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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

192尾崎清之輔:2008/03/31(月) 01:28:07
先程「 デリバティブバブル崩壊後の新世界秩序」スレッドでも申し上げましたように、堤未果さん著による『貧困大国アメリカ』(岩波新書)をもとに、拙ブログで『日本という「場」』として展開させて頂きました。
相変わらず雑文拙文レベルの内容ではございますが、様々なテーマに渡って日々記事を掲載しておりますので、お時間ございましたら、ご一読頂けますと誠に幸いです。

◆教養(リベラルルアーツ)と場創り(共創)に向けて
http://blog.livedoor.jp/ratio8008/

193首藤尚丈:2008/04/17(木) 23:21:18
いろいろとご心配をかけて申し訳なく思っています。私の名前が目に留まりましたので一言申し上げます。会社のことはさておき現在私は数学を用いて宇宙の構造に挑戦中ですーその結果我々の宇宙のそとに別の宇宙が取り巻いていることを発見しました。此の発見が重力の統一につながるもののようです。重力が次元に関係していてシュトーレンの数列を一般項にまとめあげればいいようです。ドキッとするような話ではありませんがディラックの物理の先の世界を開けます

194尾崎清之輔:2010/01/05(火) 00:24:52
小生が嘗てご紹介させて頂き、後に自身のブログを立ち上げる切っ掛けの一つとなったtoxandoriaさんのブログから、記事とコメントが引用された阿修羅の素晴らしいレポートを見つけたことは先に他のスレッドで述べた通りですが、このレポートの引用元であるtoxandoriaさんの記事と、ブログ主を凌駕していると感じられたコメント主の如意輪観音さんの鋭い指摘には正しく目から鱗が落ちる思いでした。

以前も申し上げましたように、toxandoriaさんは芸術の世界に造詣が深く、欧州の歴史や哲学にも精通しているブロガーであり、その文面から醸し出される心の余裕と高貴なる精神性は、“似非”ないし“やまいだれ”の知性を撒き散らす“文化人”とは異なり、冴えた論評を行なうことのできる方として敬服しておりますが、そうであるからこそ如意輪観音さんのような叡智に満ちたコメントが為されるのでしょう。

政治批判の能力を失ったメディアへの告別の発言
http://asyura2.com/09/senkyo73/msg/767.html

特に、toxandoriaさんが指摘された、アメリカ発グローバリズムの枝葉の一つである「小泉=竹中劇場」あたりから始まる“暴政”の本性であるグローバル市場原理主義を、“限界効用カルト”、即ち、“限界効用関数の微分係数へのカルト的信仰”、と喝破したあたりは流石であり、これぞまさしく前世紀までを司り、今世紀に入って益々その行状が荒々しくなってきた賤民資本主義の成れの果てではないかと思う次第です。

さて、私事で誠に恐縮ですが、思えば昨年の小生は湯武放伐にほんの僅かながら関わったものの(…爪先以下ですが…)、決して寄与したと言えるレベルにはなく、とある事情もあってBusinessの世界に軸足を置かざるを得ない状況にありましたが、気が付けばいつの間にか文字通りの「Business Person⇒忙しい人⇒心亡びた人」になっていたことを、身をもって体験したと申し上げておきましょう。

昨年後半から、“教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて”少しずつリハビリ(笑)を行ない、暮れ頃になって、Businessの世界にのみ軸足を置いている階層から、教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けたScholē(スコレー)な階層へ、未だ片足の先だけですが置くことができるようになってきたことで、漸く“まともな世界”へ戻れる兆しが見えてきたと思います。

時折また愚見を述べさせて頂くことになるかと思いますが、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

195尾崎清之輔:2010/03/24(水) 00:59:13
暫く前、ある方のブログのコメント欄で愚見を述べさせて頂き、また別の方々へは口頭でお話した内容に対して幾つかフィードバックを頂き、中には非常に興味深いコメントもあったことから、折角なのでこちらの掲示板でも僅かな手直しを施した上で再掲させて頂きたいと思います。

なお、このテーマは当初『Once upon an Olympian time』のスレッドでその触りを述べさせて頂いたことから、そちらで続きを行なおうかと思いましたものの、こちらは別の観点から話題提起させて頂いたことから、嘗て小生が立ち上げたスレッドを久々に活性させる意図(笑)も込めて、『教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて』の方で行なわせて頂くことを予めご了承下さい。

それでは早速本題に移らせて頂きますが、小生のブログのリンク先の一つである“マヨの本音”にて過日愚見を述べさせて頂きましたように、前回2006年冬季五輪の開催地トリノでの開会式では、イタリアはトスカーナ出身の作曲家プッチーニのオペラ『トゥーランドット』から「誰も寝てはならぬ」を、今は亡きパヴァロッティが高らかに歌い上げ(実際は口パクでしたが…)、フィギュアでは同曲を使った選手が金メダルを獲得するに至りましたが、ご存知の通りオペラ『トゥーランドット』の舞台は北京であることから2年後の北京五輪を推測させることは容易であり、そのAnalogyからすると、今回2010年バンクーバー冬季五輪のフィギュアの曲目を知った時点で2年後のロンドン五輪を推測させる選手の勝ちが見えてしまいましたが(笑)、加えてバンクーバーは(英国が国家元首でその代理である総督を置いている)カナダの一都市であることを考えると、余計そう思わざるを得なかったと申し上げておきましょう。

