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新・大中華世界的話題
616
:
チバQ
:2015/11/15(日) 23:11:09
●手作りの「紙芝居」で選挙の仕組みを説明
ミャンマーの選挙運動は「お祭り」のようだ。
集会では演説の合間に歌手やコメディアンが登場して、場を盛り上げる。娯楽の少ない田舎では、こうした余興を楽しみにして集まってくる人々も多い。「これが、この国の選挙の戦い方なんですよ。特に田舎では、農作業で忙しい村の人たちに、仕事の手を止めて話を聞いてもらうことが何よりも大切なんです」と、説明してくれた。
モーさんは、数人の選挙スタッフとともに一つ一つの村を訪れ、集会を開いた。選挙の仕組みや投票の仕方を手作りの紙芝居で説明し、自分たちが行いたい政策を訴え、「農民発展党のモー・ミン・ウーに一票を投じてほしい」と呼びかけていく。
だが、モーさんの選挙区でも、アウン・サン・スー・チーさんが率いるNLDの人気は絶大だ。長く続いた軍事政権下の閉塞感と厳しい生活を打開するため、「とにかく、政権が変われば希望が見える」と考える人が多いのだという。NLDが今の政権を倒してくれたら、収入が増え生活が楽になるかもしれない。そんな期待感がNLDの人気につながっていると、モーさんは話す。
実際、セドウタヤのNLD候補者は、具体的な政策や自らの名前は告げずに、「民主主義を勝ち取って、自由を手に入れよう!その先に、希望がある!」と叫び、「どうか、アウン・サン・スー・チーに、一票を!」と訴え、支持を集めていた。
知名度も選挙資金もわずかなモーさんは、ひたすら村に足を運んで対話する作戦をとった。集まった村人に、目の前にある課題と具体的な解決案をあげ、「NLDの候補者と、自分のどちらがセドウタヤのために役に立つのか考えてほしい」と訴え、NLD人気の切り崩しに挑んだ。
●民主的な「政権交代」はミャンマー国民の悲願
かつてミャンマー(当時ビルマ)は、コメの一大輸出国として知られ、「東南アジア一豊かな国」と呼ばれていた。しかし、1960年代に発足した軍事政権が「ビルマ式社会主義」を推し進めた結果、経済が急速に悪化し、80年代後半には「最貧国」に転落した。
そんななか、1988年に民衆の不満が爆発。学生を中心とした民主化運動が全国に広がり、軍事政権の議長を辞任に追い込んだ。このとき、民主化運動の象徴として登場したが、アウン・サン・スー・チーさんだった。
しかし、直後の軍事クーデターで再び実権を握った軍部の将校らが、武力を用いて民主化運動を鎮圧。翌年には、スー・チーさんの自宅軟禁がはじまった。1990年に行われた総選挙では、NLDが圧勝したが、軍事政権が選挙結果を拒否して、民主化勢力への弾圧をさらに強めた。
それから約20年後の2011年、ようやく民政移管が行われたが、その後も、軍部の強い影響下にある与党政権の統治が続いてきた。民主的で公平な選挙の実施と政権交代は、国民の悲願となっていたのだ。
一方、モー・ミン・ウーさんは1975年、ミャンマーの首都ヤンゴン(当時)で、3人兄弟の長男として生まれた。一家は貿易会社を営んでおり、母のミャ・ミャ・ウィンさんは海外の取引先へ出かけることも多かった。1988年、モーさんが12歳のころ、たまたま夏休み中だった彼を連れて、母が日本へやって来たことで、モーさんの人生が大きく変わる。
(注:国名の表記については、団体名などの固有名詞以外、現在の国名「ミャンマー」に記載を統一しました)
※下に続く:モーさんが「政治難民」になった理由とは・・・
(弁護士ドットコムニュース)
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