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首都圏・東京 地方政治綜合スレ

3110OS5:2026/01/04(日) 12:58:19
「藤木幸太郎」と「山口組三代目」
 この状況を大きく変えたのが、1912年に神戸からやってきた酒井信太郎(酒井組=現・横浜港湾作業の創業者)と、その配下で頭角を現した藤木幸太郎(藤木組の創業者)である。二人とも叩き上げの荷役夫を経て親方になった人物だったため、荷役夫の状況をよく理解しており、時には労働組合による賃金引き上げ要求を支援し、荷役夫の安全確保や福利厚生にも力を尽くした。

 二人がこのように努力を積み重ねた結果、1925年、横浜の酒井と藤木、神戸の鶴井寿太郎、藤原光次郎という4人の親方が結束して親睦団体「鶴酒藤兄弟会」(通称・鶴酒藤)が生まれ、全国の港湾業者のほとんどが鶴酒藤の傘下に入った。鶴酒藤は、荷役や港湾に関わる政府の方針に影響を与え、荷役夫の労働条件や労働環境は大幅に改善されたが、任侠道にも似た閉鎖的な親分・子分の絆(義理と人情)が問題化することもあった。

 とくに問題となったのは、藤木が博打に理解を示し、自ら賭場を開帳、荷役夫に娯楽の場として提供したことだ。藤木は「外部のやくざから荷役夫を守るため」としたが、端から見れば藤木もやくざの起源の一つである「博徒」の胴元にしか見えず、賭博法違反で警察の摘発を受ける対象となった。

 1951年、酒井・藤木などの政府への働きかけにより「港湾事業法」が制定され、1956年になると業界団体である全国港湾荷役振興協会(全港振)が設立された。初代会長に藤木が就任したのは当然として、問題は副会長に神戸の荷役業者である田岡一雄が選任されたことだ。

 これが「荷役業者=やくざ」という世間のイメージを増幅することになった。田岡は、荷役業を営む一方、山口組三代目組長としても辣腕を振るっていたからである。また、藤木と同じく横浜の荷役夫の親方だった笹田照一や鶴岡政次郎も、それぞれ笹田一家や綱島一家(稲川会の起源)という博徒集団を率いていたが、これも負のイメージの要素となったことは否めない。
「藤木幸夫」の登場
 藤木は賭場の摘発をきっかけに賭場を閉じて堅気になり、配下の者に賭博、麻薬、やくざとの付き合いを厳禁したが、世間の目は甘くなかった。しかも藤木自身、田岡との交流を隠さなかった。そのため田岡と昵懇だった藤木を「やくざと同類」と見なす人々も少なくなかったが、藤木は、荷役夫など港湾労働者の生活改善と横浜港の繁栄を目的にした合法的なビジネスに徹しながら、「義理と人情」という矜恃を守り、田岡との縁を、田岡が斃(たお)れるまで切ることはなかった。

 田岡は、山口組を「侠客の友誼組織」と自称していたが、警察当局がそう見なかったのは言うまでもあるまい。警察は東京五輪開幕に合わせて、山口組など広域暴力団の一掃を目標とした「第一次頂上作戦」を展開する(1964〜1968年)。その煽りを受けるように、田岡が副会長を務める全港振も1966年に解散、全港振に加盟する荷役会社は日本港運協会始めとする他の業界団体に糾合され、藤木は神奈川港運協会会長などを歴任、暴力団抗争が上塗りしたミナトの負のイメージを払拭するために、横浜港で働く荷役夫の社会的地位の向上や福利厚生に注力する一方、当時世界的潮流になりつつあった海上コンテナ輸送に対応した荷役業務の改革に着手したが、そこで力を発揮したのが藤木の長男・幸夫、現在の「ハマのドン」である。

 藤木幸夫は、清濁併せ呑んだ上で事業を維持拡大してきた父・幸太郎を補佐し、藤木企業などの荷役会社を「完全な堅気の企業」として再生させるよう力を尽くした。

 幸夫にとって幸いだったのは、1960年代末からコンテナ輸送とクレーン(キリン)を使った機械が主役の荷役作業が普及し、艀などを使った労働集約型の荷役作業が激減したことだ。港にとって、高度な技術を活用したコンテナ専用埠頭とクレーンの整備・普及が喫緊の課題となり、幸夫はその先頭に立って、荷役会社は無論のこと、海運業、倉庫業、運輸業、鉄道業、貿易業(商社)、精油業などといった港湾に関わる事業を展開するあらゆる業界・業種やその経営者・労働者の利害の調整役として八面六臂の活躍をした。


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