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自民党スレ2
44
:
名無しさん
:2024/08/13(火) 09:50:03
「死に場所」に決めた梶山元官房長官
東京・霞が関の外務省
「政治家としての死に場所を得た」。96年1月に発足した橋本龍太郎内閣で官房長官に就いた梶山静六氏(1926年3月―2000年6月)は、同年11月の第2次橋本内閣の発足に当たり、志願して「沖縄問題担当」を兼務すると、政治家人生の集大成として基地問題に取り組んだ。
村山富市政権時の95年に米兵による少女暴行事件が起きると、県内で反基地運動が広がった。現状を憂慮した橋本氏は首相就任直後の96年2月、米サンタモニカでのクリントン大統領との初の首脳会談で、「世界一危険な基地」と言われる米軍普天間飛行場の返還をいきなり提起した。県の要望を事前に聞いた上での、政治決断だ。
そして、日米両政府は同年4月、「5〜7年」での返還で合意した。梶山氏が、沖縄を「死に場所」と口にしたのはこの頃だ。
梶山氏が取り組んだのは、戦略的価値が低下した米軍施設・区域の返還を含む地元の負担軽減と、基地負担に見合う大胆な経済振興などだ。
梶山氏の尽力もあり、米軍基地の整理・縮小を協議する日米特別行動委員会(SACO)が同年12月に最終報告をまとめ、返還や騒音軽減などで合意した。
経済振興に関しては、梶山氏は同年8月、私的懇談会(通称・島田懇談会)を設置し、沖縄の経済界や労働界、メディアのトップらをメンバーに起用。地元の要望を直接聞き、11月に提言を受け取ると、これを基に事業化を進めた。
この過程で、梶山氏がしばしば怒りを募らせたのが外務省だ。基地の反対運動が起きると矢面に立つのは当時の防衛施設庁。外務省については、県や市町村などとの連絡・調整など地元の理解を得る努力を防衛施設庁に任せ、汗をかいていないように感じた。
梶山氏は、外務省幹部らを「タキシードに蝶ネクタイを締め、ワイン片手にダンスを踊るのが仕事だと考えているのが外務省」などと面罵した。外交官として、パーティーなど社交の場には好んで出席するが、地元対策など難しい仕事を積極的には引き受けようとしない姿を、痛烈に皮肉った言葉だ。
叱責されることを恐れて官房長官室に寄り付かず、梶山氏への報告を秘書官に任せる幹部もいた。
懇談会のメンバーだった稲嶺恵一氏はその後、自民党の支援を得て知事選に出馬し勝利。梶山氏が死去すると、知事として追悼文を寄せ「時には会議終了後、車座になりグラスを傾けながら、いつまでも沖縄側の発言にじっと耳を傾けておられた。その真摯(しんし)なお姿に感動さえ覚えた」としのんだ。
梶山氏は陸軍士官学校出身で、中国大陸で飛行訓練中に終戦を迎えた。がんで死去する前年の99年には、夫人とともに鹿児島県南九州市の「知覧特攻平和会館」を訪れ、特攻隊員の遺影や遺書などを目にしている。戦後を生きた政治家として、先に逝った戦友に対し、「死に場所」に決めた沖縄に尽くしたことを報告しただろう。
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