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雑談&連絡スレッド

2993無精髭:2011/01/31(月) 20:38:12
宗教も民間信仰も影響力に乏しい現代では、個人が死後の世界について具体的なビジョンをイメージ
するのはとても難しくなっているかと思います。死後の世界に対する明確なイメージを与えてくれる
権威装置あるいは共感装置の不在・衰退、産業・社会構造の劇的変化に伴う共同体意識の希薄化と
それを背景にした伝統や慣習の衰退などが、おそらくその原因なのでしょうが、こういった状況から
冥界だの来世だのといった超越的な物事についてあえて語ることの意義が、集団・文化のレベルから
個人・意識のレベルへと移っていくのは半ば必然でもあるわけですよ。信仰の対象も帰依せざるをえない
宗教ももたず、死後に纏わる事柄について知識と呼べるようなものすら十分に与えられていないからこそ、
多くの現代人は死後の世界だの神だのといった超越的な事象・存在についてめいめい勝手な妄想を抱く
ことができるようになった、抱いても誤謬を犯すことがなくなった、こういうのを形骸化というんですね。
むしろ言葉や行為の画一化をそう呼ぶのが一般的なのかも知れませんが、実を言うと、ある言葉なり
行為なりの定義づけに関して人々が社会的な合意形成を目指すでもなく、各自がてんでバラバラな
理解を基準に言葉を使ったり行為したりしている状況の中で特定の言動の意味や価値が相対化していること、
こういう現象を形骸化といったほうがしっくりと来ます。なぜなら、古くからの習慣に価値があるとすれば
それは個人の立場からそう感じられるということ(更に言えば、ある言動に価値を見出しそれを
享受するという循環)とはまったく無関係に、習慣や儀礼が社会にとって効果的に機能している
ことを表しているのであって、それが機能しなくなったときには形式だけが残されるからです。
残された形式に対しては個々人が自由に価値を見出しますが、だからこそ内容の同一性や纏まった
意味を持つことがないという点で充実することがありません。

イデオロギーの権威やそれと対になる信仰が人々の価値観を半ば強制的に画一化させていたときは、
価値解釈(価値判断)による言語使用や儀礼行為は集団を自発的に一つの思想の下に取りまとめる
ための指標となりえていたはずだし、そこでは個々人の自由が制限される反面、規則が充実する
ことで言動に関する真偽や正否、有益か無益かを社会の側から判断することができるようになり、
その社会での習慣などは形骸化とはまさに真逆の方向を行くわけですが、現代ともなれば、予測
不可能な所からボコボコと乱立する価値観がそれまで単一の意味に定義付けられていた言動を
様々な角度から相対化し、個人が習慣を守ることによって他者とコミュニケーションを取ったり
社会に寄与したりすることはとても難しくなってきています。しかし、こんなふうに言うと言葉は
悪いですが、ある種の旧弊から解放され、冥福を祈ることも、冥福を祈ることを定義することも、
冥福を祈ることを批判することも、結局、冥福を祈ることを有意義な営みとして成り立たせていた
文化的思想的磁場から脱出した結果、言論レベルで均質化したわけで、今のような状況で言わば
冥福について好き勝手に言えることは、冥福に限らず古くからの習慣や儀礼について多弁であろう
とする人にとってはむしろ喜ばしいことではないかと思うわけです。だから、本当の意味での
冥福は……と説教がましいことを言う人は、その説教を向ける相手がその人なりにしている
冥福の祈り方は、自分とまったく同じ契機と状況においてその人自身が自由に選び取った祈り方
なのだということに留意したらいいと思います。


死者の立場に立つこと―――死者の本意に沿うことが冥福を祈ることだとして、たとえば故人が
生前交通事故に遭ってですよ、加害者に対してまるで故意にやられたかのような思いを抱きつつ
恨みながら亡くなったとするでしょう? で、加害者の方はというとものすごく反省しているわけ。
この場合でも本当に被害者の冥福を祈りたいなら、被害者の本意に沿わなくちゃいけませんよね。
だから、加害者の反省なんか無視して、加害者に対して殺人犯というレッテルを貼るための具体的
な努力が必要になってくるでしょう。―――というわけで、冥福を祈るためだけにそんな無茶苦茶
なことを実際に行おうとするやつなんているわきゃないのだw


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