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雑談・議論・質問スレ12

534N (叢の中):2015/10/19(月) 10:14:32
一番だいじな部分が抜けてることにようやく思い至った。

子どもらを守るための妥協だった点。
つまり子らのことがなければもっと自由にふるまえた(る)だろうという点。
そこに忸怩の要があるのかもしれない点。

これを敷衍することはできる。
しかしこれを倫理の問題として敷衍するのもまた気が重い話だ。
俺が個人的に敷衍できる方向はあいもかわらず実感のない抽象論だから
強い思いもなく敷衍化することはできる。結論はでないが。

1.子らのために妥協するのはいいことだという視点

子らのために共同性と妥協するという抽象倫理は
沖縄戦でアメリカが上陸したあと、多くの人間と洞窟に隠れていたとき、赤ん坊が泣き出した母親が
皆が見つからないようにするため赤ん坊を胸で窒息させたという話が
「子らのために」という倫理と真反対の倫理となる。
しかし「子らのための共同性と妥協」と「共同性のために子を殺す」は
究極の選択だ。「子らのために」を貫けるか、という選択。

「見つかって捕虜になっても構わない」という判断材料は
当時のメディアがすり込みによって最初からなかったのだろうか。俺にはわからない。
だからただ想像してみるだけのことだ。

2.子らの問題は、感情や思想・信念より優先順位が高いという視点。

大震災のあと、どうやって地域の共同性は再確立していくのか
震災後の問題はいろいろあるが、一番関心をもったのはそこだった。
震災地に戻らない決断をした家族のドキュメンタリも時々流れた。
やはり、それは子どもの問題が大きいようだった。
この生活者リアリズムは愛郷心を無化した。 
そこにも「忸怩」つまり「もやもや」は発生していた。

俺に結論をだす力はない。 
感情や当事者感から距離を離した視点の可能性を暗示することができるだけだ。


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