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新・大中華世界的話題
86
:
とはずがたり
:2015/08/31(月) 18:35:25
天津市の没落を象徴する、爆発事故での呆れた対応
http://diamond.jp/articles/-/77032
莫 邦富 [作家・ジャーナリスト] 【第259回】 2015年8月21日
天津は長い間、中国にとっては非常に重要な都市だった。中国語では、「天子」という言葉が皇帝を指す。「津」は渡し場、港という意味だ。したがって、天津とは、天子が通った渡し場となる。明王朝の1400年に天津と名を定めてから、この地名は今日にまで至っている。これまで河北省の省都になったり、直轄市または河北省の省轄市に変更されたりしてきた。1967に再び直轄市となり現在に至る。
?重慶が直轄市になる1997年まで、中国には直轄市が3つしかなかった。北京、天津と上海だ。天津は中国北部を代表する最大の港湾都市として、近代に入ると最も早く諸外国に開かれ、中国北部の開放の最前列となり、中国の富国強兵、近代化を目指した洋務運動の中心地となった。
?天津の推し進めた、鉄道、電信、電話、郵便、採鉱、近代教育、司法などの近代化的整備は全国の先駆けとなり、上海に次ぐ第2の商工業都市となり、北方最大の金融・商業・貿易の中心にまで上り詰めた。たとえば、往時は100を超える国内外の銀行が参入し、全国総資本の15%を占めるほど、北方最大の金融都市としてその存在を誇った。
?しかし、この輝かしい歴史をもつ天津はここ数十年、ずっと下り坂を転ぶかのように地盤が沈下している。
?1980年代半ばまで、北京、天津、上海(滬)を言い表す「京津滬」という熟語があるように、天津は北京、上海と肩を並べる中国有数の大都市で、産業、商業、海運、鉄道のどれを取っても、その存在は侮れなかった。
?だが、1978年から始まった改革・開放は中国の都市勢力図を大きく塗りかえた。80年代の後半から、天津はだんだん改革・開放の波に乗れなくなり、いつの間にか「つかみどころのない都市」となってしまったのである。1990年代に入ってから、中国で地盤沈下がもっとも激しい大都市といえば、多くの中国人がまず天津を思い浮かべる。
?改革・開放が始まって間もなかった1980年代初期、珠江デルタの経済的実力は京津唐地域(北京、天津、唐山)のそれに遥かに及ばなかったが、90年に入ると、両者は互角となった。京津唐地域はいまや話にならないほど後れをとってしまった。なかでも、天津の地位低下には目を覆いたくなるほどのものがあった。
?いまの中国では、北京、天津、上海という3つの直轄市の実力を誇示する「京津滬」という熟語はもう聞かれなくなって久しい。変わって登場したのは「京上広」だ。つまり北京、上海、広州という3つの都市を指す。広州はただの省都だ。直轄市のランクまでは行っていない。都市間の競争は、南の都市が勝ち、保守的な北方が大きく後れを取っている。天津市がその代表として消えて久しい。
「京上広」という新しい順位もいまやまた変わろうとしている。これからは「京上深」つまり北京、上海、深センになるかもしれない。深センの成長と飛躍に比べて、天津はすでに取り返しがつかないほどの後れをとってしまった。今度の爆発事故から見れば、天津の後れは端的に幹部の人材、意識に集中していると言えよう。
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