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椿姫彩菜とセメンヤで考える、性について
1012
:
名無しさん
:2020/02/19(水) 21:44:52
矛盾してきた「多様性」の主張
現代社会のリベラリストたちは「多様性」「寛容」「包摂」を掲げているが、実際の女性が性的な格好をさせられているわけでもないようなイラスト一枚に対して、断固として許さないかのような態度は、それらのスローガンからは程遠いものだろう。
実際のところ、リベラリストたちが現代社会で目指しているのは「だれもが自由にふるまうこと」ではなくて、まさに、「お前たちがこの社会に存在してよいのかどうかを決められるのはこっちだぞ」という「社会の規範を決定する権利の獲得」に他ならない。
リベラリストが掲げる「多様性」「寛容」「包摂」についても、そのことを踏まえればけっして矛盾しない。すなわち――「私たちの設定する規範に従うかぎりにおいて、多様性は尊重されて社会に寛容に迎え入れられるが、規範に沿わないものや従わないものは包摂されない」と。
「社会の規範」を、多数派の良識に基づいて振りかざし、少数者の表現や行動を抑圧してきたのは、元来としては保守的な人びとのふるまいだった。実際のところ、このやり方はきわめて強力であり、人びとの良識に基づいた共感を前にしては「不道徳」「不見識」とされたものが社会で居場所を獲得することは極めて困難だった。もっとも、そのためにリベラリストたちは「人権」を擁護してこの重要性を説き、どのような人であっても自由にふるまえる権利を主張してきたのだ。
「世間の良識」を理由に嫌いなものを排除
人びとの「素直な人情」にしたがってしまえば、けっして擁護されず、存在も認められないようなものにこそ人権があったことをリベラリストたちは熟知していた。だが、規範主義的な抑圧と対峙しているうちに、リベラリストたちも無自覚のうちに規範主義的な方法論を採用するようになってしまったのかもしれない。
自分の考えや立場に相容れないものを、「社会的に望ましくない」などと「世間の良識」に置換して排除を正当化しようとするのは、「規範を決める権利」を簒奪した者たちのふるまいにほかならない。もはや現代社会のリベラリズムは「自由と人権の擁護者」ではなく、「リベラルな規範の伝道者」――いうなれば「ネオ・パターナリズム」とでも形容すべき代物となっている。
自らの行いで「反リベラル」を生み出すエリートたち
いま、世界のいたるところで「リベラル」が政治的な逆風に苦しんでいる理由を考えるとき、この現象は大きなヒントとなる。自分の都合に悪いタイプの自由を目にすると「それをやめよう」と、道徳保守的なふるまいを隠そうともしない。「自分たちこそが『リベラル』の有効範囲を決定できる」と、自身の優越性を信じてやまない。
だが当の市民側には違和感が募る。自由や人権の重要性をつね日ごろから喧伝していたはずの人が、自分の嫌いなタイプの自由にはまったくその原則を覆すような言動をみせるのだから無理もない。「リベラル」なエリートたちに「自分たちの自由や権利を擁護してもらえなかった層」は、反リベラルになる。自分たちの権利を「後回し」にされた白人たち(必ずしも白人貧困層とはかぎらない)が、「白人のアイデンティティ(自由や権利)を守る」という文脈によって、トランプの支持者に合流するのもこの流れによって説明される。
ある献血ポスターを見て「これはセクハラだ。女性の人権を侵害している」などと言ったとしても、「これも原則的にはリベラルが守れと主張する自由の範疇に含まれるのでは?」と応じられてしまう。こうなると「リベラル」なエリートたちはしばしば逆上する。そのような「反転可能性」による意趣返しを想定していないからだ。「お前は自由や人権のなんたるかもわかっていない。勉強不足だ。これは自由や人権にはあたらない。なぜなら〜だからだ!」と、さまざまな理由を並べ立てる。
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