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雑談・議論・質問スレ12

537N (叢の中):2015/10/20(火) 23:37:51
>>534 続き

3. さて、子らとは関係なしに、主張を通すという態度が当然ありえる。
この場合、a)天然 b)信念と態度の一元論 のふたつを両極として想定してみる。
深化はbのひとつとして下部分類できる。
一元論は幅がないためウルトラになりやすいことに最近気づいた。
二元論も二項対立としてなら闘争因として十分だが、
幅として二元論なら少なくとも一元論より弾力性(緩衝性)がある。
個人的には吉本の流れを汲んでいるので
最低でも3項関係(共同幻想・対幻想・個人幻想)で考えるのがベストだと思っている。

3項関係からは、
共同幻想として臓器移植および臓器売買に関する倫理
対幻想(ここでは家族)の問題として、子らが共同体の中でどうなるかを考える位置
個人幻想 私の思想、私の態度

これらはそれぞれ異なった領域だと割り切って考えること
俺が吉本から学んだことのひとつだ。 

さて、子らに関係なく「個人幻想」にもとづいて自由にふるまうこと。
それは個人としてはありえる態度だし、(個人幻想の領域)
天然(つまりあまり深く考えず常にそういう行動をする自由人)であれば子らは
「あぁまた母ちゃんがやっちまったなぁ」と苦笑いですませられるかもしれない(対幻想の領域)。

母ちゃんが共同性とぎくしゃくしたり(これは具体的な場合には対幻想の領域となり、
 共同性から抑圧がかかれば「共同幻想と個人幻想の逆立」となる )
(ま「逆立」という概念はホントはもうちょっと意味深なんだが、ここでは通俗的に敷衍する)
子らがなんらかの影響をうけたりすることも、あらかじめ考えが及びながら
信念を優先するなら、思想が「深化」してないとそれは無理だろう、というのが
以前に縷々述べた「深化」の話になる。 
この場合、子らは母親を採るなら(支持するなら)共同性と親和に対する心的課題をもつことになる。

そういう課題を子らに与えても自己を貫くのか、という選択問題になる。
そこに忸怩(もやもや)が発生するのではないか、というのがここまで考えてきた俺の観点。

家族をもつと自由は制限される。
自由と孤独は正比例する。(ふなっしーがテレビで同じようなことを言ってて驚いたことがあるw)
孤独が自由と正比例するかどうかはケースバイケース。

そういえば「誰も知らない」という映画はyou演ずる自由な母親と子らの物語だった記憶がある。
あいかわらず当事者ならぬ孤人の俺は結論などだせない。


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