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戦争と性−進駐軍慰安婦より
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>>904 大神さん
> >これだけでなく、現地軍の御用商人(便利屋とも呼称)の手を介して慰安婦
> >を徴集していきました。
> それを示しましょう。
やがて「ここだけのことぞ」と前置きしてはじめたその男の話によると、彼の名前は石橋徳太郎、福岡の飯塚の生まれで福岡商業学校を卒業するとすぐ上海に渡り、イギリス人が経営する貿易会社へ勤めた。中国で貿易商になるのが夢だったという。ところが就職して四年目に、今度の戦争となった。上海で戦闘のはじまったのは八月十三日夕刻だが、その六日前から上海・杭州間を走る滬杭甬鉄道の終点杭州へ竹製品の買いつけで出張を命じられていた。
情報をきいて直ちに上海へもどろうとしたが、十四日朝、杭州駅で中国憲兵に逮捕され、そのまま蒋介石総統直轄の中国国民政府軍第百七師団司令部に抑留されてしまった。以後、十一月二十五日までそこで塩汁にまんとうの食事で過ごすのだが、その二十五日、縄で縛られどこかへ連れていかれようとする寸前を突入してきた日本軍部隊に救出された。
この部隊が歩兵第百二十四聯隊で「お前も博多っ児か」ということになり「上海に戻ってイギリス人に使われるより聯隊の御用商人になれ」とすすめられた。「部隊はいま、必要な食糧品から牛馬、軍需品運搬用の人夫まで火急に集めなければならない。それには四年も支那にいて支那語が喋れ事情にもくわしいお前がうってつけだ」半ば強制だった。
資格は聯隊採用の軍属ということにされ階級章こそないが軍服をあたえられた。十二月になると新たに設立され、上海・南京戦線にいる全部隊への補給を担当する第十一兵站司令部付と兼務するよう命じられた。いらい十二月二十一日まで上海・杭州付近を走りまわり主として米、麦、野菜、豚肉の徴発をやらされてきた。
「銃剣つきつけ泣いてすがる百姓を蹴とばし、ただで召し上げてきた牛や豚を”これこれで買い上げてきました”と兵站司令部から代金をせしめる経理部将校がいたり、羊羹のあまっている部隊から安くそれを集め、甘い物に飢えている部隊に売りつける兵站下士官がいたり、一枚皮はげば軍隊なんてそんなものだということが本当にわかった」
と言うのだが、十二月二十三日とつぜん上海の第十一兵站司令部へ集められた。顔をだすと、上海の南京戦線の各聯隊各師団で彼と同じ仕事をさせられている軍属がそこに、十二、三人首をそろえていた。半分はやくざ者まがいの顔をした連中だった。
「ここで命じられたのが、”今夜上海発長崎行きの輸送船に便乗し日本内地におもむき兵員慰安用の女を集め、十二月三十一日まで、おそくも来年正月三日まで本司令部へもどれ”というものだった。つづいて担当の主計大尉とかいう若い将校が募集条件を説明しはじめた」
年齢おおむね三十五歳以下で、現在性病にかかっていない女であること、契約は前渡金として各人千円ずつを渡し軍の直営する”娯楽所”で接客勤務し、その代金でちくじ返済、全額を返済したら以後の行動は自由とすること、接客勤務の代金は未定なるもおおむね一人一回一円五十銭ないし二円前後を予定する。ただし軍がこの種の”作業”にかかわっていること、すなわち女に渡す前渡金が軍からでていることは極秘とする。他言した場合においては軍はそれ相応の処置をするから覚悟しておけ、なお、集める人員は各自十五名ずつとする、というものだったが、説明する本人もまだよく事情がのみこめないようだった。
「とにかく急いで内地にもどって女を集めてこいということさ」
と言うのだった。その命をうけたとき石橋徳太郎は目をシロクロさせたという。これまでまったく経験したことのない仕事だったからである。だが軍命令とあっては断ることもできない。兵站司令部で渡されたピカピカの日本銀行券一万五千円を鞄につめこみ内地へもどってきた。
千田夏光『従軍慰安婦・慶子』(恒友出版株式会社)
小説仕立てとなっています。恒友出版版から引用しましたが、初版は1981年ですから、当然「軍慰安所従業婦等募集に関する件」の文書が発見される前のことです。
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