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新・鉄道綜合スレ

4262OS5:2023/02/28(火) 11:21:58
https://news.yahoo.co.jp/articles/15141f63a90b0899c03c9a4538646ef531007ca6
開港45年「成田空港」 京成・芝山…いまも公にできない「鉄道」をめぐる激動
2/28(火) 5:59配信
デイリー新潮
2010年に新型スカイライナーとして登場した2代目AE形。意匠デザインは、衣装デザイナーの故・山本寛斎さんが手がけた(撮影・小川裕夫)

 成田国際空港(成田空港)の近隣には、個人が耕作する農地が残存している。それらの農地は成田空港の建設予定地に含まれていたが、一部が未収用地のままだった。成田空港の誘導路は湾曲しているが、それは未収用地を避けて誘導路が建設されていることに起因している。


 未収用地を放置していては、空港の発展を阻害する。そうした状況から、成田空港株式会社(NAA)は2月15日の夜から未収用地に残っていた団結小屋とも団結やぐらとも呼ばれる建物や看板などを撤去するべく動き出した。今回の強制撤去は成田空港の使い勝手を向上させる措置といえるが、まだ成田空港近隣には未収用地がある。そのため、ただちに誘導路が直線的に造り変えられることはない。

 成田空港の一帯に未収用地があることで誘導路が直線的に建設できず、それが航空機の発着にも影響することは容易に想像できる。そうした背景もあり、抗議していた人たちによって、成田空港の発展が阻害されているとの思いを抱いた人は少なくないだろう。

 他方、NAAの前身である新東京国際空港公団(空港公団)が成田空港を利用しづらいものにしていたことは、あまり語られることがない。

 1978年に新東京国際空港(現・成田国際空港)は開港したが、成田空港の建設計画が浮上したのは、東京都大田区に所在している東京国際空港(羽田空港)が手狭になっていたことが背景にある。

 当時の技術では沖合を埋め立てることが難しく、ゆえに滑走路をはじめとする空港施設を新増設・拡張できなかった。

 政府は羽田空港の代替となる空港建設候補地をいくつか検討。当初は千葉県富里村(現・富里市)と八街町(現・八街市)にまたがったエリアを空港建設候補地に選定したが、地元からの激しい反対運動により白紙撤回された。

 計画は一から練り直され、千葉県成田市の三里塚と呼ばれる一帯に決定する。ここでも激しい抗議活動が巻き起こったものの、政府は二度 の計画変更をしなかった。そのまま空港建設を強行し、その強引すぎる建設手法は後にNAAも反省すべき点としている。今回の強制撤去は、その強引な手法によって起きた残り香であり、それがいまだに尾を引いているということでもある。

「成田新幹線」の計画
 成田空港の建設は国の直轄事業とされたが、空港経営は独立採算制が求められた。そうした背景から、政府は1966年に特殊法人の空港公団を設立。成田空港の経営を一任した。

 羽田と比べ、成田は東京から遠かった。そのままでは、成田空港の使い勝手は悪く、多くの需要を生み出せない。そこで空港建設は、鉄道とワンセットで進められることになる。

 空港へのアクセス路線を担う鉄道事業者として、国鉄と京成電鉄に白羽の矢が立てられた。京成に白羽の矢が立てられたのは、千葉県を地盤にしているからという理由だが、それは建前に過ぎなかった。あくまで空港公団が本命にしていたのは、国鉄だった。

 京成は、1930年に成田(現・京成成田)駅まで建設している。京成成田駅から空港までは、目と鼻の先といっていい距離にある。明らかに、京成の延伸は容易だった。


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