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新・鉄道綜合スレ

2224とはずがたり:2018/08/19(日) 19:35:07
>>2223
 戦後も引き続き国鉄が運営しましたが、1960年代に沿線の炭鉱が閉鎖されると、勝田線の貨物輸送量は大幅に減りました。石炭輸送がおもな目的の路線だったため旅客列車の本数も少なく、1964(昭和39)年10月の時点では1日11往復(休日10往復)しか運転されていませんでした。

 一方、勝田線の沿線は炭鉱が閉鎖されたころから福岡の郊外住宅地として開発が進み、志免町や宇美町の人口も1970年代の後半ごろから急激に増え始めます。この段階で旅客列車を大幅に増やして1時間に数本程度の頻発運転を行い、貨物輸送から通勤通学輸送を中心とした旅客路線への「業態転換」を図っていれば、利用者はかなり増えていたかもしれません。

 ところが、国鉄は旅客列車を増やすどころかさらに減らし、1982(昭和57)年11月時点では1日7往復(土曜、休日6往復)になってしまいました。このように不便なダイヤだったため、沿線人口が増えても利用者が増えることはありませんでした。


列車を増やせなかった国鉄の「事情」
 また、国は1980(昭和55)年に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)を公布。利用者が少ないローカル線は国鉄の経営から切り離すことになり、原則として1977(昭和52)〜1979(昭和54)年度の輸送密度が4000人未満の路線は廃止にすることが定められました。

 こうして勝田線も利用者が少ないローカル線として国鉄再建法の適用対象となり、1985(昭和60)年に廃止。貨物から旅客への転換を図りきることができず、西鉄が運行する路線バスに転換されたのです。

 国鉄はなぜ、勝田線を本格的な旅客線に転換しなかったのでしょうか。その最大の理由は「台所事情」にあったといえます。国鉄は1964(昭和39)年度から赤字経営になり、経営が深刻化していきました。旅客列車の頻発運転を行うための施設改修費や車両製造費を調達することができず、実質的には「放置」するしかありませんでした。

 また、勝田線が廃止される前から西鉄の路線バスが頻発運転されていて、沿線住民もあまり不便には思っていなかったようです。こうしたことも、勝田線が廃止になった背景のひとつといえます。

 勝田線の跡地は現在、遊歩道などが整備されていて、地元住民の憩いの場となっています。一方、跡地に並行する県道では、JR博多駅に直通するバスが頻繁に運行されています。もし勝田線が「業態転換」に成功していたら、いまごろはJR九州の独特なデザインの列車が頻発運転されていたかもしれません。

※誤字を修正しました(8月19日14時48分)

草町義和(鉄道ライター)


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