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新・鉄道綜合スレ

1508チバQ:2017/06/26(月) 19:54:38
http://toyokeizai.net/articles/-/174108
日光・鬼怒川から会津へ「東武特急」の進化
DRC、スペーシア、そして「リバティ」へ
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南 正時 :鉄道写真家 2017年06月11日
この春から運行を開始した東武鉄道の新型特急「リバティ」は、日光・鬼怒川方面の観光はもとより、北関東地区、南会津までをテリトリーとした新しい特急として注目されている。

ここで、歴史ある東武特急の歴史の経緯を振り返ってみることにしよう。

東武の特急の歴史は古く、1929年(昭和4年)に、 日光線全線開業により週末限定ながら特急の運行を開始。戦後になって「華厳」「鬼怒」と命名されて運行されるようになった。これはGHQ(連合国軍総司令部)専用の特別仕様車を使用してのもので、これが現在に続く東武特急の始まりと言えよう。

国鉄との乗客争奪戦で進化


特急から引退したのちも長らく急行や快速で活躍した5700系(筆者撮影)
戦後になって観光地へアクセスする行楽列車が運転されるようになると、一般向け特急電車にはロマンスシート(2人掛けのシートをこう呼んだ)を装備した5700系が1951年に登場して、浅草―東武日光間特急「けごん」・浅草―鬼怒川温泉間特急「きぬ」として運用された。

この頃は国鉄(現JR)が東武と並行する日光線に上野-日光間で観光用快速「にっこう」の運行を開始するなど、東武と国鉄の乗客獲得競争が本格的に始まった時代でもあった。この時代、日光への観光客輸送は7:3で国鉄が大半を占めていたという。これ以降、東武と国鉄の間で激しい観光客争奪戦が繰り広げられることになり、同時に歴史に名を残す名車も誕生することになる。

1958年に、それまで非電化だった国鉄日光線が電化されると、国鉄は翌年には準急用でありながら特急並みの仕様を誇る157系電車による準急「日光」の運転を開始、東京―日光間を約2時間で結んだ。


デラックスロマンスカーと呼ばれた名車、1720系(筆者撮影)
この157系に対抗すべく、東武が登場させたのが1960年に運転開始した1720系「東武デラックスロマンスカー」(DRC)だった。この電車は当時の花形列車だった国鉄特急「こだま」などのボンネットと同様、前後がぐっと突き出たボンネットタイプの流線形を採用。前照灯は縦2個並びで当時の「日産セドリック」に似たスタイルは話題になったものだ。

車内設備も急増する外国人観光客に対応するため、ビュッフェ、サロン室、マジックドアと呼ばれた我が国初の自動開閉式貫通扉などが設けられた。筆者は1964年、18歳のときに初乗車したが、車内に流れる英語のアナウンスに感激したことを覚えている。

車内にはジュークボックスも


サロン室のインテリア。右奥にあるのがジュークボックス(筆者撮影)
昭和50年代には浅草発午前8時台のDRCは外国人観光客で占められていて、さながら国際列車の雰囲気を呈していた。

サロン室には当時大流行のジュークボックス(レコード自動演奏機)が設置されており、アメリカ人観光客がツイストやゴーゴーに興じていたのも懐かしい思い出である。

さて、ここで筆者が不思議に思ったこと……それはジュークボックスの「針飛び」は? ということ。当時使われていたのはアナログレコードであり、レコードを再生するための針は微妙なショックにも「針飛び」を起こすものである。走行中に揺れる車内で、はたして針飛びの対策は? と後日、東武の関係者に聞くと「特殊な装置を施したそうですよ」と疑問の解消には至らない回答だった。


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