんだが」
と言う言葉を、姉のお墓の前で思い出した時に、浮かんだ考えです。つまり、
「日記」(その最後の部分が遺書を兼ねていたのかも知れない)にはその「常
識では考えられない事」が書いてあった為、夫には全部を見せられなかったか、
夫はそれも読んだが、勿論公判では全てを語る事など出来なかった‥‥のか、
と言う事です。
しかしチョット空想が先走りました。

本題に戻ると、何故亡くなった姉は実家の墓に嫁ぎ先の姓で入っているのか、
と言う事は素直に考えれば>>123前段の小生自身の投稿の様であったとは思う
けども、夫が何故通夜にも葬式にも行かなかった(行けなかった)のかにつ
いては、その裏にどうも事件総体の真相にも関わる、相当な事情があったので
はないか‥‥と考えています。
ではその「相当な事情」とは何か。それが問題で。

138盛況:2004/05/11(火) 23:19
 (もう面倒なので2板のトリは外します)
>>M_I氏
屍体埋没の仕方についてですが、亀井氏や甲斐氏そして殿岡氏も、その細工に
身内的な人物が犯行に関わっていた形跡が見られるとの言説でした。自分もあ
る時期迄これに可也影響されておりましたが、現在はむしろ遺体を「冒涜」す
る「怨恨の表現」としてこれを見ています。
その上で、ここに「両墓制の逆」を見る事も可能であると。これはコレでまた、
多くの考察を要するテーマです。なにしろこの事件、考えなければいけない事
が多すぎるので事件全体像を推理する総合的な説を立てる事は、なかなか困難。

今迄の先入観に囚われぬ考察期待しております。これがネットの利点です。

139レイムダック:2004/05/12(水) 01:00
結婚式はまだ挙げてなかったとはいえ、通夜にも葬儀にも出ない「夫」。
常識では考えられない事態ではありますが、実は私、これと似た実話を聞いた
ことがあります。いささか場違いかもしれませんが、あえて紹介しましょう。

やはり田舎の農家での出来事。
立場は逆になりますが、男性側の実家の都合で入籍はしたものの、まだ同居
していない「夫婦間」の、「妻」側の実家にちょっとした問題が起こり、世間体を
気にする「夫」側の両親が、婚約の破棄(正式には「離婚」)を申し出ます。
「妻」の両親は「離婚」理由はあたらないと応酬し、一時かなり険悪な雰囲気
となります。
「夫婦」自体にはトラブルはなかったのですが、結局、この「夫婦」は「協議離婚」
にいたります。

ここで思うことは、もしこのとき、実家同士の争いのさなか、将来を悲観した「妻」が、
自殺していたら・・・ということです。
おそらくそれが「離婚前」であっても、自殺の原因は「夫」側にあると怒った「妻」の
両親は、本来「喪主」となるべき「夫」には、通夜にも葬儀にも参加させないでしょう。
むろん「夫」の家の墓地に埋葬するなどもっての外でしょう。
ただ、戸籍上の姓までは、本人が死んでいる以上変更できないのではないでしょうか?

Tさんの「自殺」も同じ情況だったとは断定しません。
しかし、彼女の死に対する「夫」の不可解な言動は、私にはそう理解するのがもっとも
適切であるように思われてなりません。
N家の長男が、Tさんの死後語った「日記は常識では・・・」というくだりも、もし本当に
狭山事件に関する秘密のことであったならば、マスコミにそういうことを漏らしたりは
しないと思うのです。
これは、妹の非業の死の責を、「夫」問うている、兄なりの表現だったように感じら
れるのです。

140レイムダック:2004/05/12(水) 01:16
少し前の投稿にて、私は「非業の死をとげたYさんが寂しくないように」と、
姉のTさんを隣に埋葬したのでは、と書きましたが、よく考えてみると、
「夫」が通夜にも葬儀にも参加しないというのはやはり異常です。
こういう場合、少々のいざこざがあってとしても、死者を弔うことは絶対に
するはず。村八分にされた家でさえ、葬儀には参加したというくらいです。

ということは、「夫」は参列したかったが、「妻」の実家がそれを拒否した、
としか私には考えられないのです。
その場合、「妻」の自殺の原因が、「夫」かその実家にあると、「妻」の
家族が考えていた、ということでしょう。
そこに至った理由が何であるか、狭山事件の真相と少しでもかかわりがある
のかはまったく判りませんが。

141M_I:2004/05/12(水) 01:23
>>138
なるほど。その三名の方はいわゆるビニール袋に包んで海に沈める等の
近親者的配慮と解釈されたんですね、注意して見てみようと思います。
それで気になっていたのですが、この問題に長く取り組んでいらっしゃる
方の中には長兄説から離れた始めた方もいるのはどうしてだろうと思って
いましたが、何やらまだ検討すべきものが残っているという事のようですね。

