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自民党スレ2

89OS5:2024/08/18(日) 20:11:58
https://news.yahoo.co.jp/articles/c568884b30e8facb8b5e84cff799e214e54632b5
石橋湛山は2・3位連合で勝利 黎明期から決選投票が焦点 自民党総裁選プレーバック①
8/13(火) 7:00配信



産経新聞
自民党総裁選の決選投票で勝利した石橋湛山氏(左)と握手する敗れた岸信介氏=昭和31年12月14日

9月の自民党総裁選は、「政治とカネ」の問題に由来する派閥解消に伴い「派閥なき総裁選」となる。熾烈(しれつ)な権力闘争を繰り広げてきた過去の総裁選を振り返りつつ、今年の総裁選の焦点を探る。

【表でみる】昭和31年の自民党総裁選

昭和30年の保守合同によって誕生した自民党で、総裁選が初めて行われたのは翌31年4月5日のことだった。地方の党組織の確立を急いだ時期で、国会議員に地方代議員を加えた選挙となった。当初は旧民主党の鳩山一郎と旧自由党の緒方竹虎との争いとみられていたが、1月に緒方が急死。有力な対抗馬がいなくなり、鳩山が圧勝した。

■飛び交う空手形

鳩山が同年11月に退陣を表明すると、後継を岸信介、石橋湛山、石井光次郎の三者が争った。それぞれ党内での勢力、人気が伯仲しており、初の本格的な総裁選と位置づけられている。投票によるしこりを避けるため、長老による話し合いでの決着が模索されたが、実現しなかった。

総裁選では現金やポストの空手形が飛び交ったといわれ、当時の産経時事(現産経新聞)は「岸派のグランド・ホテル、石橋派の日活会館、石井派のプリンス・ホテルの事務所ではそれぞれおそくまで参謀会議が開かれた」と報じていた。

主流派の岸と非主流派の石橋、石井という構図となった総裁選は同年12月14日に行われ、第1回投票で1位岸、2位石橋、3位石井となったが、岸は過半数を獲得できなかった。党則により岸、石橋の間で決選投票が行われ、2位・3位連合を結成した石橋が258票を獲得し、251票の岸に7票差で勝利した。

今年9月の総裁選に関し、岸田文雄内閣の支持率低迷を受け、多くの候補者による論戦を通じ党勢回復を図るべきだとの意見がある。候補者が乱立すれば決選投票にもつれこむ公算が大きいだけに、閣僚経験者は「派閥は解消したが、決選投票ではまとまって行動したい」と話している。党の黎明(れいめい)期と同様、決選投票での合従連衡が焦点となりそうだ。

■「ポスト岸」で乱戦

石橋の病気による辞任に伴う昭和32年3月21日の総裁選は約3カ月前の戦いで石橋に肉薄した岸が優位を誇って形式的な総裁選となり、岸は有効投票数475票のうち471票と圧倒的多数で選出された。

日米安全保障条約改定を成し遂げた岸は35年6月、退陣を表明した。「ポスト岸」を巡る争いは、官僚出身の池田勇人と、党人派の支持を集めた石井を中心に複数候補が立候補の意志を示す乱戦となった。サンケイ新聞(現産経新聞)は「党内の派閥抗争は頂点に達した。総裁公選には金がかかる-という世間の非難が強くでたのもこのときだ」と振り返る。このときは、池田が決選投票で石井に勝利した。

39年の東京五輪閉幕翌日の10月25日、池田は病気のため退陣を表明した。次の総裁は、池田の後継指名もあり話し合いによって佐藤栄作に一本化。佐藤長期政権のスタートだった。(敬称略)


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