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自民党スレ2

90OS5:2024/08/18(日) 20:12:21
https://news.yahoo.co.jp/articles/f6ec20299977ebe1af356a7e5ecf7e05f0464f63
「三角大福」の争いで金権批判 その後は「クリーン」アピール 自民党総裁選プレーバック②
8/14(水) 7:00配信
産経新聞
自民党総裁選に勝利したときの田中角栄氏=昭和47年7月5日

昭和45年10月29日、佐藤栄作は自民党史上初の総裁4選を果たした。投票総数の7割以上にあたる353票を獲得したものの、三木武夫に佐藤への批判票として予想を上回る111票が集まった。

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■権力闘争に傾注

三木は「政治が国民から遊離している」と述べたが、総裁選の仕組みにも批判があった。有権者は党所属の衆参両院議員と都道府県から各1人の代表者であり、現在の党員投票はなかった。選挙管理委員会や立会演説会もなく、議員を政策論争そっちのけで権力闘争に傾注させる規定だといわれていた。

佐藤は4選後、早々に次は立候補しないと表明し、田中角栄と福田赳夫による「第1次角福戦争」と呼ばれる後継争いが激化した。佐藤は福田に政権を禅譲する形での「角福調整」を模索していたとされる。しかし、田中は豊富な資金力を背景に勢力を伸ばし、47年5月に佐藤派内の大半の議員で田中派を旗揚げした。

同年7月の総裁選は新ルールとして立候補に推薦人10人が必要となり、田中、福田、大平正芳、三木が立候補した。各氏から一文字取って「三角大福」と呼ばれた。田中、大平、三木が決選投票で「反福田」で協力すると確認し、大勢が決した。決選投票は田中282票、福田190票で、田中は当時最年少の54歳で総裁に就いた。7年8カ月続いた佐藤政権後、田中の若さへの期待も高かった。

この総裁選についてサンケイ新聞(現産経新聞)は、地方の代議員に関し「1票3千万円のウワサも」と報じた。田中は首相就任後、金脈問題によって追い込まれ49年に退陣した。

■「椎名裁定」で決着

後任を巡り、派閥の人数で勝る田中と大平が総裁選実施を模索したのに対し、三木、福田が「田中亜流」を避けるべく話し合いによる決着を主張。最終的に金権選挙や党分裂を避けるため、副総裁・椎名悦三郎による「椎名裁定」で三木が総裁となった。

「クリーン三木」といわれた三木は総裁選に何度も挑戦した。今年9月の総裁選出馬の意欲を隠さない石破茂は、三木について「自分に重ねてみたところは確かにある」と話したことがある。派閥のパーティー収入不記載事件を受け自民に逆風が吹く中、石破に好機が到来したのか否か。目先を変えるため小泉進次郎、小林鷹之ら中堅・若手への待望論もある。ただ、話し合いで決着する可能性はほとんどない。(敬称略)


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