>>今迄の先入観に囚われぬ考察期待しております。これがネットの利点です。
何かしら役に立てればと思います。ですが仰るとおりこの事件は小説でいう
ところの「伏線」がばらまかれ過ぎてる(笑)みたいなので事実関係だけ
拾うだけでも疲れてしまいそうな・・・。

142犬神(1−531):2004/05/12(水) 02:17
一方私が思うのは・・・
いま以上に閉鎖的であったであろう農村で、
とんでもない大事件の被害者家から嫁をとるということは
Y家にとって相当重大かつリスキーな決断であったろうということです。
入籍後も実家を出てくる気配がなく、自殺までされてしまったとなると、
Y家からしてみれば踏んだり蹴ったりでしょう。
YHが通夜にも葬儀にも出ないのはY家の心情からすれば理解出来なくもないし、
トミエさんがそれを望み、遺書に書いていた可能性もあると思えます。
トミエさんは何らかの理由があってYHと結婚しようとしたものの、
このままY家に嫁いでいいものかと悩んでいたのではないでしょうか。
選択肢を無くし、ひとり悩み痩せ細っていったトミエさんの姿が、
そこにあるのではないでしょうか?

143竜崎:2004/05/12(水) 14:20
初の書き込みになります
巨大掲示板の方には、名無しですが何度か書き込みしております。
3rdスレでレスが付かなかった「思いつき」なのですが、
>>117辺りから「種違い」について触れられているので当時の書き込みを
書いてみます。

225 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :02/11/06 19:13
古い話で申し訳ないのだが、一番最初のスレ-262の中田家が保有する土地の面積はあっているのかな?
長兄の言う「3町」は警察調書にある畑二町三反を間違えたとは思えないし、山林一町三反を加えた値なら
3町を大きく超える。
したがって畑二町三反の他に七反の水田若しくは茶畑があったものと思うのだが・・・
もしそうだとすると、昭和22年から始められた「農地改革(農地解放)」により、在郷地主の田畑は
山林と家屋敷を除く2町(本州の場合)を上限に強制的に国に買い上げられたはずで、中田家は農地解放を
逃れていたことになる。
昭和22年というと奇しくも善枝さんの生まれた年であるが、日本政府に対するGHQからの指示は
その前年に出されているはずである。
(準備期間や農協の絡みで日本政府とGHQとの駆け引きがあり、指示が直ちに実行されたわけではない)
「農地解放逃れの為に中田家が何かをした」、そのここと「善枝さんの出生の秘密」とに関係が
あるのでは無いだろうか?


226 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :02/11/06 22:58
225>訂正です
「2町(本州の場合)を上限に強制的に国に買い上げられた」ではなく、「保有を
2町に制限され残りは強制的に国に買い上げられた」が正解です。

以上です。

144レイムダック:2004/05/12(水) 16:42
>>141
死体埋没の情況については、亀井・甲斐・殿岡、三氏の推理はそれぞれ食い違っています。

亀井説は「両墓制の埋葬方式の逆刑式で、近親者による鎮魂と呪詛の念を込めた」
甲斐説は「池に投棄する計画を変更したように見せかける意図があった」
殿岡説は「近親者による顔面保護目的と、複数犯に見せかける意図であった」

すなわち亀井氏は埋没が両墓制ではないかと最初に指摘した人で、弁護団による
学者の鑑定結果にも反映されています。
甲斐説は玉石や荒縄、ビニール風呂敷などを、脅迫状の記述に併せて推理している点が
特徴的で、縄の結び目からその結論を導いた推理は、なかなか説得力があります。
殿岡説は自身で事件した結果をもとに荒縄などは残土処理の「道具」であったとしていますが、
個人的感想を言わせてもらえば、前二者と比較していまいち説得力に欠けるようにも思われます。

>>143
非常に興味深い情報だと思います。
レスがなかったのは、当時の農地とGHQなどの関連で、ここまで詳細な知識を持つ人が
いなかったからでしょう。
この問題が事件にリンクしているとすれば、いよいよ難解・複雑な情況を呈してくると
思います。このあたり、当時を知る人に聴き取り調査などできる地元の方がいればいい
のにといつも思っています。

145おにぎり:2004/05/12(水) 21:20
>>144
「聴き取り調査」は、まったく不可能というわけではありま
せん。たとえば、41年前、遺体発見にかりだされた消防団の
方たちは今でも多数いるはずですし、当時の警察の捜査状況
を記憶している方もいるはずです。そこを掘り起こすと新しい
ものが見えてくる可能性は充分あると思います。これまでの
閉塞した「狭山事件」の突破口ですね。
まったく同感です。

