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ロシア・韃靼・ユーラシアスレ

1028とはずがたり:2018/07/04(水) 11:06:43

 カリーニングラードもまた同様だ。ソ連時代にはロシア本土とつながっていたカリーニングラードは、現在では「飛び地」となっているが、ロシア共和国の領土である事実には変更はない。

 だが、カリーニングラードは旧名ケーニヒスベルク(Koenigsberg)であり、もともとはドイツ領であった。「ケーニヒスベルク」は「王の山」を意味するドイツ語だ。

 バルト海に面した国際貿易港で、城塞都市のケーニヒスベルクは、第2次世界大戦末期、激しい独ソ戦の最終局面で、ソ連軍がドイツから力尽くで奪い取った土地だ。地政学的に海への出口が限定されているロシアにとって、ほとんどトラウマとなっている「不凍港」を確保するためだった。カリーニングラードという名称は、ソ連最高会議幹部会議長を歴任した革命家カリーニンにちなんでいる。

 この地を含めたバルト海沿岸地域は、ロシアとドイツ、言い換えればスラブとゲルマンの接点となる地域として象徴的な意味合いをもっているのである。

ドイツの「飛び地」がロシアの「飛び地」に
 第1次世界大戦の敗戦の結果、ドイツ領のケーニヒスベルクを中心としたプロイセン州は、ポーランドに割譲された「ポーランド回廊」を挟んでドイツの「飛び地」となった。

 歴史というものは、じつに複雑だ。第1次世界大戦の結果、ドイツの「飛び地」となったケーニヒスベルクは、ソ連崩壊の結果、今度はカリーニングラードとしてロシアの「飛び地」となったのである。日本のような島国とは異なり、大陸ではこのような事態はしばしば起こる。歴史をさかのぼって見れば、国境線というものは動くものだということが実感される。

 ヒトラーは「失地回復」にこだわりポーランドに侵攻した結果、それに反対してきた英仏がドイツとの戦争に踏み切る。これが第2次世界大戦のきっかけとなった。英国侵攻を断念したヒトラーは、「独ソ不可侵条約」(1939年)を一方的に破棄し、東方のソ連との戦いに突入する。最終的にケーニヒスベルクはソ連によって奪取され、ソ連崩壊後の現在もカリーニングラードに至っているというわけだ。(参考:コラム「世界を救った“歴史家”チャーチルの言葉の力」)

 だからこそ、西欧諸国は、今度はロシアがバルト三国に侵攻して「失地回復」を図るのではないかと戦々恐々としているのである。こうした状況のなか、北欧のスウェーデンは徴兵制を復活し、隣接する大国ロシアに配慮してNATOには加盟していないフィンランドもNATOとの関係強化を進めている。(参考:コラム「サンタとムーミンの国に学ぶ「小国」の生き残り術」)

 バルト三国のエストニアの「電子政府」構想は日本でもよく知られるようになってきたが、その最終目的は、たとえ地上の領土を失ってもサイバー空間で政府を存続させ続けることにある。安全保障に関する危機感と真剣さの度合いが、島国の日本とはまったく異なるのである。

ケーニヒスベルクは「ドイツ東方植民運動」の産物
 さらに歴史をさかのぼってみよう。

 バルト海沿岸地域は、もともとドイツ人が居住していた地域ではなかった。

 バルト海沿岸地域は、バルト・フィン語族などの先住民が居住する地域であり、ヨーロッパではキリスト教の普及が最も遅れていた地域の1つである。そこにカトリック布教を先頭にして入植目的で入ってきたのが、12世紀から14世紀にかけての「ドイツ騎士団」(=騎士修道会)であった。この動きを総称して「東方植民運動」という。

 その後、16世紀前半には、騎士団国家から世俗国家に移行し、プロイセン王国が誕生することになる。プロイセン王国は、1872年の「ドイツ統一」に際して中核となったが、そのプロイセン王国にとって、最も重要な土地がケーニヒスベルクであった。東プロイセンの首都として、歴代のプロイセン王が戴冠式を行った土地なのである。


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