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神戸・兵庫・摂播
39
:
とはずがたり
:2013/05/28(火) 13:51:36
>16年の全線電化にもかかわらず乗客数は横ばい状態が続く。
粟生線と違って踏みこたえているようである・・。
阪神大震災で無傷、大阪へ人々運んだ「加古川線」の“存在感”
2013年5月26日(日)22:02
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20130526569.html
(産経新聞)
兵庫県の加古川市と丹波市を南北に結ぶJR加古川線(加古川−谷川)が4月に開業100周年を迎えた。トラック輸送が普及する以前は北播磨地域の特産品を大消費地に輸送する物流の要として、現在は北播磨の通勤・通学客を大動脈の山陽線に運ぶ地域公共交通機関としての役割を担う。平成7年の阪神大震災で東西を結ぶ鉄道網が寸断された際には大阪方面への迂回(うかい)ルートとして利用された。この活躍でライフラインの一翼としての重要性が見直され、16年には全線が電化された。100年の重みを乗せ、加古川線の電車は今日も走り続ける。(前田雅紀)
■阪神大震災で活躍
平成7年1月に発生した阪神大震災。兵庫県西部の播州地域は直接的な被害は免れたものの、大阪・神戸方面へ向かうJR山陽線など東西の鉄道網が寸断されたこともあり、通勤・通学客らは迂回しようと加古川線に殺到。加古川駅から48・5キロ離れた谷川駅まで約1時間列車に揺られ、谷川駅で福知山線に乗り換え、尼崎や大阪へ向かった。
大阪まで約3時間と通常の3倍の時間を要したが、それでも多くの人が加古川線が無傷だったことのありがたみを実感した。当時を知る同県小野市立好古館の石野茂三館長(62)は「駅に着くと車内の奥にいた乗客が出るため、ドア付近の乗客がいったん降りるなど、後にも先にもあれほどの混雑はなかった」と振り返る。
加古川線の列車が超満員になるという予想外の事態に、JR西日本も急遽(きゅうきょ)、車両編成を2両から3両に増やしたり、臨時ダイヤを組んで増発したりするなど輸送力を強化。本来の車両だけでは間に合わず、金沢支社管内などから車両を動員し、見慣れないカラーの列車が行き交った。途中の西脇市駅での乗り継ぎだったが、谷川駅まで直通運行にし、迂回通勤・通学の時間短縮にも努めた。
このときの活躍から、沿線自治体で加古川線の重要性への認識が高まった。加古川線が単線のローカル線ながら、廃線や第三セクター化を免れているのもそのためだ。JR西も「ネットワーク機能を重視している」と意義を認める。
■捕虜輸送にも活躍
加古川線は大正、昭和、平成という3つの時代の播州地域の歴史を見守ってきた。大きな出来事の一つに、第一次世界大戦で旧日本軍の捕虜となったドイツ、オーストリア・ハンガリー兵ら約500人が、現在の加西市青野原町にあった「青野原俘虜(ふりょ)収容所」に加古川線(当時は播州鉄道)を使って移送されたことが挙げられる。
同収容所が大正4(1915)年9月に開設されると、それまで姫路市内の収容所にいた捕虜たちが移されることになった。加古川線で小野市の大門口駅(現在の青野ケ原駅)に到着した捕虜たちは収容所までの数キロを列をなして歩いた。当時、地元民にとって外国人は珍しかったらしく、大勢の見物人が沿道にあふれ大騒動になったと伝えられる。
同収容所には俘虜収容所につきまとう暗いイメージはなく、捕虜たちは収容所の外に出る遠足や日本人とのサッカー大会、旧制中学校での柔道の見学で地元住民と交流するなどオープンな雰囲気を満喫していた。
同9年1月に収容所が閉鎖され、捕虜たちが神戸港から帰国する際も加古川線が利用されたという。列車での移動や収容所生活を通して捕虜たちの目に焼き付いた日本は、播州地域の光景だったのだろう。
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