146犬神(1−531):2004/05/13(木) 03:19
盛況氏、HPの更新お疲れ様です。
図にしていただくと大変解り易いですね。
何かがぼんやり見えてくるような気がします。

147レイムダック:2004/05/13(木) 16:12
N家の子供達における命名の仕方について、私の田舎の親戚に聞いてみました。
昔はやはり家父長制の影響で、長男に先祖代々からの人名漢字を用いることが多かった
のは言うまでもないことですが、病気などで夭逝することも少なくなかったので、次男も
同じような命名方法だったとのこと。

また子供が女であっても、万一の場合に養子をとることもあるので、同様の命名例が
あったようです。
しかし、兄弟も5番目6番目となると、それにはこだわらない命名になるだろうとのこと。
この場合は当時の名前の流行の応じた命名になる例があったとのこと。
「農家の三男坊」という言葉もあったくらいですし、実際N家の三男も養子に出ていますね。
Y枝やT志が当時流行っていた名前かどうかは不明ですが。

つまり旧来の「家父長制」「家督の相続」という慣習から考察すると、N家の子供達への
命名は、それほど特殊な例ではなかった、ということになります。
従って、命名方法からあるスキャンダルを想定することには、この話からは、妥当とは
言えなくなる可能性はあるかもしれませんね。
むろんこれもひとつの説に過ぎないわけですが。

148新井 泉:2004/05/13(木) 16:20
>>143 竜崎様
1947年(46年と云う記述もある)から1950年に行なわれた農地改革は、
正確に行なわれていない可能性が大です。
また、所有する土地を売って一時的な土地成金になった地主が、小作農から
売った土地を買い戻した事もあった様です。
そもそもN家の土地が、3町と言っていたのは長兄だけなので、この辺の話し
については眉唾物です。
つまりそれ以下だったかも知れないし、それ以上だったかも知れないと
云う事です。

>>144 レイムダック様
>>145 おにぎり様
盛況様より一報が入っていると思いますが、三女の名前は『登代子』が正解です。
墓石の模様(御影石)の為、そう見えたようです。
こちらの方は、盛況様にも画像で確認して戴いており同じ様な感想を持たれておりました。
しかしながらこれによって三女までの名前の共通性は、より類似点が多くなった訳で
四女以降は、なぜ名前に共通性を持たせなかったかが注目されます。

聴き取り調査・・・かなり難しいです。
私は何度か現地に赴いていますが、閉鎖的である事は今も昔も変わらない様です。
特に事件関連の事となると、眉をひそめる方が多いです。
今ある事を調査しておりますが、回答が得られず遅々として進まないのが現状です。

149新井 泉:2004/05/13(木) 16:36
追記
>>147 レイムダック様
貴兄の投稿を踏まえた上で、次女は『とみえ』四女は『よしえ』と同じ『え』の発音が
あるにも係わらず、なぜ『善恵』とはせずに『善枝』にしたか疑問に残る処ではあります。
また、当時の流行と云う訳ではないと思いますが、女の子の名前は『〜子』と付けるのが
一般的だった様に思われます。
そう云う意味で次女、四女は当時としてはハイカラ(藁)な名前だったとも推測されます。

150おにぎり:2004/05/13(木) 18:04
>>149
ハイカラといえば、石川一雄さんのお姉さんは「一枝
(ひとえ)」さんでしたね。
>>148
そうですか、いまだにこの事件にはふれてもらいたくない
という意識が根強いのですね、残念です。しかし、殺人現
場というわれる場所が駐車場になったり、当時のおもかげ
はX字交差点しか残ってなくても、やはり完全に「風化」
することはないということでしょうか。狭山事件は永遠の
謎。

151レイムダック:2004/05/13(木) 19:24
規模が違うと言われそうですが、同年代に起きたケネディ暗殺事件では、これも
解決済みの事件なはずなのに、あの暗殺現場周辺は、あえて当時のままにされて
いますよね。
狭山事件も、同じように現場保全ができないものでしょうか。

152おにぎり:2004/05/13(木) 20:24
>>151
そうですね、現場保全といっても、結局は「うそ」の現場
ですからね。そういう意味で、宅地化されて消えつつある
ことは、その住民自体が「狭山事件」は冤罪であるという
ことを見抜いていることの証左ではないかと考えています。

盛況さんの「実況見分結果からの考察」について

(図下の墓石)墓石の基礎部分の区切りの推理についてで
すが、これは「単に建立したときの都合」ではないように
思われます。ムラ的家父長制が体質化している地方では、
必ずそれなりの意味が墓にこめられています。

