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自民党スレ2

317OS5:2024/09/25(水) 12:16:16
■なぜ「麻生派」にこだわるのか

 麻生派の源流は、河野氏の父・洋平氏が1999年に立ち上げた「大勇会」という十数人の小グループである。洋平氏は宏池会に属し、加藤紘一元幹事長と派閥会長の座を争っていた。洋平氏も加藤氏も宏池会の大御所である宮沢喜一首相のもとで官房長官を務めたライバルだった。

 宮沢氏が宏池会会長を加藤氏に譲ったことに反発し、洋平氏は宏池会を離脱して大勇会を旗揚げした。この時、麻生氏も加藤氏を嫌って洋平氏とともに宏池会を飛び出し、大勇会結成に名を連ねたのである。

 大勇会は総裁選出馬に必要な20人に達しなかった。新聞には「派閥」と表記してもらえず、「河野グループ」と呼ばれた(1996年衆院選で洋平氏の地盤の一部を継承して初当選した河野氏も父が率いる大勇会に加わった)。この弱小グループを洋平氏から受け継ぎ、第二派閥に育て上げたのが麻生氏である。

 麻生氏にとって幸運だったのは、加藤氏が2000年、清和会(現安倍派)の森喜朗政権に反旗を翻して野党提出の内閣不信任案に同調する「加藤の乱」を仕掛けて失敗し、宏池会が分裂・弱体化したことだ。

■父親が立ち上げた「河野グループ」という自負

 森内閣を受け継いだ清和会の小泉純一郎政権下で、麻生氏は政調会長、総務相、外相に次々と抜擢され、同じ清和会の福田康夫政権では幹事長に就任。清和会支配のもとで麻生氏は宏池会の没落を横目にメキメキと実力を蓄え、2008年にはついに首相の座を射止めた。

 2009年の衆院選に惨敗して下野したものの、2012年に自民党が政権復帰した安倍晋三政権では副総理兼財務相として君臨し、最大派閥・清和会に続く第二派閥の地位を確立したのである。

 その後の麻生氏は河野氏が台頭して派閥の世代交代の歯車が回ることを恐れ、河野氏の総裁選出馬に反対してきた。

 一方、河野氏には麻生派の源流は父親が立ち上げた「河野グループ」であるという自負がある。

 私は朝日新聞政治部の駆け出し記者時代、河野洋平外相の番記者として、旗揚げしたばかりの大勇会(河野グループ)を担当した。ハト派として鳴らした洋平氏とタカ派として知られた麻生氏が政治行動をともにすることに当初は違和感を抱いたが、取材しているうちに二人を結びつけているのは「アンチ加藤紘一」の立場であり、自分たちを冷遇した宏池会へのルサンチマンであると理解した。政治家は政治信条よりも好き嫌いで動くことを目の当たりにしたのである。

■政治信条を超える世襲政治家の連帯感

 さらに取材していくうちに、洋平氏と麻生氏の間には、私たち一般庶民には窺い知れない絆があるように感じ始めた。それは世襲政治家、それも煌びやかな政治名門一族が共有する「エスタブリッシュメント志向」というほかない独特の連帯感のようなものだった。

 麻生氏は明治国家の基礎をつくった大久保利通や戦後日本の礎をつくった吉田茂の子孫である。洋平氏も大物政治家・河野一郎元副総理を父に持ち、叔父も参院議長を務めた政治名門一族だ。

 彼らは叩き上げの政治家に対する強い警戒感を隠し持っている。今の政界でいうと、政治家秘書から国会議員の座をつかみ取り、ライバルたちを蹴落として実力者に這い上がった菅氏や二階俊博元幹事長のような豪腕政治家たちだ。麻生氏と安倍氏が心を許し合っていたのも、政治名門一族同士がお互いに抱く安心感を共有していたからだろう。右や左、ハトやタカといった政治信条よりも政治家同士を結びつける強固な連帯感である。


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