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新・鉄道綜合スレ

4263OS5:2023/02/28(火) 11:22:15
 しかし、政府と空港公団は東京都心部と成田を短時間で結ぶ成田新幹線の計画を進めていた。成田新幹線は国鉄による運行が想定されており、ゆえに成田新幹線の線路を先に建設することが暗黙の了解になっていた。

 京成が空港まで線路を延伸させる計画を策定するが、空港公団は難色を示した。空港公団が難色を示した理由は 、京成が空港まで路線を延伸すれば、成田新幹線と競合する関係になり、成田新幹線の採算がとれなくなることを危ぶんだからだ。

 空港公団の妨害ともいえる拒否にもめげず、京成は計画を練り直して提案を続けた。それでも空港公団が京成案に首 を縦に振ることはなかった。

 空港公団がアクセス鉄道の本命としていた成田新幹線の基本計画は、1971年にようやく固まった。翌年に着工されるが、用地買収が思うように進まなかったことやルートの途中にある江戸川区からの反対もあって計画は停滞する。

 その後も成田新幹線は実現が模索されたが、運行主体とされていた国鉄が1987年に分割民営化。これが決定打になり、成田新幹線は暗礁に乗り上げる。

「成田は遠い」のイメージ
 一方、京成の延伸計画は成田新幹線の基本計画策定と同時に認可された。しかし、空港公団は成田新幹線に影響が出ないようにしたため、京成の成田空港駅(初代)は第1旅客ターミナルと第2旅客ターミナルの中間地点に開設された。

 京成の成田空港駅は空港のターミナルまでに距離があり、空港を利用するには成田空港駅から連絡バスに乗り継がねばならなかった。こうした鉄道アクセスが、「成田は遠くて不便」という悪評につながっていく。

 また、乗客には 過激派を敬遠する向きも少なからずあった。これらマイナス要因が響き、京成の空港特急利用者は事前の予測よりも伸びずに経営を蝕んでいく。

 京成は成田開港前の高度経済成長期から経営の多角化に着手し、地域開発などで巨額な投資をしていた。空港線の建設もその一環といえるが、巨額な投資が重荷になって経営危機に直面している。

 京成は経営体質を改善するため、1980年に大手私鉄が加盟する日本民営鉄道協会から脱退。同協会から脱退したことで、春闘における賃金交渉は大手私鉄他社と横並びでではなく、京成が独自に労働組合と話し合うことができるようになった。それが人件費の抑制へとつながり、経営を持ち直していく。

 不便で遠い京成の成田空港駅が改善されるのは、成田新幹線が完全にオワコン化した後だった。JRと京成が主体となって成田空港高速鉄道が設立されると、1991年に京成は線路を延伸。この延伸によって、成田空港駅は東成田駅へと駅名を改称。名実ともに空港の最寄り駅となる2代目の成田空港駅がお目見えする。


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