納骨される序列は

①中田家の墓
②特に墓石を建立して供養しなければならない墓
 ②-1 中田T蔵・Y女および中田正治
 ②-2 山下登美恵
 ②-3 中田善枝
③「中田家有縁」
 これは、単なる信仰上のモニュメントとして
 建立されているもので、多分、遺骨が納められ
 ていることはないのではないかと想像されます。
④「中田家供養塔」
 もっとも大きなものですが、これは墓石ではなく
 文字どおり「供養等」ですね。モニュメントです。
 盛況さんの鋭いご指摘は当たっています。多分「日
 蓮宗」系と思われます。善枝さんの墓石の後ろに写
 っている供養塔婆は、有縁・無縁の御霊を供養する
 ためのものですね。多分お盆とか彼岸に毎年「先祖
 代々」とかの供養しているのでしょう。
このことから、中田家は(いろいろ事情があるでしょう
が)信心深いということと、これだけの墓石およびモニ
ュメントを建立するのですから、経済力があるというこ
とが伺えますね。貴重な資料です。

153盛況:2004/05/14(金) 00:18
>>142 1-531氏
左様‥‥まず、通常に考えると、事件の後にお見合いで結婚が決まったわけで
すが(事件の年の秋と伝えられる)その際当然事件被害者の実家である事は婚
家(夫の家)には充分過ぎる程に解っていた筈です。そのリスクを敢て取った
婚姻と思われますが、当初、嫁が籍を入れた後も実家に残っての生活を続ける
事はある意味では納得ずくであったのではないか。ト言うのはやはり事件後の
嫁の実家の状況を情状酌量して。
しかしながらその揚句「自殺」をされ、小生の解釈では「遺書」もロクに見せ
てもらえない(或いは夫宛の遺書が無い又は隠蔽している)そこに夫としても
妻の実家との確執があり、その故通夜にも葬式にも行かず、後年公判に今更の
如く呼び出されても「何を今更」と言う意識があったのか‥‥とも考えられる。
現在では旧い考えと言う事になるがそもそも、「片親」と言うだけでもある種
の差別意識があったと思われる(これは小生自身の体験上。小生自身は年代も
事件当時より新しくしかも都会に居住していましたが)。いわんや当時の田舎
に於いてをや、ト言う事です。
なおこれは一般的常識的な考察であり、真相がどうだったのかはまた別です。
しかし、ソレはそれとして531氏独自の推理を期待してますよ。

>>152 おにぎり氏
小生としてその「区切」を敢て指摘しておいたのは、投稿された様な含みを持っ
ての事でした。しかし真相は不明なので含みに留めておいたと言う事です。
区切が意味あるものであるとしたら、昭和12年に亡くなられたT蔵氏とその
妻?(年齢行年の記載無し)と「正治」様とが、何かしら深い関係があったと
言う事になります。そうなると、単に年齢差から推定した「略系図」は間違い
であるかも知れず、そこの処が今一つ良く解りません。そこで現在の処、事実
及び通常に推定出来る控え目な事柄のみの記述とさせて頂きました。
被害者宅の墓所が経済力的にどの程度の物であるかに就きましては、近所の他
の墓所との比較も必要かも知れません。その近辺の農家では、ほとんど全て所
有する地所に墓所を設けていました。それらとの比較検討は、今後とも調査対
象の1つにしたいと思っております。
また昨今気がついた事には、写真をご覧頂ければ解りますが、墓の廻りにある
竹の棒はもしかすると「両墓制」であった頃のなごりかも知れぬと思い、その
ように一言サイトに追加記述しました。小生は墓制には余り詳しくないので、
本当にそうかは今は不明ですが。

154犬神(1−531):2004/05/14(金) 02:31
>>新井氏
名前の共通漢字について、ひとつ考えていることがあります。
後日カキコします。

>>盛況氏
文献にあるトミエさんの言葉を含め、
トミエさんが書いたY宛の遺書を想像すると・・・・

Yさん、私は汚れた人間です。
私は自分や家を守るために嘘をついてきました。
そのせいで無実の人が死刑になろうとしています。
私はあなたの家にお嫁にいくことは出来ません。
これ以上あなたやご家族に迷惑をかけることは出来ません。
どうかお許し下さい。

Yさん、しあわせになって下さい。      トミエ

長兄の言う「常識では考えられないこと」は、
石川氏が無実であるということを、自分も承知しているにもかかわらず、
そう発言したものだと思います。
トミエさんは一度は結婚を決意したものの、このままY家に嫁いでしまったら
Y家を不幸にしてしまう・・・
苦悩の果てに自ら死を選ぶしかなかったのではないでしょうか。
そしてN家に留まれない理由もあったのではないかと。
それがヨシエさんの事件とかかわっていると考えられます。

