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新・鉄道綜合スレ
3969
:
チバQ
:2022/08/05(金) 09:40:25
突如、道の状態が一変!
無住の家屋を過ぎたところで分岐があり、直進方向には“この先高瀬橋通行不可”と書かれたバリケードが置かれていた。
目指している集落へは、右へ分岐する細い道を上がっていくので問題ないが、少し気になってしまう。
分岐からは道の状態が一変し、登山道の様相に。さらに1時間以上かけて急斜面をグングン登っていき、汗だくになった頃、ようやく車道に出られた。車道の先には、塩沢集落がある。
なお、車道の出入り口には看板があり“小和田駅ここから43分”と書かれていた。斜面の下りと上りとで所要時間が異なるのは仕方ないが、途中、崩土のため迂回を余儀なくされたこともあり、今回の訪問ではここにたどり着くまで1時間半を要した。
さて、問題は復路だ。最寄り駅は小和田駅なので、来た道を戻るのが最も早い。仮に大嵐駅まで車道を歩いた場合、4時間はかかる。小和田駅から大嵐駅まで電車に乗れば4分で着くが、歩くと5時間以上かかってしまうわけだ。「これぞまさに秘境駅だ!」と感心している場合ではない。帰らなければならない。
帰路につく頃にはすっかり夜になっていたが、私はますます小和田駅のことが気になってしまっていた。
なぜ民家が全くないような“秘境”にわざわざ駅を造ったのだろうか。
民家が全くないような地域に駅がつくられたワケ
歴史を紐解くと、駅が開業した当時は、秘境ではなかったということがわかった。
天竜川流域のこの地域では、かつて最も主要な交通手段は水運だった。伐り出された材木を筏にして天竜川に流し、物資や人も船で移動していたのだ。小和田付近には筏だまりがあり、中継地点になっていた。つまり、小和田は水運の要衝ともいえる場所だったと言える。
小和田駅が開業した当時、駅は北側からの終着駅で、南側の豊橋方面へは線路が敷かれていなかった。線路が繋がっていない大嵐駅(大嵐駅は小和田駅の一つ南方に位置する駅)までの間は船舶で連絡していたことからも、水運が重要な交通経路だったことがうかがい知れる。
飯田線が全通した昭和12年、天竜川流域に大きな変化がもたらされる。天竜川の流れによって支えられてきた人や物の動きは、早くて快適な鉄道へとシフトしていった。
決定的に流れが変わったのは、昭和31年に日本屈指の規模を誇る佐久間ダムが竣工したことだ。筏や船はダムを越えられないため、水運は完全に断たれた。もちろん人・物の動きは一変した。
また、佐久間ダム竣工によって、上流域の水面は大幅に上昇し、一帯はダム湖となった。現在、小和田駅のすぐそばを流れる天竜川は、実は佐久間ダムのダム湖だった。かつて小和田に存在した集落は、移転した建物以外は全て湖底に沈んでしまったのだ。
複数の家屋が建ち並び、水運の要衝として栄えていた小和田。
冒頭で紹介した製茶工場には遠くの産地からも茶葉が持ち込まれていたという。それがダムによって水運が断たれ、集落とそれに付随する道路、対岸を結んでいた橋も全て水没した。そして、駅だけが残った結果、小和田駅は秘境駅と呼ばれるようになった。
現在、小和田駅の対岸には県道1号、通称・佐久間街道が通っている。天竜川を渡る橋さえあれば、小和田駅は秘境駅と呼ばれていなかったかもしれない。
写真=鹿取茂雄
〈秘境駅の“ナゾ”に迫る〉車道が通じていない“小和田駅”に遺されたオート三輪「ミゼット」…いったい誰が何の目的で持ち込んだ? へ続く
鹿取 茂雄
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