従って、小生が銀に泣いた選手の曲目を選べる立場、つまりブレーンなりコーチ陣の一人であったとしたら、迷うことなくプロコフィエフのバレエ音楽「ロミオとジュリエット」をフリーの曲目に薦めたことでしょう。

バレエ音楽としての「ロミオとジュリエット」はプロコフィエフの作品ですが、元はシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」であること、英国にとってシェイクスピアとジェームスボンドとでは比較にならないレベルであることは、欧州のBlue Bloodや教養人でなくとも当たり前の話ということになるからです。

また、プロコフィエフはロシアの誇る作曲家の一人であり、彼の出生地が4年後の冬季五輪の開催地ソチから北北西に350〜400キロほどの位置にあることを考えると更にイマジネーションが掻き立てられるでしょうし、金メダリストとなった選手のフリー曲である、ガーシュインの「ピアノ協奏曲へ長調」をプロコフィエフが批判的に捉えていた(但しこの件については異なる2つの説があるためどちらが真実かは調査検討要)ことも考えると、もし銀メダリストが「ロミオとジュリエット」をフリー曲に使ったならば、別の意味での真のライバル対決が可能になったのではないかと思った次第です。

196尾崎清之輔:2010/03/24(水) 01:11:28
(前項に続きます)

この辺りを敷衍させて頂きますと、曲の選び方、より正確には、『曲の持つ歴史や世界観また哲学などといった背景を含めた選び方に対して、それらを熟知している方々によって勝敗が左右』されることに本筋があるのではないかと小生は考えておりますが、無論オリンピックという場における競技の一種であることから、そもそもお話にならない技術やレベルでは誰もまともに評価することは出来ないものの、いみじくも藤原肇さんが『オリンピアン幻想』(東明社)その他の自著において、オリンピックとは貴族達の4年ごとのサロンと看破されていたように、また、小生が親交を暖めている、嘗てまたは現在欧州に長く居住してそれなりの階層とお付き合いのある何人かの方々も同様のことを仰っておられましたように、中世の教会を中心とした宗教音楽の時代から、ルネサンス期を経て、バロック、古典派、ロマン派、新古典派、そして近代音楽といった西洋(クラシック)音楽の長い歴史の流れの中で、これら音楽の主な庇護者とは一体どういう階層の方々であったかを考えれば、自ずと答えは導き出されるものと思います。

また、勿論その間の音楽家の立場や地位の変遷についても見逃せないと考えます。

それらを踏まえた上でオリンピックの意味論を考えるならば、藤原肇さんの『Mountain of Dreams』やそれに先立つ『オリンピアン幻想』を読まれた方々でしたら、選手達の位置付けが一体どこにあるかは賢明な諸兄であればピンと閃くことでしょうし、競技や演技に伴う曲目の選択が意味することとは、先に述べた階層の方々に対するメッセージ(及びそういうメッセージを発せられる日本人が存在するという意味)として捉えれば、欧州(特に英国とその実質的な影響下にある地域)のBlue Bloodや教養人(と自負する者達をも含めて…)らが、まさかシェイクスピアのことを(ジェームスボンドより下と)冒涜するわけにはいかないでしょうから(笑)、もっと面白い展開になったでしょうし、仮にパリア・キャピタリズムの力学による働きが重きを置かれることになったとしても、例えば僅か0.1ポイント差の銀ということであれば、「ボン・サンス」が働いたかなと推察できたことでしょう(笑)。

また、小生が銀メダリストに対してプロコフィエフの「ロミオとジュリエット」をフリーの曲目に薦めたであろうことは先に述べた通りですが、そこには二重の意味が込められており、ラフマニノフの「鐘」を演じるには年齢的にも経験的にも未だ少々早いのではと思われた銀メダリストが、「ロミオとジュリエット」で演じる、親同士の争いや確執などの犠牲になった少女の、美しくも哀しい“ひたむきな恋”を演じることは、彼女の年齢や見た目などからより相応しかったのではないかと考えていたことから、この戯曲の悲劇性というAnalogyから、先述と同様、パリア・キャピタリズムの力学に対する僅か「0.1」ポイント差の“銀”という意味でのアンチテーゼになったのではないかと思った次第です。

なお、最後に蛇足となりますが『抗菌は銀なり』という一文でこの場を締め括らせて頂きます。
(“菌”を同音異字の“金”と読み替えて下さい)

197尾崎清之輔:2010/03/24(水) 01:36:42
前項196.で述べた文章の一部にごく僅かですが追記させて頂きます。

>この戯曲の悲劇性というAnalogyから、先述と同様、パリア・キャピタリズムの力学に対する僅か「0.1」ポイント差の“銀”という意味でのアンチテーゼになったのではないかと思った次第です。

上記の“この戯曲の悲劇性というAnalogyから、”の前に、“それでも銀に泣いた結果になったとしても、”という一文を加えさせて頂くことで、

◆それでも銀に泣いた結果になったとしても、この戯曲の悲劇性というAnalogyから、先述と同様、パリア・キャピタリズムの力学に対する僅か「0.1」ポイント差の“銀”という意味でのアンチテーゼになったのではないかと思った次第です。

とさせて頂きます。


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