155犬神(1−531):2004/05/14(金) 03:32
あ、追記です。
現調時にN家近辺の墓所にも、遠目ではありますが目をやったところ、
やはりN家のものはかなり立派であったといえるでしょう。
新しさの点でも。

156おにぎり:2004/05/14(金) 06:41
中田家墓石にある竹の棒ですが、「両墓制」のなごりのようにも
みえますが、多分「施餓鬼供養」のとき旗をくくりつけるポール
じゃないでしょうか。

157竜崎:2004/05/14(金) 10:49
>>148 新井様
日本の小作農は事実上「永代小作」で小作人は農地に
対して思い入れがあるため、一度手にした農地を簡単に
手放したりしません。
私自身、生まれ育ったのが「田舎」と呼ばれる地域で
住人の殆どが自地で営農していますが、農地解放以前は、
自地を持つのはほんの数軒でした。
農地改革が「厳格」に行われていない可能性については、
その通りだと思いますが、形骸化防止のために買い戻す
行為は禁止されていましたので、単純に買い戻したのは
無いと考えます。

>>3町と言っていたのは長兄だけ
3町という数字が、長兄の放言だった可能性の方が
高いと言うことですね。

158レイムダック:2004/05/14(金) 16:20
次女が自殺した後の報道によると、彼女は大学ノートに書いていた日記を石川氏の
地裁死刑判決直後から中断したようです。
「身体がだるく、頭が重い」と訴え、死の十日ほど前に訪れた堀兼診療所では、
「極度のノイローゼ」と診断されたとのことです。

また、父親宛ての遺書にはこう書いてあったとのことです。
「死を考える親からよい子など生まれません。五月一日善枝の供養をしたときはじめて
自分がわかった。二人で真っ黒になって働らいていた頃が一番幸せだった」
さらに「夫」宛ての遺書には、
「私は美しい花をみても美しく思えない女になってしまった。あなたを幸福にできない」
と書いてあったとのこと。

このことから、次女の遺書は一部かもしれませんが、公開されていたことが見てとれ
ますね。ただ、長男が言う「日記には常識では考えられない事が書いてあった」のが、
この遺書のことを指しているのか、それ以前の日記のことなのかが不明ですね。
もし後者とすると、彼女は日記を書くのを中断していたわけですから、一審判決以前から、
次女は「常識では考えられない」精神状態に陥っていた、ということになりかねないよう
にも思われます。

次女は事件の年の秋にお見合いし、十二月には入籍しています。
非業の死を遂げた妹の喪が明けてからでもよかったように思われますが、なにか特別に
急がなければならない事情でもあったのでしょうか。
しかし、この年までは特に変わったことはなく、体調が悪くなったのは年が明けてから
としても、亡くなったのは七月ですから、ノイローゼは急速に進んだと見てよさそうです。

159おにぎり:2004/05/14(金) 22:53
>>158
父宛の「遺書」はじめて見ました。この出典はどちらですか?

160レイムダック:2004/05/15(土) 14:16
>>159
「サンデー毎日」(昭和39年8月2日号)と「週刊現代」(昭和39年7月30日号)
の記事からの引用です。

161盛況:2004/05/15(土) 17:52
>>154-155
「遺書」はそのようであったかも知れませんな。小生はこの「変死」はやはり
自殺と見ておりますが、ただ状況が余りにも判然としないので、自殺であるに
しても、色々と隠したい事情があったのでしょう。

他家の墓まで観察する余裕がありませんでした;;もしその様であれば、やは
り被害者宅の墓所は相当に立派なものであると見ていいでしょう。

名前の文字の考察、期待しております。

>>156
或いは、単に鳥除けかも知れません(藁
しかし施餓鬼供養の可能性は高そうです。

162おにぎり:2004/05/15(土) 21:31
>>160
ありがとうございました。

この遺書もまたまた怪しい内容ですね。喜代治の遺書ほどではないにしても、
まるで3流ドラマのせりふ。長兄の話でももとにして当時の記者がフレームア
ップしたのでしょうか・・。

関係者の「遺書」はみな共通した雰囲気があるような気がするのですが。この
ころ(1962)吉永小百合が華々しくデビュー。「いつでも夢を」レコード大賞。
映画「キューポラのある街」大当たり。そんな純愛モードが反映されている一
方、リアルな「死」がこれらの遺書からうかがえないのは、やはり作り物では
ないのかと、疑わざるをえません。

