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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて
1
:
尾崎清之輔
:2007/11/04(日) 22:20:25
まず、はじめに、このスレッドのタイトルを付けるにあたって、数日ほど悩んでしまった。
当初は、秋という季節にちなんで『芸術と読書と食について』というような名称にして、そこから徐々にリベラルアーツへ展開していくことを目論もうと考えたが、『食』については長い間このテーマを文明論的な視座で捉えられている素晴らしい塾生の方がいらっしゃるし、読書については既に『戦後日本の十大名著とは』と『最近読んで印象的だった本』の2つのスレッドが存在しているため、残りは『芸術』ということになるが、これも既にフィボナッチ数列やラチオについて語られているスレッドが存在していること、芸術のサブセットである音楽ひとつとっても、たかが1000枚程度のクラシックCDやDVDの所有と、実際の鑑賞に出向いた数が100回にも満たないくらいではこのようなテーマを専門にして語ることは誠に恐れ多い。
更に「秋という季節にちなんで」という考え方では、一過性もしくはそのシーズンにならないと盛り上がらなくなってしまいかねない危険性がある。
よって、このようなタイトルを付けさせて頂くに至ったが、良く考えてみたら(…というより実は考えるまでもなく)最も大層なタイトルを付けてしまったため、提唱者である私にとっては文字通り『無謀な挑戦』となること必定であろうが、このテーマを出来るだけ長期に亘り続けていくことで、藤原さんの近著(KZPやJZP)で触れられていたリベラルアーツに少しでも近付くことができるよう、私自身、修養を重ねていきたいと思うが、実際のところ本場のリベラルアーツである「自由七科」を学んだわけではないので、教養(リベラルアーツ)とカッコ付きにさせて頂いたことをご了承願いたい。
もう1つのテーマである場創り(共創)については、これまでも何度か取り上げられてきた内容ではあるが、本来あるべき姿としての「場」は広がりを持つ系であり、私が「場」と言われて出向いたその多くについては、残念ながら閉じた系である「空気」でしかなかったことだ。
従って、これも前者の教養や修養と密接に関わりを持つことで、開いた系としての「場創り」に向けられるのではないかと考えたことから、この2つのテーマを一緒にさせて頂くことにした。
さて、前置きが長くなり過ぎて辟易としたでしょうから、そろそろ本論(まずは序文)に向かいたいと思う。
「共創」と言えば同音異義語に「競争」があるが、これは、いみじくも正慶孝さんが自著で看破されていた、現代のIT社会を司る「Communication」「Control」「Computation」といった3つの「C」に対して、私からもう1つ「Covetous(貪欲な)」を加えさせて頂くと、たちまちにして「賤民資本主義(パリア・キャピタリズム)」という人造ダイヤの4℃を構成することになってしまい、これが現代における「競争」の本質を示しているのではないかと考える。
日本におけるマックスウェーバー研究の泰斗である中村勝巳慶大名誉教授が20年前から仰せのように、まともな躾を受けぬまま「カバレリア・ルスティカーナ」の限りを尽くし続けてきたことが、最近のクライシスの根底にあると私も考えているが、これは亡国云々以前に、人間のあり方そのものの問題として捉えられるべきではないかという意味で、中村博士の意見に共鳴を覚える。
尚、蛇足だが、今夏来日したパレルモ・マッシモ劇場の「カバレリア・ルスティカーナ」を観て、これまで何度も同じ作品を観たにも関わらず、中村博士の仰った意味が漸く正しく理解できた気がする。
場創り(共創)に向けては、同じ「Communication」という言葉であっても、「通信(としての手段)」ではなく「人間同士の意思の疎通」が肝要であり、これに「Confidence(信頼、信用)」「Conscience(良心、分別)」「Coexistence(共存)」または「Covivence(共生。但しsymbioticという意味とは関係ない)」を加えて磨き続けることによって、自然が創り出した原石である天然ダイヤに4℃の輝きが増していくのではないかと思っている次第だ。
※上記の「ダイヤ」はメタファーとして使わせて頂いた。
