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新・大中華世界的話題

1245法の支配と無縁の支那人:2023/09/05(火) 09:42:38
*『殷の妲己(だっき)』Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%B2%E5%B7%B1

『史記』殷本紀[1]では、妲己は帝辛に寵愛され、帝辛は彼女のいうことなら何でも聞いたという。師涓に新淫の声・北鄙の舞・靡靡の楽を作らせた。賦税を厚くして鹿台に銭をたくわえ、鉅橋に粟を満たし、狗馬・奇物を収めて宮室いっぱいにした。沙丘の苑台を拡張して、野獣蜚鳥をその中に置いた。鬼神をあなどり、沙丘に大勢の者を集めて楽しみ戯れた。酒をそそいで池とし、肉を掛けて林とし(酒池肉林)、男女を裸にして互いに追いかけさせ、長夜の飲をなした。

その後、妲己は周によって攻められた際に武王により殺されたとされる。




**『漢の呂雉(りょち)』Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E9%9B%89

劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、呂后は皇太后としてその後見にあたる。また、自らの地位をより強固なものにするため、張耳の息子張敖と魯元公主とのあいだに生まれた娘(恵帝の姪に当たる)を恵帝の皇后(張皇后)に立てた。だが、高祖の後継を巡る争いは根深く尾を引いており、恵帝即位後間もなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、趙王を殺害した。呂后はその生母戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声を潰し、その後便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせ、そのさまを笑い転げながら見ていたと史書にはある(なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿を「餌」にする「豚便所」であった。戚氏を厠に入れたことから、豚に喩えたと思われる)。

これに激しく落胆した恵帝は政務を放棄し、酒に溺れ間もなく死去する。




***『清の西太后』Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%AA%E5%90%8E

清の咸豊帝の皇妃であり同治帝の母。

同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。しかし、自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕譞)載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして垂簾聴政を行い、権力の中枢に居座り続けた。

1875-1879年、連年の天候不順により丁戌奇荒と呼ばれる大飢饉が発生したが、再び権力を握った西太后は何の救済も実施せず、富裕な民間人が私財を投げ打つ私的な飢民救済が各地で行われた程だった。そして中央政府の怠慢は、1000万人以上の餓死者を出す清朝史上最悪の飢饉を引き起こすことになった。

1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも突然の急死に懐疑的な意見を表した者は多かったが、病案が隠匿された為に死因は未だ謎である。また1884年には、清仏戦争敗北の事後処理において、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕訢へ責任を負わせ、失脚させた。

東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立。




****『文化大革命の江青夫人』Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E9%9D%92

山東省諸城県出身。文化大革命(文革)を主導し「紅色女皇」と呼ばれた。文革末期には王洪文・張春橋・姚文元と「四人組」を形成し、中国共産党内で影響力を持ったが、毛沢東の死後に逮捕、投獄され、死刑判決を受ける。無期懲役に減刑ののち、病気治療仮釈放(保外就医)中に北京の居住地で自殺した。


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