したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

新・鉄道綜合スレ

2885名無しさん:2019/11/22(金) 09:41:31
■京成が強い関心示した理由

 こうして計画は行き詰まり、筑波高速は会社の売却を考える。そもそも、筑波高速は鉄道を建設するつもりなどなく、国から得た鉄道建設の「権利」を別の鉄道会社に売りつけるのが目的だったという説もある。実際、会社のメンバーには「投機筋と言われる人達」(白土貞夫「双峰を目指した幻の筑波高速度電気鉄道」『鉄道ピクトリアル』2006年1月号、電気車研究会)が多かったという。

 1929年、筑波高速は東武鉄道に身売り話を持ち込むが、東武はこの話に乗ってこなかった。続いて京成電気軌道(現在の京成電鉄)に接触すると、京成は強い関心を示し、すぐに交渉が始まった。

 京成が筑波高速に強い関心を寄せたのは、当時の京成が置かれていた状況に大きな理由がある。

 京成は今から110年前、明治末期の1909年6月に創立。現在の千葉県成田市内にある成田山新勝寺の参拝客輸送などを目指し、大正期の1912年より押上駅(現在の東京都墨田区)から千葉、成田方面へ線路を徐々に延ばしていた。

 ただ、東京側のターミナルである当時の押上駅は東京都心から外れていて、誘客の面で難があった。そこで京成は1923年以降、東北・上越方面の国鉄ターミナル駅がある上野や、押上の近くにある繁華街の浅草への乗り入れを目指し、昭和初期の1927年10月までに6回、押上―上野間や押上―浅草間の鉄道建設を申請している。

 このほか、1928年4月には向島駅(現在の京成押上線・京成曳舟―八広間にあった駅)と白鬚駅(白鬚橋の東側)を結ぶ京成白鬚線が開業しているが、これも将来的には王子電気軌道(現在の都電荒川線)と接続させ、都心に入り込む計画だった。

■読売社長も逮捕の疑獄事件に発展

 京成の申請は認められなかった。東京市が私鉄の都心乗り入れに反対していたためだ。その一方、京成の押上駅に隣接して旧・浅草駅(のちの業平橋駅、現在のとうきょうスカイツリー駅)を設けていた東武鉄道も浅草中心部への乗り入れを申請し、1924年12月に許可されている。「加藤高明内閣と東京市長の支持基盤でもあった憲政会との人脈」(森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』JTB、2001年8月)が背景にあったようだが、京成は東武に先を越された。

 焦った京成は1927年10月の申請(押上―浅草間)に際し、少なくとも10万円をつぎ込み、東京市会の議員などに対して「政界工作」を行った。これが1928年9月に発覚し、当時の京成社長だった本多貞次郎や専務の後藤国彦、読売新聞社の社長で京成の総務部長も務めていた正力松太郎らが逮捕される事態に発展してしまった。

 こうした状況の中で、都心乗り入れの「権利」を持っている筑波高速が接触してきたのだから、強い関心を示さないはずがない。両社は1930年に合併し、京成は上野―筑波山間の鉄道を建設する「権利」を手に入れた。

 京成は上野から約5kmほど先まで筑波高速の計画ルートで建設し、隅田川の東側(現在の町屋―千住大橋間)から京成線の青砥駅に接続する連絡線を整備することにした。この連絡線も、筑波高速が計画した梅島―松戸間の支線のルートを変更する形で建設手続きを行っている。

 こうして1931年12月、日暮里―青砥間が開業。1933年12月には上野公園(現在の京成上野)―日暮里間も開業し、京成はついに都心への乗り入れを実現した。

 残るは筑波方面と支線の青砥―松戸間だが、京成は日暮里―青砥間が開業する直前に筑波方面の計画中止手続きを行い、のちに青砥―松戸間の計画も中止した。地磁気観測所の問題が解消できなかったこともあったろうが、京成にとっては都心に乗り入れできればそれでよく、筑波への進出に強い興味はなかったのだろう。京成白鬚線も別ルートでの都心乗り入れが実現したためか、開業からわずか8年後に廃止された。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板