2
:
尾崎清之輔
:2007/11/06(火) 00:19:20
1ヶ月半近く前のことになりますが、スタジオ・ジブリの絵職人として知られる男鹿和雄さんの展示会を鑑賞された方より、その作品群のアニメとは思えない美しさや繊細さについて高い評価をされていたことから、その後、所用で近くへ出向いた際に、折角の機会なので、近代美術館へ立ち寄ってみることにしました。
アニメ(ジブリ作品をアニメという括りにして良いかどうかは別として)には全く縁の無い私ではあるものの、数年前に行われた脱藩会の後、藤原さんを含む数名で二次会と称して他の店に移った際に、様々な話題に花が咲きましたが、その席上で、藤原さんとは非常に長いお付き合いのある方より、宮崎駿さんの作品群の話題が出ていたことを思い出したことも、このたび出向いた理由の一つでした。
また、男鹿さんご自身は分かりませんが、宮崎駿さんに関しては八切止夫史観に相当影響を受けていると伺ったことがあるので、それが男鹿さんを通じて実際の絵画にどのような影響を与えているかについても少々興味があったからです。
(ちなみに宮崎駿さんの作品群と八切止夫史観の関係性については、いずれ古史古伝大系を論ずる際に項を改めて行いたいと思います)
しかし、残念なことに連休中に出向いてしまったことから、チケット購入と入場までに90分待ちとなっていたため諦めることにしましたが、隣で「磯辺行久展」なるものが開催されており、空いていたのでこちらを鑑賞することにしました。
この美術家&環境計画家の磯辺行久さんは、御年72歳ながら、非常にユニーク且つ強烈なメッセージを、その作品群を通じて提示されてきている方であり、1950年代の抽象画から始まり、60年代にはワッペン型のモチーフを反復させたような作品群を数多く発表しており、そのワッペンの中には多くのシンボル(国旗、欧州の貴族の紋章、日本の家紋、企業体や各種組織体のマーク、王冠、ラベルなど)が、さながらミランダのオンパレードの如く大小取り入れられた作品もあったので、これはこれで大変興味を引きました。
その後60年代半ば頃の渡米により、二十世紀のダビンチと呼ばれた、科学者、哲学者、美術家の顔を持つ天才バックミンスター・フラーとの出会いにより大きな影響を受けた彼は、造形的な実験を通じて、より大きな枠組み、つまり自然環境を視座に置いた作品活動に従事することになったようです。
「ランドスケープ」と呼ばれることになるこれらの作品群は、70年の第1回アースディにおいてはエア・ドームという名称の作品を発表しておりますが、このドームの中では、船の帆の形をした非常に低消費エネルギーのスピーカーがあり、このスピーカーから流れる自然の音色がエア・ドームの中全体に渡って何とも言えない優しさを奏でておりました。
その後も数々のランドスケープ作品を制作してきた彼ですが、何と言っても圧巻であると感じたのは、2000年頃に発表された「イル・ド・フランス」作品であり、これはパリとその周辺地域を記した大きな地図(十畳か十二畳くらいの大きさ)の上に、生態系に影響を与える各種施設や汚染など(原発やBiohazard Facilitiesのある場所、強い電磁波の流れる場所、SO2やNO2が空気に乗った流れなど)の情報を重ねた形で表していたことから、その場に座り込んで暫く凝視してしまったと申し上げておきましょう。
今世紀に入ってからの磯辺さんの活動主体は、自然環境のあり方そのものに対するメッセージを強める方に向かわれているようで、自然体系に対してテクノロジーで挑戦し続けようとする人知の愚かさを、信濃川において元々あった川の流れを治水という名目で強引に変えたことに対する痛烈な批判を「川はどこへ行った」などの作品を通じて行っているようです。
それにしても出会いというものは不思議なもので、このジブリを見に行くことが無かったならば、磯辺行久という一人の個性的な芸術家のメッセージを知ることなく終わっていたでしょうから、全くの偶然とはいえ、私にあの「場」へ出向く切っ掛けを示して頂いた方に対して、ここで改めて感謝の意を表したいと思います。
3
:
尾崎清之輔
:2007/11/08(木) 01:20:19
