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【分館】 参考資料スレ

1zebla:2009/09/25(金) 19:00:20
 ◆各スレッドでの話題に関連した参考資料などを貼るスレッドです◆

―参考資料に関する感想・雑談・議論をここで行うことも可です。ただし
 各スレッドで行われている議論とクロスする場合は
 議論の被りや混乱を避けるため、できるだけ該当スレでお願いします―
     
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※なお、現在(2009年9月)管理人氏は、
『・定期的に監察することが難しい・削除依頼に気づきにくい
 (管理人宛のメールは常にスパムメールに紛れている。
 メールアドレス変更してもおそらく日を待たず同じ状況となる)』
という状態にあるため、
問題箇所の削除の必要が生じた場合には、できれば、メールではなく、
スレッド上で削除依頼、もしくは削除の必要性、を表明するようお願いします。

2 『Primal Scream』wikiより:2009/09/25(金) 19:05:09
『The Primal Scream(原初からの叫び)』(1970年)は
『Primal Therapy: The Cure for Neurosis(原初療法:神経症の治癒)』
の副題がついた、原初療法の創始者アーサー・ヤノフ博士の著作。
『The Primal Scream』の版のいくつか(ABACUSから1977年に出版された版など)では、
表紙にエドヴァルド・ムンクの『叫び』が使われている。

■内容
序章では
:ヤノフが自らの患者の一人である22歳の大学生ダニー・ウィルソン(仮名)から聞いた
画期的(remarkable)と言える悲鳴について述べられている。
ヤノフの言葉によれば、その悲鳴はあたかも殺されようとする人が発する悲鳴のようであり、
その悲鳴には「既知の心理療法を根底から覆す」可能性があった。
ヤノフによれば、
彼自身も彼の患者もそうした子供じみた行為に意味を見いだせなかったものの、
ウィルソンに「ママ! パパ!」」と叫ぶように頼んだ。
しばらく躊躇しためらった後、ウィルソンはヤノフの指示に従った。
するとウィルソンは半狂乱になり、痙攣を起こし、
ついには声を限りに混じりっけなしの悲鳴を上げた。
悲鳴の直後、ウィルソンは「わかった(感じられた)」と断言した。
数ヶ月後、ヤノフはゲーリー・ヒラード(仮名)という30歳の患者に同じ手法を試み、
ヒラードもまた叫んだ。ヤノフもヒラードも共にこのことにショックを受けたが、
その後、ヒラードは直感的洞察を得て、己自身を理解したようだと博士は書いている。
ヤノフは彼の患者達において観察された変化を解明し、そこから原初療法を開発した。

3第1章:2009/09/25(金) 19:08:37

第1章『問題』は
:理論とは 「観察された一連の現実に対して我々が与える意味である」
と定義することから始まる。ヤノフは「我々に欠けているのは、
それぞれの治療の各時間ごとに患者とどのように話していくかという
確固たるガイドラインを与えてくれる、ある種の一元的な構造だ」
と書き、精神療法の理論や方法論は増える一方だと文句を言う。
ヤノフは全ての神経症には同じ原因があり、同じ治療に反応すると主張する。
そしてフロイドの信念
―人は神経症的に生まれ、最も強い防御システムを持つ人が
  社会において最も良く機能できる人である― を批判する。
ヤノフはこの見解と「我々がかつて考えていたのとは全く違う状態
―すなわち、人がまったき己自身であり、深い感覚と内的統一感を経験できるような、
 緊張もなく、防御もない人生が存在する― という自らの見解を比較する。

4第2章:2009/09/25(金) 19:10:39

第2章『神経症』では、
;神経症は満たされなかった欲求(ニーズ)によって引き起こされる、と主張される。
ヤノフによれば
「幼児は自力では空腹感を克服できないが故に,,
あるいは、愛情の代替物を見出そうとするが故に、自らの感覚を,,意識から切り離さざるを得ない。
こうして自らの欲求や感覚から自分自身を切り離すことは、
過剰な苦痛を遮断するための本能的な手段である。 我々はそれを『分裂』と呼ぶ」。
これらの抑圧された欲求は存在し続け、象徴的に表出されざるを得ない。
しかし、こうした象徴的な満足がその下に潜む欲求を満たすことは決してない。
感覚の抑圧は段階的に神経症を発現することへと繋がり、
やがて現実の自分と実在しない自分との分裂にまで至る。
ヤノフは、最終的に神経症を誘発するこの出来事を
『主要な原初の場面(The major Primal Scene)』と名付け、
おおむね5歳から7歳の間に起きるとしている。
主要な原初の場面の前には、数多くの小さな原初の場面がある。