163盛況:2004/05/16(日) 14:53
既に>>152に於ておにぎりさんも指摘されている様に、墓所の構成について、
供養塔と家全体の墓石の他に、単独で設けられている墓があります。T蔵、
Y女及び正治の各氏と本件被害者とその姉の墓です。既出の「区切」の問題は
この際別としても、これら単独墓石の主は、いずれも不慮の死を遂げた人々で
あった為に、このような構成となった事も考えられます。それぞれ死因は殺害、
自殺、戦死。その様に考えると、T蔵とY女という人達も、その様な事情があ
った人達なのか、と考えなければなりません。
この場合、被害者の母と三女も通常の逝去ではありませんが、こちらは(一応)
病死と言う事で、自然死の一部と解した結果、こうなったと考えられる。

と、言う様な事を、実況見分の際新井氏、531氏と話をしていたのを今思い出し
た次第です。
もっとも、T蔵氏の墓は旧いものなので、両墓制が廃止された際、残存する最
も旧い墓石をこのような形で残しただけ、と言う事も勿論考えられます。

164Non:2004/05/17(月) 01:05
初めまして。Nonと申します。

事件・事故関係のこのサイトを検索しているうちに、
狭山事件に関する情報を偶然得る機会がありました。
その日は5月1日…Y枝さんが行方不明になった日です。
偶然性(…というか、因縁)を感じて、すこし私なりにも推論したりしています。

盛況様のサイトにある「遺体発見時写真」にある種の違和感を感じながら
(追々整理しようと思いますが)少し伺いたいのです。

それは、このスレでもあったと記憶していますが、
「地元での独特の埋葬法」
とあったのですが、どんな形式だったんでしょう?
お分かりの方がいらっしゃれば、ご教授下さい。

私なりにも、少し腑の落ちない
(勿論、明らかな「冤罪事件」だと私も思っておりますが、それを差し引いてなお)
この事件に関して、微力ながらお手伝いできればと思っています。

165レイムダック:2004/05/17(月) 16:57
>>164
「地元での独特の埋葬法」というのは「両墓制」のことを指しているのだと思います。
両墓制は、この地方に古くから伝わる土葬の埋葬方法で、遺体を埋める「埋め墓」と
供養に参るための「拝み墓」の二つのお墓を形成する墓制ということですね。

「埋め墓」には野犬よけの「犬はじき」と呼ばれる青竹を立て、さらに玉石を並べて置く。
野犬よけとして始まった風習が一種のおまじないとして残ったもののようです。

166Non:2004/05/18(火) 07:05
>>165
ありがとうございました。
なるほど、埋葬と祭事と2つ墓があるんですね。

167新井 泉:2004/05/18(火) 12:00
>>166 Non様

>>165 レイムダック様の投稿の補足
ttp://www.tabiken.com/history/doc/T/T122C200.HTM
ttp://www.town.sashima.ibaraki.jp/jiten/bunka/ryobo.htm
両墓制については上記のサイトに詳しい記述あり。

これに関連して、昭和8年の「墓石投入」事件なのですが、一般的に墓石と云うと
四角く高さ1m程度の御影石等に代表される物(下記サイトの写真右)を連想しがちですが、
どうやらN家に投げ入れられたのは、埋め墓の玉石(下記サイトの写真左)ではないか?と
仮説を立てました。

盛況様のサイトにある実況見分結果の考察に見られる一枚目左の写真にある
「中田家有縁〜」供養等の下の方を見て戴きたい。
恐らくこれらが両墓制の時の玉石として、使われていた物であったと思われます。

昭和8年当時、自由に車(トラック?)を使えた人などはごく限られた人達しかいなっかた
と考えられます。
又夜中にN家に近付けばエンジンの音で気付かれてしまう。
とすると、墓石や卒塔婆を積んで移動したのは、リヤカー等の人力で動かす物。
さらに上記の一般的な墓石と記した物をそれに積んでとなると、相当の人手が必要と
考えられるため、少人数での犯行と考えた場合「墓石投入」の墓石は、埋め墓の玉石
だったのではないかと云う推測を導き出しました。

168盛況:2004/05/18(火) 19:13
新井氏が述べた事にある程度符合すると思われるものに、亀井トム『狭山事件
権力犯罪の構造』281頁下の写真がある。被害者宅墓所の両墓制について説
明した写真。これには、家名が刻印してある通常の墓石の傍に、もっと小さな
墓石が沢山並んでいるのが写っており、現在の「〜有縁」の塔の下にある小石
碑は、この亀井本にある昔の石の一部であると思われます。

確かに実際、普通一般的な大きさの墓石を運搬する事を考えると、これはもう
大変な重労働。と言うより場合によっては不可能かも。そして投げ込み事件で
は「朝沢山の墓石や卒塔婆が投げ込まれていた」とされ、亀井本の写真から推
測すると、拝み墓(詣り墓)の墓石そのものは「沢山」は無かった可能性が高
い。沢山あったのは「玉石」の方であったとの新井氏の推測は蓋然性がありま
す。
>>167で紹介されているサイトの写真にもあるように、「玉石」と言った場合、
屍体埋没現場から出た様な文字通りの「石」とは限りません。その様な玉石も
ありますが、普通の墓石や石碑を小振りにした様なものもあったと言う事です。

