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ロシア・韃靼・ユーラシアスレ

1666とはずがたり:2022/03/14(月) 15:43:00

2014〜15年のドネツク・ルガンスク両人民共和国の成立過程でウクライナ軍は結構やられてるけど,この7年雌伏して来たんだな。侵掠したが故に守らざる得ない訳だけど,防衛側のロシアも警戒する訳か。

デバルツェボの戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%9C%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

2015年1月に数千人のウクライナ軍がデバルツェボに駐留していた[43]。都市は重要な鉄道と道路のジャンクションであり、DPRとLPRの領域に挟まれるウクライナ領土の「くさび」または「ポケット」(孤立地帯)である。この時までに大半の住民は都市を離れており、店は閉店し、学校は放棄され、家屋は損傷していた[43]。断続的な都市への砲撃は2015年1月に過激化する数カ月前から常態化していた。

2015年1月14日から2月20日までの間、ドネツク人民共和国 (DPR)の分離主義勢力がドネツィク州のデバルツェボ市の再奪回を試みた戦いである。2015年2月18日にウクライナ軍が撤退し、分離主義勢力が勝利した。

イロヴァイスクの戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

、2014年8月7日、ウクライナ軍と親ウクライナ準軍事組織が、親ロシア派に占領されているイロヴァイスク市(英語版)の奪回を試みた戦闘である。親ロシア派はドネツク人民共和国(DPR)およびロシア連邦軍と連携していた[24][25]。ウクライナ軍は2014年8月18日に市内に進入したが[26]、越境したロシア連邦軍の参戦によって8月24日から26日に包囲された[27][28]。包囲から数日後、プーチン大統領の同意の元、ウクライナ軍は親ロシア派と合意し、撤退が許されたが[29]、結局、この合意は守られず、脱出中に多数のウクライナ軍兵士が死亡した[30][31]。

8月18日-19日夜、ウクライナ軍はドンバス大隊に率いられて、夜間攻撃を行った[26][35][36]。この夜間攻撃は成功し、ウクライナ軍は死傷者を出すことなく、ウクライナ国旗を市役所に掲げることができた。ウクライナのメディアは、この勝利を反政府勢力に対する政府の「対テロ作戦」(ATO)の強さと有効性の一例と見なした[26]。ウクライナ軍がイロヴァイスク市内に入った際、ドンバス大隊長のセンメン・センメンセンコが迫撃砲弾により負傷し[37]、治療のために後送された。市役所への国旗掲揚に続き、ウクライナ内務省は、ドンバス大隊、ドニプロ-1、アゾフ大隊を含むウクライナ軍が「テロリスト」を掃討し、特にドンバス分離主義勢力のオロット大隊所属の「多数の」反乱者を殺害したと述べた[36] 。


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