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新・鉄道綜合スレ

2689荷主研究者:2019/07/28(日) 10:46:32

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/318751?rct=n_hokkaido
2019年06/25 17:00 北海道新聞
<29>北と南のターミナル 樺太へ函館と稚内直結

名寄から4時間16分かけて走ってきた普通列車が稚内に到着。右の柱には「函館駅より703・3キロ」の距離が表示されている=2019年2月11日

稚内駅は2011年4月に新駅が開業。ホームに線路が1本だけだが、日本最北の鉄道駅をアピールするサインが目立つ。札幌行き特急サロベツ(当時の車両編成)が発車を待っていた=2012年4月22日

高度経済成長期に函館と稚内を直結していた気動車急行宗谷。赤とクリームの塗色が懐かしい。繁忙期は10両以上の長い編成だった=1970年8月、函館線黒松内駅付近

 「日本最北端の駅、終点稚内駅到着です」。宗谷線稚内駅に列車が到着すると、澄んだ女性の声でこんな放送が入る。「北国の旅情豊かな案内放送」として全国的に有名だ。

 ホームの壁には各地との距離を示す表示がある。「函館駅より703・3キロ」「東京駅より1574・5キロ」、さらに「(JR九州最南端の)西大山駅より3095キロ」離れていると説明。降り立った観光客は、一斉にカメラに収めようとする。

 2月11日、名寄から早朝の普通列車で稚内を目指した。晴れ上がり、いてつく雪原がまぶしく光る中、気動車は北へ、北へと進んで行く。音威子府(上川管内)を過ぎると“秘境駅”が続き、国鉄時代の貨車(車掌車)や物置を改造した小さな駅舎が目立つ。1日に止まる列車は片道3本程度だ。

 旭川と稚内を結ぶ宗谷線は戦前、道内有数の重要路線だった。日露戦争(1904〜05年)に勝利した日本は樺太(現サハリン)南部を領土とし、軍備を増強するとともに石炭、木材などの豊富な資源を求めて豊原(現ユジノサハリンスク)を中心に産業を発展させた。

 このため、函館と稚内の間に直通の急行列車も設定された。1934年(昭和9年)の時刻表を見ると、急行は函館発午後1時20分で和洋食堂車や寝台車を連結。長万部で小樽経由札幌行きと分離して東室蘭へ。さらに苫小牧、岩見沢、旭川を夜通し走り、翌午前6時、稚内に到着した。札幌には目もくれず、一目散に函館から稚内に駆け抜ける列車だった。

 樺太に渡る客はさらに稚泊(ちはく)航路(8時間)の船に乗り、大泊(現コルサコフ)で下船後、夕方の列車に乗れば1時間ほどで豊原に着いた。函館までは東京・上野からの列車が青函航路で接続しており、上野から豊原まで通して乗ると、2泊3日、47時間の旅だった。

 稚内への車窓風景は、戦前も現在もそう変わらないだろう。どこまでも続くサロベツ原野。そして稚内の手前、突然左手眼下に真っ青な日本海が出現する瞬間は感動的だ。今回、雪をかぶった利尻山を望むこともできた。じっくり見てもらおうと、列車は1分以上、徐行運転してくれた。

 61年から81年まで、函館と稚内の間には、約11時間かけて直結する気動車急行宗谷が走っていた。稚内駅付近には稚泊航路の乗り場だった半アーチ式のドームが往時の姿を残している。函館と稚内。街の規模は違うが、鉄道と連絡船の黄金時代をしのばせる“似た街同士”に思えてならない。

 ◇

 次回は、4月オープンの胆振管内安平町の道の駅「あびらD51(デゴイチ)ステーション」の話題です。このほど、D51形320号と特急気動車キハ183―214が移設、展示されました。どちらも現役時代は道南で活躍した車両で、町おこしのシンボルとなっています。


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