169盛況:2004/05/18(火) 19:25
>>168追加
>>拝み墓(詣り墓)の墓石そのものは「沢山」は無かった可能性が高い。
とは、墓所自体に元々、詣り墓の墓石が沢山無かった(事によると1つだけ)
様に思われる、ト言う意味です。

170おにぎり:2004/05/18(火) 21:26
墓にこだわっています(笑)

なるほど、中田家の庭に投げ込まれた墓石が玉石だったのではないか
という説は説得力があります。サオ(先祖代々など書いている部分)
はとても無理ですよね。納得します。
ところで、中田家有縁墓の下にあるという玉石ですが、日陰になって
いるところにある石のことでしょうか?向井側の墓所の近くにも玉石
のようなものが写っていますが・・。
ちなみに、二審第66回公判で、和歌森太郎・上田正昭鑑定人によって
提示された鑑定書の写真がありますが、玉石というよりはもう少し墓
石に近いものですね。被害者の頭部近くに埋められていた玉石には、
「両墓制」の習慣から来る宗教的意味合いはあると思います。が、現
在の中田家の墓所にある石が形状からいってちょっと難しいのではな
いでしょうか。写真にある石はどんな大きさで、また経年変化の具合
とか特長とか教えていただければありがたいです。

171Non:2004/05/18(火) 22:26
>>167 新井様
早速確認させていただきました。
なるほど。私は東北の人間ですのが、当地では埋葬した場所に墓石を設置します。
両墓制は、古代、厄病(伝染病)から集落を守る有効な手段として
経験的に営まれたのでは…と私は想像しています。

昭和8年の「墓石投入事件」に関して、具体的にどんな事件だったんでしょうか?
(庭に墓石を投げられたって程度しか知らないもので。。。)
「狭山事件」は、何か因習めいた匂いが漂うので、
多少気にしております。

>>168-169 盛況様
私も投げ込むとしたら、石柱よりも、玉石程度であろうと思います。
ただし…一人でやった場合ですが。(複数の可能性もあるので)。
犠牲者の母親は、婚姻時、すでにその地区では嫌がらせをされる
「何か」があったのでしょうか???

>>170 おにぎり様
私は屍体遺棄状況にこだわっています(苦笑)。
盛況様のサイトにあります写真ではよくわからないのですが、
頭部はどちらを向いていたのでしょうか?
北なのか、南なのか??

それによっては、この事件は少し趣が変わるような気がいたします。

172盛況:2004/05/18(火) 23:13

>>170:おにぎり氏
>>171:Non氏
小生も暫くは墓所から推測出来得る事柄に、こだわって行く所存です。何と言
っても過日の見分での最大の出来事が、被害者宅の墓所に詣った事である故。

処で>>有縁墓の下にあるという玉石 とは、地面にある石ではなく、その有縁
塔の直ぐ下に安置してある高さ4、50cm位であったか、旧い小さな墓石、
地蔵尊のような物の事だと思います(新井氏の投稿の場合)。
その意味で、>>169に於きまして、「両墓制に於て屍体埋没現場から出た玉石
の様に自然石の様な玉石も使用されていたが(石を積み上げたモノが多い様で
す)普通の墓石を小さくした様な(要するに形は普通の墓石)物も埋め墓に置
かれていた」と言う事を投稿したわけです。

但し少し訂正します。やはり「玉石」と言った場合、埋め墓に積み上げる方の
石の事ではないでしょうか。それを「玉石」に見立てて、屍体と共に埋めたと
の亀井説です。
しかしこれも但し、新井氏の説が間違っていると言う事では無く、要するに、
「投げ込み事件」で投げ込まれたのは、いずれにせよ詣り墓の墓石では無く、
埋め墓の墓石(小さい)であったとの新井説は正しいと思います。

屍体と共に発見された方の「玉石」ですが、寸法=20×13×13cm、重
量4.65kgとの事です(実況見分調書による)。経年変化の具合などはち
ょっと解りませんが、特徴は特に何の変哲も無い様な石だと思います(写真を
見る限りでは)。
ただ、
ちょうどこんな感じの石を埋め墓に置いており、この石から「両墓制に使う玉
石」を連想したとしても、それほど奇異な推理では無いと思います。

