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石炭・亜炭・炭砿スレ
192
:
荷主研究者
:2020/06/21(日) 22:43:57
>豊ケ岡駅 …月形炭鉱の発展に伴い、60年に開業
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/413574?rct=n_hokkaido
2020年04/18 16:00 北海道新聞
札沼線 波乱の歴史 戦争で休止/炭鉱消え「秘境駅」に 廃止区間、地域支えた85年
樺戸連山をバックに、新十津川町の水田地帯を走る最終列車。もうこの光景を見ることはできない=17日(伊丹恒撮影)
月形町の秘境駅・豊ケ岡駅には、別れを惜しむ鉄道ファンが訪れた=17日(伊丹恒撮影)
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、5月7日の廃止を待たずに、今月17日で列車運行を終えたJR札沼線の北海道医療大学―新十津川間。47・6キロある区間は昭和初期に開通し、戦時中は休止に追い込まれたが、終戦後に復活した。農作物や石炭、新聞と多くの物資も運び、人々の暮らしや経済を支えてきた。廃止区間は札沼線がたどった波乱の歴史を伝えている。
春を迎え、空知管内新十津川町では農作業が始まっていた。終着駅がある新十津川駅までは田畑に沿うように鉄路が走る。沿線の水稲農家工藤盛雄さん(66)は17日、農作業の手を止め、最寄りの南下徳富(みなみしもとっぷ)駅へ最終列車を見送りに行った。「仕方ないけど寂しいね」。こみ上げる思いをこぼした。高校3年間は通学に使い、町内会で列車を貸し切り、留萌管内増毛町まで海水浴に出かけたこともあった。「思い出がたくさん詰まってる」と目を細めた。
札沼線は1935年(昭和10年)、桑園(札幌)―石狩沼田(空知管内沼田町)を結んで全線開通した。コメ生産が盛んな空知管内の沿線自治体にとって、物資を大量輸送できる鉄道敷設は悲願だった。新十津川町の町史は当時の様子を「交通の利便はもちろん、農作物その他の物資の参集、輸送に果たした役割はまことに大きかった」と記している。だが、戦争による資材不足で軍にレールを接収され、43年に石狩沼田―石狩当別(石狩管内当別町)が営業休止に。終戦後の46年から順次、再開した。
沿線でとりわけ鉄道ファンの人気を集めたのが、空知管内月形町の豊ケ岡駅だ。木々に挟まれ、車1台通るのがやっとの砂利道の先にある。小さな待合室とホーム1本のみの景観は「秘境駅」とも呼ばれる。
駅は北西約5キロの山中にある月形炭鉱の発展に伴い、60年に開業した。炭鉱は47年に本格稼働し、54年にはスキーのリフトのように石炭を運ぶ索道の運転が始まった。石炭を鉱口から駅周辺の貯炭場まで運び、札沼線の貨車に載せた。
豊ケ岡駅近くに住む上葛(かみくず)国夫さん(94)は「今だから言えるが、駅ができる前は、石炭を積むため停車する列車に勝手に乗り降りしたもんだ。停車駅の月形駅までは遠かったから」と振り返る。月形炭鉱は炭質の低下や石炭需要の減少などで63年に閉山。今では周辺に暮らす人も少なく、駅だけがぽつんと残る。
札沼線はその後、沿線地域の人口減や自動車の普及で利用が減り、72年に石狩沼田―新十津川間が廃止。鉄路が新十津川駅で途切れたため、76年には約3キロ先にあるJR函館線の滝川駅への延伸などを求める期成会が発足したが、要望は届かなかった。
一方、札幌から当別までの沿線には大学が複数建ち、札沼線の愛称は91年、「学園都市線」に。山々が連なり、水田が広がる空知管内の景色とはイメージが異なり、廃止区間の住民の多くは、この名を使わない。
札沼線が全線開通した2年前に生まれ、空知管内浦臼町で書店を営む岸泰夫さん(86)は「昔は札沼線が新聞や本などの商品を全て届けてくれた。駅から町に文化がもたらされた」と懐かしみ、自らの人生と鉄路の歩みに思いを重ねた。(坂口光悦、勝間田翔)
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