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新・鉄道綜合スレ
4731
:
OS5
:2024/04/07(日) 21:59:42
《敦賀〜東京間のルート》
具体的な記載はないが、プロコフィエフは敦賀駅から米原駅に向かい、東海道線の急行列車(後の特急「燕」などに該当するが、当時は愛称なし)に乗り換えたと思われる。現在の北陸新幹線は高崎駅、長野駅、富山駅経由だが、当時すでに開通していた信越本線・横川駅〜軽井沢駅は碓氷峠越えの危険も多かった。国際列車を通せる状況になかったことは確かだ。
ただ、当時の蒸気機関車は 時速50〜60キロを出すのが関の山で、かつ途中区間は今と違い、敦賀から滋賀県・柳ヶ瀬経由ですさまじい峠越えの必要があった(1957年に現在のルートに切り替え)。こうして、現在は北陸新幹線が3時間8分で到達する敦賀駅〜東京駅間を約16時間、5倍もの時間をかけて移動している。
その後、本来であれば、プロコフィエフは横浜港を出港する国際船にすぐ乗り継ぐ予定だったが、3日前に出航してしまっていた。別の船が手配できるまで2カ月以上も日本に滞在し、今でいうインバウンド(海外旅行者)のように奈良公園や箱根を巡り、日本での生活を楽しんでいたという。
● 幾度も難民を助けた敦賀の気風 原点は「大和田伸也さんのご一族」にある?
欧亜国際連絡列車が敦賀に発着していた100年前の人々からすれば、最高時速260キロで敦賀と東京を3時間ちょっとで結ぶ北陸新幹線の開業は、まさに「予想外デス」な出来事だろう。訪れやすくなった今、アジア〜ヨーロッパの玄関口であった国際港・敦賀を散策してみるのも良いだろう。
敦賀港はプロコフィエフに限らず、亡命を余儀なくされた人々を受け入れてきた歴史がある。ロシア革命による政変の前後には、4593人ものロシア人難民を受け入れた。また、太平洋戦争の前には、当時のリトアニア大使・杉原千畝が発給した「命のビザ」によって、ナチス・ドイツからの迫害を逃れたユダヤ人難民を受け入れ、食事や歓待でもてなしたという。当時の資料は敦賀港近くの「人道の港・敦賀ムゼウム」で展示しており、国籍を問わず難民支援を行った敦賀の気風を知ることができる。
また、敦賀港の国際港としてのにぎわいの面影は、市内の博物館でも見ることができる。この建物は、国際港・大敦賀港(構想時の仮称)の開港を後押しした実業家・2代目大和田荘七の「大和田銀行」(戦後に三和銀行に吸収合併)旧本店でもあり、建物そのものが重要文化財に指定されている。
実は、新幹線の開業イベントに招かれた大和田伸也さんは大和田家の一族であり、父親が大和田銀行に勤務していたそうだ。大和田さんは新幹線開業の当日に、博物館の横にある「みなとつるが山車会館」を訪問。「こんにちは」と一言発しただけで、あまりの美声に敦賀市民が沸き返った。
敦賀港駅の駅舎は、敦賀鉄道博物館として現存している。欧亜国際連絡列車の往時の様子や、時刻表や切符なども展示されている。また、プロコフィエフを乗せた列車が走った旧・北陸本線のトンネルも、車で10分ほどの場所に現存している。
100年前に比べれば、北陸新幹線での移動は格段に早く、快適だ。車中でプロコフィエフの楽曲を聴きながら、敦賀の街を訪れるのも良いだろう。
参考文献
『プロコフィエフ短編集』群像社
宮武和多哉
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