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石炭・亜炭・炭砿スレ

1とはずがたり:2012/12/17(月) 23:11:36
日本では既に斜陽産業からほぼ過去の産業へとなった石炭関係のスレ。
新技術の可能性や廃炭砿の懐古迄。

250とはずがたり:2022/03/18(金) 20:55:58
北海道人造石油
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%BA%E9%80%A0%E7%9F%B3%E6%B2%B9

北海道人造石油(ほっかいどうじんぞうせきゆ)は、かつて北海道滝川市に存在した石炭化学メーカー[1]。第二次世界大戦前夜から戦時中にかけて、大日本帝国では自給できない石油を石炭液化により得るための研究と製造を行った。

概要

ドイツから技術移転したガス合成による石炭液化技術(フィッシャー・トロプシュ法)による人工的な石油の製造を目的に、1938年(昭和13年)12月、第二次世界大戦直前の石油需給が逼迫する背景の中で設立された[1]。出資者は、特殊会社である帝国燃料興業が中心となり、三井・三菱・住友の三大財閥(前二社は近隣の石狩炭田に炭鉱を有していた)のほか、北海道炭礦汽船などであった。資本金7,000万円[1]と当時としては破格の財務規模を有していた。これに加え、人造石油製造事業法に基づく多額の補助金がつぎ込まれたため、資金は潤沢であった。

産炭地に近く、石狩川から豊富な工業用水が得られる滝川の原野117ヘクタールに主力となる滝川工場が1939年(昭和14年)5月に着工され[1]、1940年(昭和15年)10月に研究所を開設[2]、1941年(昭和16年)6月にコークス炉に火が入れられた[1]。工場は年間で原料石炭を70万トン消費し生産量は揮発油14万トン・灯油3万トン・ディーゼル油4万トンの計画で[3]、800戸の社宅や劇場・武道館などの厚生施設を含む巨大な施設群に最大で約2000人が働き[2]、「東洋一の化学工場」と呼ばれた[1]。1942年(昭和17年)12月に石油生産に成功[1]、敗戦直後にかけて約1万4000キロリットル(kl)を生産して戦地へも送られた[1]。滝川工場で生産された揮発油は直鎖パラフィンが多くオクタン価53程度でガソリンエンジン用としては低質にとどまった一方、ディーゼル燃料は性能が良く艦船向けの高級燃料に用いられた[3]。

滝川の本社工場の他留萌町には1939年に研究所を着工し1940年10月9日に竣工、1941年1月から本格的研究を開始し多くの一線級の化学者を配置させ最盛期には289名が勤務し[4]、また天塩炭田の石炭を原料とした工場建設を計画し起工に至るも軟弱地盤や物資不足から建設が遅れ完成に至ることなく廃業となり、合わせて計画されていた釧路への工場建設案も未着工に終わった[3]。

従業員の待遇には手厚いものがあった。学校を卒業したばかりの10代の養成工に対して、午前中はドイツ人教師による石油化学の教育を施し、午後には仕事に従事させることも行われていた(1944年(昭和19年)まで)[5]。一酸化炭素中毒や爆発事故を防ぐため安全対策は厳重で、従業員は煙草やマッチを持ち込まないよう検査を受けていた[1]。

太平洋戦争下では、触媒に使うコバルトの入手が困難で、1944年(昭和18年)8月から鉄系触媒に切り替えたが、他の資材不足もあって最後まで大量生産はできなかった[1]。1944年10月には軍需省の方針で人造石油会社を低温乾留法・ガス合成法各1社ずつの統合として三池石油合成・尼崎人造石油と合併し日本人造石油株式会社の一部となる[6]。年間23万 klの生産目標[1]に対して、7,000 klの生産に留まり、石油不足の解消に貢献しないまま終戦を迎え[7]、10月には石油合成を停止した[1]。その後1946年(昭和21年)9月に日本人造石油から分社化する形で滝川化学工業株式会社を資本金1億円で設立[8]、コークスの製造やコークス炉のガスを砂川の東洋高圧へ12.6kmのガス管を敷設し販売[8]、コークス炉のガスを活用して硫酸アンモニウムやアンモニアの製造に取り組み、民需への転換を図った[3] 。また高級アルコールや化成炭の製造を試行するも成功せず[8]、最終的には設備が膨大で採算には程遠く、1952年(昭和27年)6月に経営破綻[1]に至った。