『経済的合理性を超えて』(みすず書房)において、『日本人の考えている「経済的合理主義」に対して対抗原理として働く要因として、芸術ないし美という領域ないし観点があります』と喝破された中村勝巳博士は、その一例として、企業の社名や製品名を知らせるために多額の広告費を使い、ビルの屋上に巨大な広告塔を設置し、夜になるとネオンだらけになってしまう都市の夜景や、電車の中刷りや新聞の中にある広告だらけの状況に対し、果たして世界中を見渡してこのような行為が可能な社会は一体どこの地域に限られているかを考えてみる必要があるのではないかと述べており、そのような経済至上主義的な要求を抑える対抗軸として、芸術や美的な要求、また市民自治の伝統への誇りといったことが、欧州社会の根底に存在していることの重要性を語っております。
これは『人は何で生きるか、人は何のために生きるか、人はいかに生くべきか、社会や国家はいかにあるべきか、という究極の価値基準から一貫した組織的生活態度をとって生きようとする要求』であり、『人として倫理的命令に絶対に服しようという生活態度こそ、「経済的合理性」に真正面から対立』できるものであるとしております。
この緊張関係とバランスのとり方が肝要であり、「して良いこと、してはいけないこと」の判断基準になるはずですが、(特に昭和初期から現在に至るまで)日本はこのような形による社会の発展がされてこなかった(というより最初から対抗原理自体が欠けたまま経済的合理性の支配と貫徹が為されてきてしまった)ため、手段の目的化のみならず、行き着くところまで行ってしまい、結果、社会の分裂と内部崩壊により、その歴史的役割を終えて滅んでしまいかねない危険性を説いております。
但し、『健全な人間精神をもった人々がここで深い学問、高貴な芸術、すぐれた哲学と高い宗教を生み出し、広く国境と時代をこえて人類に貢献する途と可能性』は残されているとも指摘しており、そのためには永い眼(少なくとも100年きざみ)で見て、世紀単位で考えていけるような大戦略が必要ということになりますが、これは欧州社会が辿ってきた長い歴史にその範を求めることで何らかの道筋が見えてくるのではないかと考えます。
さて、そうは言っても、いきなり100年単位で考えていくことは、余程の訓練と冴えた目を持つ者でなければ、なかなか到達できる次元ではないでしょうから、一介の凡夫としては、そのようなことを頭の片隅に置きつつも、日々の生活に決して埋没されることのない自分、つまり藤井尚治博士が仰った『自由とは「Free from」ではなく「Free to」である』という言葉の重みを十分に感じつつ、平たく言えば『自由気ままに生きて』いけるだけの心の余裕は常に持っていたいものです。
正しく「忙しい」という言葉が「心が無くなる=心の余裕が無くなる」ことを防ぐ意味でも。。
このような心の余裕の持ち方こそが、自分の仕事とは全く関係の無いもう一つの(または二つ以上の)世界観を持つことに繋がり、延いては、専門バカという病弊に侵されないための知恵ではないでしょうか。
そして、このもう一つの(または二つ以上の)世界観を持つことが、より大きな枠組みの中で認められ、更に人類の共通言語や共通財産に繋がるような普遍的な妥当性にまで至ることによって、その人間の懐の深さや嘘・偽りのない衷心を示すことが可能となり、尚且つ人類の普遍的課題を自らの課題と同じくすることの出来る、本当の意味でグローバルに通用する人間へと育つことは間違いないのではとも考えます。
そのための第一歩として、余分な周りの状況から離れて音楽に親しんだり、無心・虚心になって絵を描いてみたり、自然の美を楽しんでみたりすることから始めてみるのも良い切っ掛けになると思います。
4
:
牧野
:2007/11/08(木) 13:10:13
久しぶりの読み応えのある記事に拍手喝采です。忙しいというのは心が亡びることを文字が示していますが、貧すればドンするというように余裕がなくなるとドンするわけです。今の日本人がそんな感じでして、国も個人も本当のゆとりがなくなったために、まともなことが考えられなくなったのでしょう。
中村先生もピューリタンについて書いていて、高利貸し、投機、売春などのようなハイエナのビジネスが、いかに人間の貧しさを現しているかを論じています。日本ほど大きな町の駅前にサラ金という高利貸しの看板が並んでいて、それを放置しているというのは情けない限りですね。
5
:
尾崎清之輔
:2007/11/09(金) 01:02:52
牧野様。過分なるお褒めの言葉を頂きまして、誠に有難うございます。
また、「忙しい」を「心が無くなること」から「心が亡びること」へ修正して頂いたことにつきましても、感謝申し上げます。
