したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

女子高生コンクリ詰め殺人事件

525無精髭:2010/05/31(月) 01:24:07
その論旨を概説しますと、いじめや恋人どうしのけんかといった狭く閉じた関係でしばしば起こる暴力によって、それを目撃しているのにも
かかわらず、その関係の閉鎖性ゆえに手出しも出来ず、傍観せざるをえない立場に立たされてしまう者が―――言葉を変えれば、間接的な
暴力を被ってしまう者が、その当の暴力的な事象について(あるいは、自分がそういった立場に陥ってしまう必然性について)「既存の概念
コードや論理」を用いて理解しようとする、そういった行為さえも暴力なのだと主張する、かなりラディカルでエキサイティングな内容です(笑)。
暴力とは、言語を通してそれと対峙しているものにも無際限に伝播していく。そもそもそれは、観察者が事態と真に向き合うことを本源的な
ところで拒むような支配的イメージ(先入見)がその言語使用に付きまとうからなのだそうですが。一口に言うと、暴力はそれを目撃する者を
必然的に傍観者にしてしまうが、傍観者となった者は(おそらく暴力に対して傍観者であるという関係を一方的に迫られたがゆえに)
目撃している当の暴力を語ろうとする際に、その暴力によって自分の言葉が暴力的なものへと規定されてしまう、そういった必然的な機構が
あるのだということです。つまり、人は暴力によってただの傍観者にさせられてしまった経験を自然と受け入れてしまうと、それを暴力の
正当な理由や必然性に置き換えてしまう傾向がある。・・・非常に難解ですが、中々に興味深い内容です。

 ところが、そのように意味と必然性を見出すよう働きかけること、それじたいが暴力の働き、効果であるかもしれない。
 だとすれば、暴力の必然性を読み取り、その意味を解釈し、語ることによって、人は必然的に暴力の側に立たされることになる。

私は、暴力が第三者を(暴力的に)傍観者としてしまうことの必然と、傍観者となることを強要された第三者がその暴力体験を幾分正当化して
語らざるをえないこと―――あるいは、傍観者がその暴力体験を論じてしまうと、言語使用においていわばミイラ取りがミイラになってしまう
ように暴力的にならざるをえない、と論及された二つの必然性がどうも頭の中でうまく接合しません。もう一つ。傍観者に対して意味や論理を
付与するといった、暴力による思考・言語活動への介入についての説明をもうちょっと詳しく書いてもらえるとよかったです。あと繰り返しますが、
先に引用しました「性暴力」云々のくだりは、誰からの影響なのかどういった文脈を下書きにしているのか、はっきりとは分かりませんが、
やはり>>469と同じく牽強付会の嫌いがあります。結論が変な方向に捻じ曲がっているような気がするのです。結局そんなことが言いたかったのかよ。
自分のフェミニズムを説きたかっただけかい、と言いたくなりますが、まあ、浅野氏の論考でも言及されている『女子高生コンクリート詰め殺人事件
―彼女のくやしさがわかりますか?』について、amazonのレビューをみると、
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4784501789/ref=cm_cr_dp_all_summary?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending
弱者の立場に立ってそれとは関係性の薄い自説を振り回す論法というものが相対化されていて、もはや時代的に無効となりつつあるのが見て取れますね。
そういった意味では、少し酷な言い方かもしれませんが、このスレッドに書き込まれたコメントのいくつかにも該当することではないかと。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板