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神戸・兵庫・摂播

104とはずがたり:2014/01/22(水) 15:50:54
そういう事だったのか。
>その御着は古くから開け、地名の起源は神功皇后の時代にまで遡る。『播磨鑑』によると、そのころの海岸線は今の妻鹿と八家の間を少し北に入った見野の辺りにあって、その入り江に皇后の舟が接岸していた。

11 天川の流れ
御着城跡
http://www.aurora.dti.ne.jp/~atorasu/p05/essey211.html

 御着が、揺れ動く歴史の舞台になろうとしていた。
 歴史の舞台という表現が適切でないなら、熱い眼差しで見詰められていた。

 その御着は古くから開け、地名の起源は神功皇后の時代にまで遡る。『播磨鑑』によると、そのころの海岸線は今の妻鹿と八家の間を少し北に入った見野の辺りにあって、その入り江に皇后の舟が接岸していた。
 そこを御着というようになった、と。

 そもそも小寺が播磨の歴史の表舞台に登場してくるのは、正平4年(1349)、姫山に縄張りをして自ら城を守っていた赤松貞範が、姫路城の北東約10キロにある庄山城を築いて移った。それと同時に、姫路を小寺に任されてからだった。
 小寺は、後醍醐天皇を奉じて一族が挙兵した元弘3年(1333)から、赤松家臣団の先頭で戦ってきていた。
 城主の座は、小寺頼季から景治、景重、職治、豊職、政隆、則職へと受け継がれる。
 その在城記録を見てみよう。
 高齢で城主になった初代、頼季。若くして戦場の露と消えた2代、景治。3代影重は、わずか14歳で城主となって在城46年。4代職治も、やはり14歳から在城37年。5代豊職、22年。6代政隆、28年。御着に移った7代、則職以外は、いずれもその人生の大半を姫路城で過していた。
 応永の乱(応永6年 1369)、応仁の乱(応仁元年 1467)など、繰り返される戦乱の中で城主の座はしばしば揺らぎ、戦いの中でつかんだ姫路城主の座だった。

 楠一族との山崎男山での戦いが、景治のとき。3代景重は、南朝の九州侵略に端を発した、九州の戦いに遭遇していた。
 4代職治は嘉吉の乱。主家再興をかけた但馬山名との戦いが、5代豊職のときで、三木の別所、山名との庄山攻防戦が6代、政隆。7代則職は、主家内紛の争乱と、小寺の歴代城主は例外なく死の渕を経験していた。

 7代150年。姫路城主小寺の歴史は、戦いの歴史だった。
 とくに将軍謀殺に端を発した嘉吉の乱では、赤松追討軍によって城山城に封じ込められただけではなく、赤松満祐とともに4代職治が壮絶な最期を遂げた。
 小寺も主家・赤松とともに没落し、26年の間、城主の座を山名に奪われる、そんな苦しみを味わうこととなった。
 しかし文明元年(1469)、わずか12歳で家督を継いだ5代豊職が、赤松再興とともに城主の座を奪い返した。
 大永元年(1521)、赤松義村、浦上村宗に謀殺された。
 そんな事件が起きるや6代政隆は、永正16年(1520)赤松家臣団からの独立を決意した。
 ――姫路の城主は、則職(7代)に任せた。
 ひとり御着に城を築いて、移り住んでしまった。


 7代目城主則職のとき、姫路城を預かっていたのは、備前福岡から移ってきた黒田重隆で、その子職隆、そして孝高と、3代にわたり小寺に仕えた。
 黒田は、もとは宇多源氏から出た家系だったが、重隆の父高政のとき将軍の怒りに触れ、近江から備前の福岡村へと逃れ住んでいた。
 重隆が父高政の家督を継いだとき、黒田家に残されていたのは一振りの太刀と一領の甲冑だけだったという。
 そんな貧乏暮らしをするある日、重隆はお告げの夢を見た。
 ――廣峯名神を頼って、播磨へ行け。
 ここから黒田の運命が大きく変わる。
 黒田家に先祖から伝わる目薬を調合し、廣峯の祈祷札を付けて売りに出した。この目薬が、なぜか大衆に受けていた。
 目薬で富を得ることができた重隆・職隆の黒田父子は、お家再興をめざして百姓上がりの手勢200人と徒党を組み、主家小寺の所領を荒らし回っていた香山(現在の新宮町)の豪族、香山重道を討った。
 重道の首と財を、手土産として小寺に献上するのだが、小寺はその功に報いるためか、重隆を客将として迎え入れ、そのうえ献上してきた香山の領地と姫路城を重隆に任していた。
 天文12年(1345)のことで、乱世ゆえの異例の大抜てきだった。


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