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新・鉄道綜合スレ

884とはずがたり:2016/10/04(火) 13:31:04
尺別駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BA%E5%88%A5%E9%A7%85

尺別駅(しゃくべつえき)は、北海道釧路市音別町尺別にある北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線の駅。駅番号はK44。電報略号はヤク。
1970年(昭和45年)の雄別炭鉱(尺別炭鉱)自主閉山までは、雄別炭鉱尺別線の接続駅として多くの貨物を取り扱い、栄えた過去を持つが、現在はいわゆる秘境駅のひとつとされる。

ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 0人/日(降車客含まず)
-2012年度-

雄別炭鉱尺別線が運用されていた頃の構造は、中線を有する相対式ホーム2面2線で、駅舎直別側に貨物ホームと引込線、本線駅裏側に雄別炭鉱用の留置・仕訳用側線5本及び機回し線1本が釧路側から分岐、機回し線の(社)尺別駅寄りに転車台を有した[1]。

民家が数軒あるが、ここから尺別鉄道で内陸に8キロほど入ったあたりには、かつて数千人が暮らした大きな市街地があったが閉山により消滅。わずかに街路の跡と崩れた屋根が残るのみ。

雄別炭鉱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E5%88%A5%E7%82%AD%E9%89%B1

曖昧さ回避 この項目では、北海道釧路市にあった炭鉱について説明しています。この炭鉱を運営した会社については「雄別炭礦」をご覧ください。
雄別炭鉱(ゆうべつたんこう)は、北海道釧路市(合併前の旧阿寒町)に存在した炭鉱。舌辛川沿いに数カ所の坑口が存在したが、主力は雄別通洞であった。

1919年(大正8年)12月7日に北海炭礦鉄道株式会社が創業[1]。 翌年、鉄道の敷設と炭鉱の開発が開始された。 1923年(大正12年) 1月17日に鉄道が完成し[1]、炭鉱の操業が開始されるが、1924年(大正13年)に三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)が買収し[1]、以後、子会社として分離されるなどの経緯はあったが三菱財閥系の炭鉱として存続した。
1964年に最大出炭量を記録するも、エネルギー革命の波には逆らえず、さらに1969年に茂尻鉱坑内爆発事故を起こしてしまったために出炭を中止。翌1970年には閉山に追い込まれた。

現在の様子[編集]
閉山に至る前後の経緯は、雄別炭礦を参照のこと。
山間僻地であったことから、閉山直後より企業城下町となっていた集落群は無人地帯となった。病院などの施設は現存しているが放置されている。
なお、雄別周辺は国有林であり、現地へ行く際は入林許可を受けなければならない。また、周辺はヒグマの生息地でもある。現存する建物は荒廃が進んでいる。携帯電話も圏外となる。
2007年(平成19年)に経済産業省が近代化遺産として認定したため、保存に向けた動きも出てきている。

雄別炭礦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E5%88%A5%E7%82%AD%E7%A4%A6

曖昧さ回避 この項目では、北海道で炭鉱を経営した会社について説明しています。この会社が経営した炭鉱については「雄別炭鉱」をご覧ください。
雄別炭礦株式会社(ゆうべつたんこう)は、大正から昭和にかけて北海道に存在した炭鉱経営会社である[1]。 釧路市(旧阿寒町)の雄別炭鉱の採炭と自社鉄道による運炭を主体に[1]、釧路炭田の尺別炭鉱及び浦幌炭鉱[1]、上茶路炭鉱[1]の外、空知炭田の茂尻炭鉱を経営した。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)系列。
1919年(大正8年)設立[1]。1960年代のエネルギー転換政策(エネルギー革命)により各炭鉱の採算が悪化して行く中、採炭坑区を絞り、最新の設備を投入するなど、いわゆるスクラップ・アンド・ビルドを行って会社再建を図っていた矢先、シールド採炭法などの最先端の技術を導入した茂尻炭鉱で大規模なガス爆発による人身事故が発生し、事故対応によって急速に資金繰りが悪化したため、全炭鉱を閉山して1970年(昭和45年)に会社を解散した。

資金繰りが原因による突然の戦後最大の大手炭鉱会社の倒産であったため、地元自治体は築1年も経過していない公立学校の校舎や公民館施設などの放棄を余儀なくされた。雄別鉱業所が置かれ15000人程度の人口があった阿寒町雄別地区では、雄別炭鉱閉山と共に残務整理業務に携わる社員以外の住民がすべて姿を消し、企業・商店は廃業か阿寒町中心街や釧路市への移転を強いられた。役所、警察、郵便局、病院、映画館、小・中学校、寺院、神社などの施設は数か月のうちに閉鎖され、閉山後の数年で無人地帯と化した。音別町尺別地区でも住民の集団移転を行い、新尺別の町営住宅などの各種施設を放棄して役場職員の解雇を実施した。また地元住民の住む住宅の多くは雄別炭礦の所有だったため、倒産後一方的に解体されるなどして生活の場を失うなど、地域住民の生活が大混乱に陥った。


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