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新・鉄道綜合スレ

1078とはずがたり:2016/12/04(日) 19:48:14
樺太連絡の重要な駅だったか。

留萌築港着工・留萌本線留萌迄開通…1910年
増毛開通…1921年
宗谷本線稚内迄全通…1922年
留萌開港…1929年

輸送密度は2014年の留萌〜増毛で39人。輸送密度は年間輸送人キロ/営業キロ/日みたいだから営業キロが16.7 kmだとすると,39*16.7で一日651人キロ,利用者が居た事になる。
上下13本走ってるので651/13で1列車辺り50人キロ。
まあ全員留萌〜増毛を乗ったと仮定して16.7で割ると2.9986...だからほぼ1列車辺り3人平均で留萌から増毛迄乗ってたって感じの様だ。

増毛駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E6%AF%9B%E9%A7%85

歴史[編集]

1977年の増毛駅と周囲約500m範囲。下が留萌方面。駅舎より南側に単式ホームを有し、本線は北側の貨物ホームへ引き込み線を分岐して、その外側へ折り返し線となって伸びる。南側の山手側には車庫と放置された転車台の窪みが見える。駅裏は数本の留置線を挟んで北側に並ぶ倉庫裏へ荒荷積み降ろし場、南側に石炭の荷下ろし場が設けられている。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

1905年、日露戦争に勝利した大日本帝国は、ポーツマス条約締結の結果として「樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する」ことになった。樺太の実効統治による領土画定と国力増大を急いでいた大日本帝国は、ロシア帝国によるシベリア鉄道の全線開通よりも先に、樺太北海道間の海運と鉄道の連続輸送力を早急に高める必要に迫られていた。すでに宗谷本線は1890年代に整備計画が決定されていたが、高地や原野を開墾開拓しながらの内陸鉄道建設は困難を極め、開通の遅延が予想されていた。(稚内まで全通したのは1922年) そこで大日本帝国は、鉄道建設の速度が早い留萌本線を先に作り、留萌樺太間輸送計画を優先して完成させることになった。留萌港の修築は1910年に着工したが、留萌は波が荒く土木技術上の問題から整備に時間を要し、鉄道が開通しても港が完成しない事態が予想されていた。(開港は1929年) そこで港を早く使える増毛まで留萌本線を延長することになった。こうして開業した増毛駅は、北海道樺太間輸送における鉄道港湾連続輸送の重要拠点となり、大日本帝国の国策に貢献することになった。[2]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%99%E8%90%8C%E6%9C%AC%E7%B7%9A
留萌本線
2014年(平成26年)度の留萌駅 - 増毛駅間の営業係数は4,554(管理費を除くと4,161)であり[報道 7][新聞 6]、これはかつて「日本一の赤字線」と呼ばれた美幸線の1974年(昭和49年)度の営業係数(3,859)をも凌ぐ数字である[新聞 7]。


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