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椿姫彩菜とセメンヤで考える、性について

888チバQ:2018/05/09(水) 23:10:04
過酷な差別ー「同性愛発見機」の悪夢
カナダでは2005年から、連邦レベルで同性婚が認められている。隣国アメリカ連邦政府より10年早く、世界で4番目の決断だった。

結婚の形態も、いわゆる法的な関係を結んだ結婚と、事実婚が同じ効力を持つ。税務や移民などさまざまな公的局面で、「配偶者」の範囲には法的な結婚相手だけでなく、事実婚のパートナーも含まれる。

自国で同性婚が認められない国のカップルが、世界的に見て進んだ制度を持つカナダで結婚することも珍しくない。

しかし、この国にはかつて、LGBTQ2に対する組織的で過酷な差別があった。

もともと古来のキリスト教的価値観が強かったカナダの刑法では、同性愛は犯罪とされていた。さらに、東西冷戦の深まった1950年代には、政府がLGBTQ2の公務員や軍の将兵を「国家の安全保障に対する脅威」とみなすようになった。

当時の政府高官らは、LGBTQ2であることを「弱み」と捉えたうえで、仮にLGBTQ2の公務員がソ連など敵国の工作員に性的指向を知られて脅されれば、国家機密を漏らしかねないとまで考えたのだ。

省庁や警察、軍などの公職にあるLGBTQ2を見つけ出して排除するため、警察が諜報網をつくりあげただけでなく、心理学者が開発した「フルーツマシン」と呼ばれる「同性愛者発見機」まで導入した。

男性の裸の写真などを見せて瞳孔や発汗の反応をチェックし、同性愛であるかどうかを判断するという触れ込みの、デストピア小説顔負けの機械だ。

この機械には批判が集まるようになり、1970年代には使われなくなった。今では「疑似科学の一種」とまで言われる。カナダの闇の歴史の一つだ。

トルドー首相は謝罪演説で「連邦政府は、フルーツマシンという馬鹿馬鹿しい機械づくりにまで、資金を出してしまった」と、自嘲気味にこの機械について触れた。

共生への動き
機械が姿を消しても、連邦政府からのLGBTQ2の排除は続いた。そうとみなされれば閑職に回されるか、解雇された。その中には、高位の外交官や軍の将校まで含まれていた。軍への入隊もできなかった。こうして1990年代までに数千人単位の人々がキャリアを絶たれた。金融機関などでも排斥が行われた。

トルドー首相の言葉はまず、こうした差別により公職から追われたLGBTの人々への謝罪であり、そして社会全体の差別への謝罪と、今後に向けた宣言でもあった。公職を追われた被害者らは大規模な訴訟を起こしており、政府は賠償金として1億4500万ドルを用意した。

LGBTQ2の権利を巡る議論が活発化する大きなきっかけの一つは、1967年のカナダ最高裁判所の判決だった。同性愛者として逮捕され、下級審で「危険な性犯罪者」として懲役24年の実刑を言い渡されたゲイの男性に対する判決を、最高裁が支持し、確定させたのだ。

これに対し、「人権の侵害」という強い反発の声が上がった。政府は法規制の見直しに着手し、成人の同性愛は1969年、刑罰の対象から外された。当時の首相は、ジャスティン・トルドー現首相の父、ピエール・トルドー氏だった。

さらにケベック州が1977年、北米で初めて、性的指向を理由とする差別を州法で禁じた。フランス語を公用語とするケベック州は、フランス系住民の地位向上活動が活発で欧州的な社会民主主義の影響が強く、リベラルな政治姿勢を維持してきた。

1988年には同性愛者であることを公にする初の国会議員が登場。1992年にはカナダ軍が性的指向を入隊や昇進の制約としない方針を発表した。

あのトルドー首相が涙を流してLGBTに謝ったわけ
1970年10月、テレビで戒厳令(戦時措置法)の布告を宣言するピエール・トルドー首相
共生の背景に英仏両系の軋轢
トルドー父子がリベラルな姿勢をとるのも、自ら育った環境が影響している。

トルドー家は、ケベック州のフレンチ・カナディアンの家系だ。フランス語を母語とするフレンチ・カナディアンは、ケベック州では大多数を占める。だが、カナダ全体では人口の2割程度の少数派だ。

ケベックは人口、面積、経済規模いずれもカナダ2位で、大きな地位を占める州だ。英国人よりも先にフランス人が入植し、フランス語とフランス系文化を維持してきた歴史があり、英語が話せない住民は珍しくない。

このため、フランス系の地位向上運動が続いたほか、カナダ連邦からのケベック独立を求める勢力と、連邦残留派の対立が続き、1960年代から独立過激派「ケベック解放戦線(FLQ)」の爆弾テロが相次ぐようになった。1970年にはFLQの動きが激しくなり要人の連続誘拐テロが発生。FLQを支持するデモが行われ、動揺が広がった。

連邦残留派だったピエール・トルドー首相は故郷ケベックに戒厳令を布告して軍を投入し、鎮圧した。翌年には、カナダを「英仏二言語に基づく多文化主義の国である」とする声明を出し、ケベック州民の要望も取り入れながら、事態の沈静化に努めた。


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