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石炭・亜炭・炭砿スレ
251
:
とはずがたり
:2022/03/18(金) 20:56:08
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%B0%BC%E5%B4%8E%E4%BA%BA%E9%80%A0%E7%9F%B3%E6%B2%B9
日本石油関西製油所
にほんせきゆかんさいせいゆしょ
(尼崎人造石油より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
二大消費市場の一つ大阪地域の需要への対応と「国防上、災害対策上の要請」から、大庄村西新田地先の3万坪の敷地を選定、1937年(昭和12)5月操業を開始した石油精製施設。日量650klの処理能力をもつ常圧蒸留装置、300klの分解蒸留装置などを備えた燃料油専門工場で、横浜・鶴見(神奈川県)、下松(山口県)と並ぶ日本石油の太平洋側製油所の一つであった。1945年6月15日・7月19日・8月9日の3回の空襲により被災、設備の8割が壊滅状態となったため、1948年廃止が決定。翌1949年2月、関西製油所はその12年間の幕を閉じた。
また日本石油は隣接する敷地に1939年、尼崎製鉄・帝国燃料興業との三社合弁(資本金3,000万円)で尼崎人造石油(株)を設立。これは製鉄所のコークス炉ガスを利用して人造石油を生産しようとする工場で、計画年産量4万〜10万klという日本では最大規模のものであった。1943年やっと試運転にこぎつけたものの、原料ガスの不足など悪条件が重なり、わずか100klの原料油を生産しただけで1944年8月には運転を中止、同年10月北海道人造石油・三池人造石油との合併により新設された日本人造石油(株)の尼崎工場となったが、1945年7月・8月の空襲によって工場は壊滅した。
https://jp.mitsuichemicals.com/jp/corporate/group/1933_1945.htm
石炭化学コンビナートの成立
1933年?1945年
インジゴの成功は、三井鉱山内部の化学事業への評価を一変させ、合成染料事業の拡充のみならず合成アンモニア・化学肥料事業を拡大させた。
この頃硫安の需要が大幅に伸びていたことから、1933(昭和8)年に、国の産業奨励を受けて「東洋高圧工業」を設立した。
東洋高圧工業は、硫安増産のために原料を効率の良いコークスそのものに転換し、大規模なアンモニアプラントを三池染料工業所のコークス炉に隣接して建設した。
またアンモニアと反応させる硫酸を横須の三池製煉所(現在の三井金属グループ)より調達していたことから、硫安プラントは同所に隣接して建設した。
こうして大正から昭和初期にかけて三井鉱山の三池地区*に多くの工場が建設されていった。
その中核であり三井鉱山の一部門であった三池染料工業所は、1941(昭和16)年に「三井化学工業」として独立した。
その従業員数は、1926(昭和元)年の約千人から1940(昭和15)年には約1万人に膨れ上がっており、朝夕の通勤時は西鉄の栄町駅から北門、正門まで人が数珠つなぎになった。
1943(昭和18)年に設立した石油化学の礎ともなる「三池石油合成(後の三池合成工業)」も含め、三池地区における「石炭化学コンビナート」(下図参照)は昭和10年代にその姿が完成の域に達した。
しかし石炭化学コンビナートが隆盛を極めた矢先に、日本は太平洋戦争に突入した。
大牟田工場は軍需の色を深め、染料・医薬品も軍需品が主力となり、「三池石油合成」では航空機用燃料(人造石油)の製造を行った。
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