尚、牧野様が仰せの「読み応えのある記事」として成立できましたのは、決して私の筆力によるものではなく、中村博士の著書がそれだけ優れていたことの証左でしょうし、私は多くを引用させて頂いたに過ぎません。
このような名著が絶版になって久しく、再販の目途さえ立っていないことは賤民化の現れと考えますが、巷間では相変わらず「表紙付き紙屑」の大量生産が続けられておりますので、正に貧すれば鈍するが如きといったところでしょうか。
さて、中村博士の著書から引用を続けさせて頂きたいと思いますが、西洋文化を解くマスターキーとして、
◆「ヨーロッパとは何かときかれた時、ぼくはキリスト教と数学と音楽と答える。音楽はヨーロッパ理解の手掛かりなんです。」(矢野暢「朝日新聞」1987年5月14日、夕刊)と指摘されていますが、ヨーロッパ文化はマックス・ヴェーバー的な意味で「合理主義文化(ラチオナリスムス)」だと言い換えることもできるでしょう。一つの文化を解くには、マスター・キーというものがあるのです。「音楽家」でない人がバッハとモーツァルトとベートーヴェンを愛するというだけでたちまち人間として信頼をうることができるのは、鍵があうからです。
からはじまり、続いてその意味するところを詳細に渡って述べておりますが、このような考え方をヨーロッパ中心志向と批判する方々に対しては、
◆不満があるのならば、日本の在来文化の中から人類の共通財産になりうるものを、共通の述語を通して掘り起し、持ち出せばよいのです。そういう普遍的座標軸の批判に堪えるものを産み出すことができるならば、ヨーロッパ以外にも普遍妥当性をもつ文化があるということですから、喜ばしいことであるわけです。
と正鵠を射た指摘をしております。
また、音楽がヨーロッパ社会に与えてきた影響を、そこに生きる人々おいては全存在がかかっている場合もあり、音程の高い低いという次元の問題ではないとも喝破しております。
これはヨーロッパの音楽が、そこに生きる人々の精神生活に対する不可欠な要素を為していて、若い人のみならず、中高年や老年の方々に至るまで、見識を備えるための「場」として存在していることが、何よりの証拠であるからと考えます。
そういう意味で日本を捉え直しますと、昨年夏頃まで長期間に渡り位人臣を極めた男は、トップとしての責任感は全くなく、国内外の様々な危機的状況への対処より、オペラ観劇を優先されていたと見え、その様子は幇間的なマスメディアを通じて、日本版ポピュリズムとしてのプロパガンダによく利用されていたようです。
嘗てはカール・ベームやカルロス・クライバー、最近ではリッカルド・ムーティーやワレリー・ゲルギエフ等(記憶違いの可能性もありそのような発言をしていない方もいたかもしれませんが)といった方々から、日本人の鑑賞や観劇に伴う行儀の良さを高く評価されておりましたが、私の知る限り、ただ一度だけ「ブーイングの嵐」に見舞われたのが、この現代版パヴァリアの狂王(こんなことでルートヴィヒ二世と比較したらあの世からルートヴィヒ二世にお叱りを受けそうであるが「狂王」という言葉については適切と考えるのであえてそうさせて頂きます)でした。
このボローニャ歌劇場の来日公演(昨年6月)に現れた際の演目は、その男の好むワーグナーではなく、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」というフランス革命前後の実在の人物(実名はアンドレ・シェニエ)をベースに少しフィクション化したオペラでしたが、ミーハーなこの男がどうして「アンドレア・シェニエ」のような演目を観劇しにきたのか、その時は不思議に思いつつもプロパガンダの一環くらいにしか思っていなかったのですが、この件を古くからの最も信頼できる方へ話したところ、『多くの国民を断頭台へ導くことに成功したことに対して優越感や恍惚感を抱いていたのでは』という大変貴重なコメントを頂いております。
最後に余談ではございますが、この「アンドレア・シェニエ」の内容を存じ上げていない方は以下のサイト等でご確認願えれば幸いです。
◆アンドレア・シェニエ(ウィキペディア(Wikipedia)より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%A8
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