その感じの石を用いた埋め墓↓(墓石もあるが)
http://www.kimai-net.gr.jp/kagawa/sanuki-seto/island/takamijima/dengon.htm
また、こんな風変わりな埋め墓もある様で↓(屋根付き)
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/kurashi/4/
こちらは普通の墓石ふうな石を用いた埋め墓↓
http://www.fsinet.or.jp/~yukio/siaku/saryoubo.htm
ハジキ棒を埋め墓に立てたもの↓
http://www.town.unakami.chiba.jp/rekisi/siryoukan/sekizo/bohyo/01.html

などの頁をご覧下さい。

更に思う事は、屍体と共にあった玉石は、もしかすると、当時両墓制であった
被害者宅墓所から1つ盗んで来た物ではなかったか、と言う事。被害者宅では
無くても、堀兼地区に多いそれらの埋め墓にあった物かも知れない。
また更に、おにぎり氏が指摘した「日陰になっているところにある石」は当時
埋め墓がそこにあったなごりであると思われます。何故ならば、このような
「玉石」は、自然にはこの付近の土壌には含まれない物であるからです。

それから、
Non氏の御質問=屍体の向きは? 南向きです。

173;:」¥;:2004/05/18(火) 23:58
私の推理を書きます

被害者が殺害された理由は、異血の排除だと思います
真犯人は長兄または被害者一族ではなく共同体(講?)だと思います

被害者が殺害されるころには、その出生の秘密は農村全体に
知れ渡っており、当時の狭山には差別意識が根強く残っていたので
共同体(講?)としては、その存在を容認するわけにはいかず
組織的に殺害が実行され、よしのぶちゃん事件をまねて
誘拐殺人事件のように偽装されました。当然被害者一族も承認していました

この事件は組織的に起されたもので、かなりの人数がかかわっています。
被害者誘い出し役はOGで、自転車を家に運び脅迫状を届け出たのは長兄の
役割だったのでしょう。

174新井 泉:2004/05/19(水) 00:15
>>170 おにぎり様
その通りです。『中田家有縁〜』石柱の周りとでも云えばよいのでしょうか、下の方に
よく道端などにあるお地蔵さんの様な物が、両墓制時代の玉石と思われます。
これらの大きさは、約4〜50cm程で年代的には風化の度合いから可也古い物(何時頃の物かは
特定できません)と思われます。

>>171  Non様
『墓石投入事件』についてですが、被害者の両親の結婚式の朝、N家の庭に大量の墓石、卒塔婆
が投げ込まれていたと云う言い伝えです。
事件を推理する方の中には、『墓石投入事件』迄遡り『N家に対する怨恨』説と唱える方も
いらっしゃる様です。
また、投入事件が複数犯だとしても墓石の運搬は容易ではなかったと推測されます。

屍体遺棄状況については『土地の風習の逆』とされています。
確か頭部は南向きと記憶しております。
ttp://v.isp.2ch.net/up/52a6205e1160.JPG
↑あまり参考にならないでしょうが、貼っときます。(早く見ないと消えちゃうyo!)

175おにぎり:2004/05/19(水) 06:56
勘違いしていました。。『中田家有縁〜』石柱の周りにある古い
墓石のことですね。てっきり地面にある丸石かと思っていました。
これは明らかに墓石ですね。江戸時代はおふれにより武士階級以
外は「サオ」は三尺以内と定められました。大抵は無視したよう
ですが(笑)埼玉は関八州で相対的に幕府の締め付けがきびしか
ったのではないかと想像すれば、規則どおりにこんな小サイズの
墓を作ったことも考えられるのではないでしょうか。

176盛況:2004/05/20(木) 20:46
>>175:おにぎり氏
小生も文意を勘違いしておった模様。ようく読むと、おにぎりさんが聞きたか
った事は、被害者宅墓所にある「石」の寸法と経年変化の具合ですね?大きさ
は屍体と一緒にあった玉石と同じ位の物です(大小ありますが)経年変化の方
は、やはり今解りません。チョット、当日そこ迄頭が廻りませぬでした。
ただし、供養塔下の小墓石の方は、掲載した写真でもある程度解る様に、その
経年変化の具合は相当旧い物であると言えます(墓所にある他のどの墓石より
も旧い感じです)。その点、新井氏の投稿の通りです。

埋め墓の墓石のサイズですが、元々江戸期には、その様な事があり全て小サイ
ズな墓石を立てていたかも知れませんが、両墓制の写真を見ると、要するに詣
り墓の方は立派な(普通の)墓石を立て、埋め墓には玉石を積むか、小さい墓
石を立てるか、或いは玉石を積んだ上に小さい墓石を立てている様子が見て取
れます。
両墓制サイトの写真例と、亀井本のかつての被害者宅墓所の写真と、今回見分
した供養塔下の小墓石とを比較検討した結果、供養塔下の小墓石が、大きさと
経年変化の具合から言って、両墓制当時の埋め墓々石の残りであると言って良
いと思います。


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