5後の数章:2009/09/25(金) 19:13:17

苦痛と記憶に関するこの後の数章では、
: 苦痛からの逃避は、神経症の発現に重要な役割を果たすと断言される。
ヤノフによれば、現時点での苦痛がその原因と釣り合っていない時、
その原因は、抑圧された苦痛が年齢とは無関係に
そのまま残っているからであり、
それらは再び体験することによってのみ解放される―そこで
原初療法家(Primal Therapists)が必要とされる。
彼は、神経症になるのは、肉体的な痛みが人を意識不明にするようなものだとし、
神経症の発現は記憶に影響を与えると断言する。
記憶は苦痛と共に抑圧されるし、
苦痛を感じるとそれらの記憶を甦らせる。

6第5,6章:2009/09/25(金) 19:17:03

第5章『緊張の性質』では
:自然な緊張 (ヤノフの意見では必要なもの)と
不自然な緊張(こちらは不必要なもの)とを区別する。


第6章『防御システム』では、
:あらゆる防御は神経症的なものである、とする。
この中でヤノフは薬物中毒と同性愛は似ているとする。
「彼(=薬物中毒者)は他の神経症患者とは違って自らを防御することができない。
彼は針と直接に関係を深めていく。
苦痛…針…安堵。針がなくなれば、そこには苦痛が存在する。
同性愛にとってのペニスも同じ役目を果たす。
どちらも緊張からの安堵(解放)を表象するのだ」
ヤノフはまた、こうも主張する。
「針の使用、あるいは男性同性愛者の性行為における苦痛にもかかわらず、
その象徴的な感覚は快楽、あるいはより正確には安堵である」

7第17(7?)章,補遺:2009/09/25(金) 19:20:10

第17章『性愛、同性愛、両性愛』では、
主な論題の一つに同性愛を取りあげている。
ヤノフは同性愛を神経症と認定する。
同性愛行為が性愛であることを否定し、現実の性愛の拒否であると主張する。


『The Primal Scream』には二つの補遺がある。
一つは、その治療が原初療法の記録となったある患者を扱ったもの。
二つめは原初療法患者のための7つの指示
―すなわち、喫煙、飲酒を慎むこと、薬物使用を慎むこと、緊張を緩和する習慣をやめること、
治療前は24時間完全に一人になること、療法家が言ったことを正確に行うこと、
治療の初期段階では働いたり学校に行ったりしないこと、
原初療法後の患者の会に参加すること、である。
こうした指示を守らない場合、原初療法は奏功しない。

8zebla:2009/09/25(金) 19:28:10
以上。原文は ttp://en.wikipedia.org/wiki/The_Primal_Scream

9吉本?髢セ 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 21:32:46
・・・(略記号とする) *(引用者による註とする)

【詩とはなにか】   
わたしのように、かきかいことをかく、といった無自覚な詩作者のばあい、
詩の体験はいつも“さめた”あとの夢に似ている。
そのあとに意識的な光をあてておぼろげな筋骨のようなものをとりだすことはできる。
だが、詩的体験からひとつの“さめきった理論”をみちびきだすことは、
とうていおぼつかないのである。
・・・
一九五二年頃“廃人の歌”」という詩の中で
「ぼくが真実を口にすると、 ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によって、
 ぼくは廃人であるさうだ」 という一節をかいたことがある。
この妄想は、十六、七歳ころ幼い感傷の詩をかきはじめたときから、
実生活のうえでは、いつも明滅していた。
・・・
わたしがほんとのことを口にしたら、
かれの貌も社会の道徳もどんな政治イデオロギーもその瞬間に凍った表情にかわり
とたんに社会は対立や差別のない単色の壁に変身するにちがいない。*
詩は必要だ。詩にほんとうのことをかいたとて、
世界は凍りはしないし、あるときは気づきさえしないが、
しかしわたしはたしかにほんとのことを口にしたのだといえるから。
そのとき、わたしのこころが詩によって充たされることはうたがいない。

