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人生における分岐点

69藤原肇:2010/07/20(火) 10:43:06
日本では医師の専門化が早すぎるために、基礎的な訓練が手抜きで医者になり、国家試験は知識が中心であって、医者としての臨床実地テストがないし、成績も評価された形では公表されない。しかも、臨床医学や倫理はほとんど問われず、一度合格すれば免許は一生有効で、その後の勉強は要求されないために、医者の免状が利権化しているから、最新情報を学ぶ必要さえもないし、いざとなれば開業医になれば良く、実力は問われないで生活できる。
藤井先生が嘆息していた問題点は、現在の保険制度は点数制だから、一人の患者に一時間を掛けて診ると、一時間に二十人の患者を処理する医者に、収入で二十分の一になってしまい、良心的な治療は全く成り立たない。しかも、患者が医師を神様扱いしており、先生にお任せしますという態度で、自分の命について他力本願であるために、病気への勉強が停止してしまうのだ。
医者は総てについて万能ではないし、質問を始め意見や発言があれば、それを下に医者と患者の対話が始まって、そこから本当の診察に移るのに、そのプロセスが日本では欠けており、医者が気楽な商売になっている。それは医者が患者と対話することにより、自分の病気や治療の可能性に関し、患者の問題意識を高めるプロセスにおいて、先生としての医者が患者を甘やかし、病気について勉強するのを怠るために、患者としての訓練が不足してしまう。
対話のある診療法が成立するには、医師が個室の診察室を幾つも持ち、その部屋にいる間は患者が主人で、医者は患者を訪れる立場という、往診という原点に立ち戻る必要があって、米国ではどんな医者でもこの方式だ。だが、日本では医師が診察室の中央に腰を据え、そこに患者が訪れるのが普通で、患者は診てもらう立場に置かれてしまうし、医者は時間を支配する側にいるから、患者は数としてこなされることになり、対話の始まりにと結びつかない。
ギリシア語のクリニコンの意味は、患者の隣に座り対話することで、聴診や検診をする行為を指している。だが、現実の診断の多くが望診と問診だけで、三分診断の商売が蔓延しているから、医者が緊張を欠き商売をしてしまい、優しいがもたれ合いの関係になり、患者は自分の病気に対して無知に近い。


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