251とはずがたり:2022/03/18(金) 20:56:08

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%B0%BC%E5%B4%8E%E4%BA%BA%E9%80%A0%E7%9F%B3%E6%B2%B9
日本石油関西製油所
にほんせきゆかんさいせいゆしょ
(尼崎人造石油より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

二大消費市場の一つ大阪地域の需要への対応と「国防上、災害対策上の要請」から、大庄村西新田地先の3万坪の敷地を選定、1937年(昭和12)5月操業を開始した石油精製施設。日量650klの処理能力をもつ常圧蒸留装置、300klの分解蒸留装置などを備えた燃料油専門工場で、横浜・鶴見(神奈川県)、下松(山口県)と並ぶ日本石油の太平洋側製油所の一つであった。1945年6月15日・7月19日・8月9日の3回の空襲により被災、設備の8割が壊滅状態となったため、1948年廃止が決定。翌1949年2月、関西製油所はその12年間の幕を閉じた。

また日本石油は隣接する敷地に1939年、尼崎製鉄・帝国燃料興業との三社合弁(資本金3,000万円)で尼崎人造石油(株)を設立。これは製鉄所のコークス炉ガスを利用して人造石油を生産しようとする工場で、計画年産量4万〜10万klという日本では最大規模のものであった。1943年やっと試運転にこぎつけたものの、原料ガスの不足など悪条件が重なり、わずか100klの原料油を生産しただけで1944年8月には運転を中止、同年10月北海道人造石油・三池人造石油との合併により新設された日本人造石油(株)の尼崎工場となったが、1945年7月・8月の空襲によって工場は壊滅した。

https://jp.mitsuichemicals.com/jp/corporate/group/1933_1945.htm
石炭化学コンビナートの成立
1933年?1945年

インジゴの成功は、三井鉱山内部の化学事業への評価を一変させ、合成染料事業の拡充のみならず合成アンモニア・化学肥料事業を拡大させた。
この頃硫安の需要が大幅に伸びていたことから、1933(昭和8)年に、国の産業奨励を受けて「東洋高圧工業」を設立した。
東洋高圧工業は、硫安増産のために原料を効率の良いコークスそのものに転換し、大規模なアンモニアプラントを三池染料工業所のコークス炉に隣接して建設した。
またアンモニアと反応させる硫酸を横須の三池製煉所(現在の三井金属グループ)より調達していたことから、硫安プラントは同所に隣接して建設した。

こうして大正から昭和初期にかけて三井鉱山の三池地区*に多くの工場が建設されていった。
その中核であり三井鉱山の一部門であった三池染料工業所は、1941(昭和16)年に「三井化学工業」として独立した。
その従業員数は、1926(昭和元)年の約千人から1940(昭和15)年には約1万人に膨れ上がっており、朝夕の通勤時は西鉄の栄町駅から北門、正門まで人が数珠つなぎになった。
1943(昭和18)年に設立した石油化学の礎ともなる「三池石油合成(後の三池合成工業)」も含め、三池地区における「石炭化学コンビナート」(下図参照)は昭和10年代にその姿が完成の域に達した。

しかし石炭化学コンビナートが隆盛を極めた矢先に、日本は太平洋戦争に突入した。
大牟田工場は軍需の色を深め、染料・医薬品も軍需品が主力となり、「三池石油合成」では航空機用燃料(人造石油)の製造を行った。

252とはずがたり:2022/03/18(金) 20:56:28
>>250-252
日本は急増する全石油消費量を賄う程(250万kl(<250万トン・恐らく))ではないもののそれなりの規模の人造石油の国内生産を目指していて,その計画の4倍以上の生産実績が(化学先進国の)ドイツではあり,日本の科学技術の後進性は勿論あったにせよ荒唐無稽な計画という訳でもなかった様である。何より日本は石炭が豊富にあったしな。

軌道に乗れば石油禁輸で追い詰められて開戦させられることは無かっただろうに。

https://chemeng.web.fc2.com/process/coliq.html
1937年に人造石油製造事業法が制定され,国家資金提供のための帝国燃料興業が設立された。あわせて人造石油振興7カ年計画がつくられ,満州を含む全国で160万トン/年の人造石油製造が計画された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%A5%E6%B3%95
ドイツは1944年には25の工場から1日当たり12万4000バレル、年間650万トンに達する量を作り出した[3]。

https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/history2taisho.html
大正10年(1921年)には、輸入原油の精製事業が日本で本格的に始まりました。
グラフによると1938年の日本の原油輸入量は250万kl程。


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