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ロシア・韃靼・ユーラシアスレ
1453
:
チバQ
:2021/06/13(日) 23:16:37
https://news.yahoo.co.jp/articles/8b00f9ebec27ef6a143987dc09d2d1a05df613dc
民間機を強制着陸させたベラルーシ 信を失った独裁政権の行く末は
6/13(日) 14:34配信
11
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毎日新聞
2010年の大統領選で4選された直後のルカシェンコ大統領。抗議活動を力ずくで抑え込んできたこともあり、多くの国民から反発を招いている=ベラルーシの首都ミンスクで2010年12月、大前仁撮影
アテネ発の民間機をベラルーシ当局が5月23日に自国の空港に強制着陸させた問題は、国際社会から多くの批判を招いている。私は合計7年間のモスクワ特派員時代に3度にわたりベラルーシを訪れた。その時の体験を中心にして、私が見たベラルーシという国やルカシェンコ政権を紹介し、その行く末を考えたい。
私が初めてベラルーシを訪れたのは約10年前の2010年12月。ルカシェンコ大統領が当然のように4選を果たした大統領選を取材するためだった。それまで「欧州最後の独裁国家」と呼ばれていたこの国に対し、いい印象を持っていなかった。1994年から統治しているルカシェンコ大統領の独裁ぶりばかりが伝わってくるからだ。さぞかし怖い国なのだろうと思っていた。
◇整然としていた首都
ところがベラルーシの首都ミンスクを訪れると、別の印象を抱くようになった。街中にはほとんどゴミが落ちていないし、タクシー会社に電話をかければ、すぐに配車してくれる。私が拙いロシア語で物事を尋ねると、親切に教えてくれる人が少なくない。ミンスクの中心部にはBMWなども販売店を構えており、表層だけなぞれば、他の欧州の国と変わらない「普通の国」に見えなくもなかった。
なぜ、この程度の出来事に好印象を抱いたのかといえば、当時のモスクワでは普通にタクシーに乗ることが一苦労だったからだ。タクシー会社に電話をしても、オペレーターから「あなたのロシア語は分からない」と電話を切られてしまうこともあった。遠回りをして料金を上乗せするタクシー運転手も珍しくない。だから街中を車で走る市民に料金の交渉をしたうえで、タクシー代わりに乗せてもらうことが多かった。また当時のモスクワの街並みはお世辞にもきれいとはいえなかった。
対象的にミンスクでは普通にタクシーに乗れるし、街中はきれいだし、行き交う人たちは親切だった。このときはベラルーシの地方まで赴いた。大統領選について取材すると「ルカシェンコを支持しない」と答える人もいた。欧米からは「欧州最後の独裁国」のレッテルを貼られていたが、率直に意見を述べる市民も少なくない。
「ソ連の色彩が残された最後の国」。ある日本人外交官はベラルーシをそう表現していた。市場経済の競争にさらされておらず、石油の精製業や機械生産業が主要産業として残り、多くの国民が国営工場で働いていた。独裁を敷きながらも、ルカシェンコ氏は一定の支持を得る狙いで生活必需品の価格を抑えて、国民を食べさせようとしてきたのだ。
◇監視が徹底した警察国家
一方で、ベラルーシはソ連から負の遺産も引き継いでいた。それは政権の維持のためならば、平気で市民生活を抑圧する警察国家の顔である。先に「ミンスクではすぐにタクシーが配車される」と記したが、これが何を意味するのか、お分かりだろうか。タクシー会社が常に私とロシア人の助手の居場所を把握していたから、配車がスムーズだったのだ。我々が野党関係者を取材した後、助手がタクシー会社に電話をかけると、オペレーターは我々の行動を批判したうえで「あなたたちには配車しない」と言い放ったこともあった。
こんなエピソードもある。助手が宿泊先のホテルでエレベーターに乗ったときのことだ。乗り合わせた男は助手に話しかけてきて、前日にロシアの知人に助手が送ったメールの内容をそらんじてみせた。「我々はあなた方の行動を逐一分かっているのだ。ある程度の取材は許すけれども、一線を越えた行動は認めないよ」。このような警告を発する意味があったのだろう。
大統領選の投票日の夜には、ミンスク中心部で政権に抗議する集会が開かれていた。私と助手は深夜まで現場を取材していたのだが、締め切り時間が近づいたのでホテルに引き揚げた。その直後だった。警察は集会に参加していた人たちを捕まえただけではなく、その場に居合わせた外国の報道陣も容赦なく拘束した。我々もホテルに戻る時間が遅ければ、拘束されていたのだろう。冷や汗をかくような体験だった。
当時のベラルーシの情勢をまとめると次のようになる。多くの国民がルカシェンコ政権を好んでいないが、最低限の生活が保障されていたことから、一部の反体制派を除いて、消極的に支持する構図が続いていた。ただし政権は、その存続を脅かすような行動には容赦しなかった。ルカシェンコ政権と市民の間は、細い糸で何とかつながっていたと言えよう。
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