 (*この「対立や差別のない」は理想社会と意味するのではなく、
“私”を疎外するという意味でひとつのかたまりとして壁になる、という意味だと思う)

10吉本?髢セ 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 21:48:32
 年少のころ、日常いつもつきあたったのは、
慣習的な精神への苦痛だった。
たとえば、きみたちは素直で健全でなければならないなどと
教師が説教したとすると、おおうそだとおもってたいてい馬鹿にした。
・・・いまは別だが年少のころは、こういうのは精神を習慣に服従させた結果だ
とかんがえていた。
たとえ、本人がどうであろうと、素直さとか明るさというものは、この社会では、
誰か他人(おおくは肉親)の手によって小環境が守護されてきたことを意味している。
かれはのほほん顔の王様にすぎないが、かれを王様に育てた人物たちは、
この社会からの疎外の波をアトラスのように支えたはずだ。
こういうことが判りかけたのは、いくらか後になってからである。

 しかし、慣習的な精神への苦痛や侮蔑は、実生活では解消することはできなかった。
まず世間は、あらかた素直で健全な精神に荷担するし、明るく素直な少年は、闊歩した。
・・・戦後、時代はかわり社会は一変したかにみえたが、
ただひとつかわらないことは、素直で健全な精神は、社会を占有し、
そうでないものは傍派をつくるという点である。これはイデオロギーによって左右されない。

11吉本?髢セ 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 22:02:14

おそらく、「ほんとのこと」を口にできる社会や時代は、
現在のところただ指向しうるだけである。
わたしにとって、詩にほんとのことを吐き出すというのは現実上の抑圧を、
詩をかくことで観念的に一時的に解消することを意味しているようである。
・・・
詩のなかで現実にはいえないほんとのことを吐き出すことによって、
抑圧を解消させるというかんがえは、詩の本質についてある端緒をなしている。
抑圧は社会がつくるので、吐き出しても、またほんとのことを吐き出したい意識は
再生産される。だから、詩は永続する性質をもっている。
・・・
詩の場合には、ほんとのことはこころのなかにあるような気がし、
批評文の場合にはある事実(現実の事実であれ、思想上の事実であれ)
に伴ったこころにあるような気がする
・・・
以前なら、このほかに必要なしとかんがえ、判断をとめたにちがいないが、
いまわたしには詩にたいしていくらかの余裕をおいた好奇心がある。
他の詩人や批評家や哲学者が、詩についてなんといっているか、たずねてみたい。
ちがった答えにぶつかるのはじゅうぶん承知のうえである。

12吉本隆明 「詩とはなにか」 思潮社 [詩の森文庫C09]:2009/11/09(月) 22:23:48
中村光夫は『小説入門』(新潮文庫)のなかでつぎのようにかいている。

   詩の場合は作者の思想や感情は言葉によって直接に表現されます。
 詩の本質は歌であり歌であるとはよくいわれることであり・・・
 歌は言葉であるとともに、言葉以前の肉声―または叫び声―です。
 僕らの感動のもっとも直接的な表現です。
   詩はこの肉声に言葉をできるだけ近づける性格を持ち、
 そのために言語を、そのために言語をその日常性社会からできるだけ解放すること
 を目指します。                      
                         
(*以下は吉本)
・・・詩の本質が歌であり、
歌は言葉以前の肉声―または叫び声であるという箇処に着目したい。
ほんとのことを口に出せば世界は凍ってしまうならば、それができない社会では、
絶えず、ワァッとかウオウとかいう叫びをこころに禁圧しているとも考えられるからである。

日常の会話でも対者から言葉をおさえられたとき、意識は
言葉にならない叫びのようなものを呑みこむ。

・・・ヴァレリーが
「詩は、節調ある言語によって、叫び、涙、愛撫、接吻、嘆息などが暗々裡に表現しようとし
また物体が その外見上の生命あるいは仮想された意志 によって
表現したいと思っているらしい、それらのもの、或いはそのものを
表現し、再現しようとするの試みである」(「文学論」堀口大学訳)

とのべているのは、中村光夫とほぼひとしい地点にたっている。
言語のまえに、有節音があり、
そのまえには、ワァツとかウオウとかいう叫びがあったとすれば
そしていまもなお叫び声が人間と現実との関係に介在するとすれば、
詩をこれに結びつけるのは、ひとつの見解たるを失わないのである。


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