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新・鉄道綜合スレ

2175とはずがたり:2018/07/21(土) 22:00:42
>>2174
沿線自治体に市街化調整区域指定を外さないと廃止するぞと迫れば良いのに。
内海も観光に不便だし廃止するぞと通告してもう一遍海側に造り直せば?!

https://ja.wikipedia.org/wiki/名鉄知多新線

知多半島の海岸線は古来より風光明媚な地として知られており、半島南部(南知多)へ鉄路を伸ばす試みが戦前より企図されていた[2]。1912年8月に常滑駅 - 内海間の免許を取得した愛知電気鉄道の「内海線」計画、これに刺激された地元資本が設立した知多軽便鉄道(武豊 - 常滑、武豊 - 師崎間。1913年5月免許取得)、そして鉄道省が武豊線の延伸として測量まで行った師崎延伸計画[注釈 1]の3案である[3]。しかし、南知多は鉄道敷設に見合うほど人口密度が高くなく、産業も乏しかったため[2]、昭和不況や戦況悪化の影響もあっていずれの案も実現せずに終わっている[3]。

戦後になると、半島北部は名古屋港や衣浦港を軸とする工業化・宅地化が進行し、景観に優れた海岸線は失われていった[2]。他方、南知多には従来の自然環境が残されており、都市近郊の観光地として注目を集め、1958年には三河湾国定公園の一部に指定された[2]。名鉄も昭和30年代から南知多の開発に力を注ぎ、河和駅からのバス連絡で観光客を輸送していたが、これを機に南知多への鉄道延伸を改めて企図することにした[4]。

新線のルートはいくつかあった。まずどの駅から延伸するかについて、常滑駅延伸案(常滑ルート)、河和駅延伸案(河和ルート)、河和線途中分岐案(野間ルート)の3案が検討されたが、常滑ルートは南下距離が長いことから却下され、河和ルートより半島中央部の開発が期待できる野間ルートが採択された[5]。次に、半島西部のルートを海岸寄り(海岸ルート)にするか、丘陵部(丘陵ルート)にするかが検討された。海岸ルートは海水浴客などの輸送に向いており、丘陵ルートは宅地造成に適していたが、副社長の竹田弘太郎は宅地造成の将来性を主張し、社長の土川元夫もこれを承諾、丘陵ルートに決定した[4]。

また、河和線からの分岐地点についても変遷があった。当初は知多武豊駅 - 富貴駅間に知多信号所を設けて分岐する予定で1966年9月に免許を申請し、翌年に認可を得ていたが、用地買収が難航していた。これを受けて分岐地点の変更が検討されたが、分岐駅機能を誘致したい富貴地区が用地買収に応じたことで富貴駅分岐に落ち着いた[4]。かくして分岐地点は富貴駅に変更され、1969年10月には第1工区(富貴駅 - 別曽池間)の施工認可が下りた[2]。

内海への延伸に当たり問題となったのが内海駅の位置である。当初案では小野浦トンネルからそのまま南下して知多乗合内海管理所付近に駅を設置し、隣接する旧内海中学校用地(1964年取得)と合わせて総合開発を計画していた[10]。地元は鉄道延伸そのものには賛成していたが、観光客への商売、内陸部の開発といった観点から海岸沿いの駅設置に反対した。最終的には名鉄側が折れて現在地への駅設置に計画が変更され、トンネルが一つ追加された(内海トンネル)[10]。


紆余曲折の末、1980年6月にようやく内海駅まで延伸、知多新線が全通する[8] が、着工からすでに10年が経過しており[5]、この10年間で南知多を巡る情勢は大きく様変わりしていた。まず、沿線の大半が市街化調整区域に指定された[13] ことで宅地造成がほとんど不可能になり、美浜緑苑など僅かな開発に留まった。また、内海駅延伸と同時に開業予定だった小野浦駅(仮称)[14] は付近の開発が遅れたことで建設が中止された(未成駅)[15][注釈 3]。知多新線の需要予測は宅地造成による居住者利用を基に想定されていたため、実際の利用者数は予測を大きく下回った[13][注釈 4]。

[注釈 1] 鉄道省の計画は武豊―坂井―上野間―奥田―野間―細目谷―小野浦―浜田―東端―師崎という経路を辿っており、これは知多新線の当初ルートに酷似していた[3]。


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