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自民党スレ2
45
:
名無しさん
:2024/08/13(火) 09:50:19
サミット開催、小渕元首相
小渕優子氏(左)と梶山弘志氏
98年7月の自民党総裁選で梶山氏らに勝利して首相に就任した小渕恵三氏も、沖縄への思い入れが強かった政治家として知られる。その象徴が、00年の主要国首脳会議(サミット)の開催地を沖縄に決めたことだ。
小渕氏は早稲田大学在学中に沖縄の復帰運動に参加。卒業後、米施政下の沖縄から世界漫遊の旅に出るなど、政治家になる前から接点があった。そして、小渕氏はサミット開催地について、過去3回東京で行っていることから、「地方開催」を前提に選定を進めた。
米軍による事件、事故が起きた場合の悪影響や警備上の問題などから、外務省や警察庁は沖縄での開催に消極的だったが、小渕氏は99年4月、慎重論を押し切り、沖縄を選んだ。サミットに合わせて、「守礼門」が描かれた2千円札の発行も決めた。
当時を知る警察庁OBによると、沖縄開催を決断した小渕氏は、野中広務官房長官を通じて、田中節夫警察庁長官に「警備で苦労をかけるが、費用を含めてあらゆる負担に応じる」と伝えたという。
小渕氏はサミットの2カ月前に脳梗塞で死去。ホスト役は後継首相の森喜朗氏が務めた。名護市内のホテルで開かれた歓迎レセプションに招かれた小渕氏の千鶴子夫人は、クリントン米大統領やシラク仏大統領ら各国首脳を前に、涙を流した。
山中、梶山、小渕の3氏のほかにも、就任後最初の首脳会談で普天間返還を切り出し、基地問題を梶山氏に全面的に委ねた橋本元首相。小渕氏の決断を官房長官として後押しした野中氏も、沖縄の立場に理解を示し、諸問題に尽力した「沖縄族」議員に挙げられよう。
◇「沖縄族」育たず
梶山氏の長男・弘志氏は、地方創生相、経産相などを経て幹事長代行。小渕氏の次女・優子氏は、少子化対策相、経産相などを歴任し選対委員長。それぞれ党の要職にある。
弘志氏はエネルギーや港運関連の政策などに詳しく、沖縄との接点は少なそう。一方、優子氏は党沖縄振興調査会長をかつて務めており、沖縄への思い入れはあるとみられる。
優子氏は党の選挙責任者として、沖縄県議選で現地入りし、自民党候補への支持を訴えた。その効果もあり、自民党は議席を伸ばし、公明党と合わせて過半数を確保した。その直後に判明したのが米兵による少女らへの暴行事件だ。
しかし、優子氏が地元の反発を受け止め、外務省に苦言を呈した形跡はない。外務省などの慎重論を押し切って、沖縄でのサミット開催を決断した父・恵三氏とは対照的。優子氏を含め、沖縄の問題をライフワークとし、忖度(そんたく)せずに政府にものを言う実力者「沖縄族」が育っていないのが、実情だ。
自民、公明両党を除く「オール沖縄」の支援を受ける玉城知事は、普天間飛行場の名護市辺野古への移設にあらゆる手段で抵抗し、岸田文雄内閣と厳しく対立する。そうであっても、国内の米軍基地の7割以上が沖縄県に集中し、戦後の日本の安全保障に貢献してきたことは紛れもない事実だ。梶山氏が沖縄を「死に場所」と決めた当時の太田昌秀知事は革新系だ。
事件を受けた岸田政権や外務省の対応、自民党内の反応について、山中、梶山、小渕の各氏が存命だったら、どういう言葉を発するだろうか?
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