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新・鉄道綜合スレ
3633
:
とはずがたり
:2021/09/19(日) 16:51:41
家の前が線路、住民たちの「勝手踏切」が招く危険
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/toyokeizai/20210713-SYT8T2201160/
2021/07/13 06:00
東洋経済オンライン
江ノ島電鉄で4月26日午前7時50分ごろ、自宅のゴミを集積場へ持っていくお手伝いをしていた小学生の女の子が、電車にはねられ意識不明の重体となる痛ましい事故が起きた。
現場は稲村ヶ崎駅―極楽寺駅間で、「勝手踏切」と呼ばれる軌道敷を渡って、集積場へ向かった帰りだった。多くのマスコミに取り上げられたので、ご記憶の方も多いだろう。
小学生の女の子が線路に立ち入って起きた事故であり、通常であれば過失は女の子にあると思われる。しかし江ノ電には、踏切なのかそうでないのか区別がつかない場所が非常に多く存在する。
禁じられた線路立ち入りが常態化
現在、日本の鉄道では高架化や地下化などによって、踏切(正式には踏切道)が減少している。それでも都内には約1200カ所(東京都調べ)の踏切があり、日本全国では約3万3000カ所(交通安全白書)もの踏切がある。
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これら踏切は法令により種類が決められており、警報機と遮断機を有する第1種、掛員が手動で遮断機を操作する第2種、遮断機はなく警報機だけが建植されている第3種、そして警報機も遮断機もない第4種というすみ分けである。このうち一部工場などの専用踏切を除き、第2種は現在の日本には存在しないと言われている。
法規のうえでは以上の4種類に分類されているが、このほかにもう1つ公式ではない踏切も存在する。それが、今回の事故の原因となった勝手踏切と称するものだ。
運輸省(現・国土交通省)の古い資料などには「作場道(さくばみち)」と記されているものだが、要は赤道(あかみち)と呼ばれる古くから道路として利用されてきたが現在は道路法上の道路ではない道路や畦道のような正式な道ではない道路と、線路が交差するところの部分を示す名称である。乱暴な言い方ながら、一般公衆による線路内立ち入り(交差)が、常態化している部分の総称である。
当然ながらこれらには警報機も遮断機もなければ、踏板さえもない。つまり警報音がしないうえに通行を遮るものもなく、足元は敷石によってガレ場のように足が取られる大変危険な場所だ。当然、人身事故も多く発生している。それが、勝手踏切の姿である。
踏切ではない鉄道の軌道敷のため、立ち入ってはいけない場所だ。だが、そこには鉄道側・歩行者側それぞれの立場の主張があり、いわゆる黙認と自己責任のうえで存在している非常にグレーな場所なのである。国土交通省によればこの勝手踏切は、全国で約1万7000カ所も存在する(2021年1月時点)が、小さなものを含めれば、もっと多いのかも知れない。
江ノ電の踏切は、2018年度鉄道統計年報「踏切道数及び軌道重量別軌道延長表」によると、踏切道第1種甲種自動箇所が50カ所の合計50カ所とあるので、公式には警報機と遮断機を有する第1種踏切しか存在しない。一方で、江ノ電の担当者によれば、勝手踏切が89カ所ある。この勝手踏切についてはもちろん正規の踏切としてはカウントされていない。
江ノ電の沿線には、線路を渡らなければ自宅から出る事さえできない住居が多く存在する。それではなぜ、線路を渡らなければならない構造になってしまったのだろうか。その答えは、歴史と時代背景が関係する。
「家の前が線路」という例も
江ノ電は1902年に東海道本線の藤沢から片瀬(現江ノ島駅)まで敷設され、その後8年を経て1910年に小町(現鎌倉駅)まで敷設された軌道である。
軌道とは平たく言えば、路面電車である。現在の江ノ電は鉄道事業者だが、当時は路面電車だった。藤沢方面では江の島に送客していた人力車の車夫から、敷設に対して猛反対され、株主や敷設に協力的な富裕層の庭先に、線路を通し開通させた。
また鎌倉は三方を山で囲まれた小さな街ではあるが、幕府もあった由緒正しき場所で、当時より多くの人口と多くの家屋があったようだ。そのようなところでは既存の道路を併用軌道として、道路に線路を敷いた箇所も多く存在したようである。
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