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貧困スレ

69チバQ:2009/12/31(木) 15:49:23
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/340788/
40年間続く「派遣村」 日雇い労働の街、大阪・あいりん地区はいま…
配信元:
2009/12/28 23:44
 日雇い労働者の街、大阪市西成区のあいりん地区が、リーマンショックに揺れた昨年にも増して、厳しい不況風にさらされている。日雇い求人数は昨年から約4割も落ち込み、バブル崩壊後最低に。ピーク時は3万人以上とされた現役労働者人口も1万人程度にまで減少し、代わりに生活保護者が急増している。28日には40回目の節目を迎える師走恒例の「釜ケ崎越冬闘争」が始まったが、労働者からは「こんなひどい年は初めて」と悲鳴のような声が上がった。

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記事本文の続き ●「派遣労働者も野宿」

 あいりん地区内にある三角公園。午後6時に始まった「越冬突入集会」には100人以上が参加。ステージ上から「今の世の中は派遣労働者も野宿せざるをえない状態になっている。こんな世の中はおかしい」といった声があがると、一斉に拍手がわき起こった。

 数カ月前から日雇い労働をしているという男性(52)はたき火で暖をとりながら「仕事はあっても5日に1度。金もないし、行くところもないのでここに来た」とあきらめ顔。

 あいりん地区で20年以上、生活しているという別の男性(58)は「これほどの不況は今までなかったが、それでも何年かに1度は不況がやって来る。そのときに真っ先に切られるのはいつもわれわれだが、落ち込んでばかりいられない」と開き直るしかない様子だった。

 ●40年間も“派遣村”

 越冬闘争の実行委などによると、取り組みが始まったのは昭和45年末、地区はこの年に開かれた大阪万博後の不況下にあった。各地の工事現場から帰ってきた労働者には、金を持たず野宿する人も多かった。

 路上で凍死するケースが相次ぎ「生きて春を迎えよう」がスローガンに。寒さや飢えをしのぐため、ボランティアが公園での炊き出しや寝場所の確保、医療相談をしてきた。

 昭和60年ごろからは地区内だけでなく、市内の繁華街で野宿している人たちを見回る活動も始まった。

 実行委の委員長でNPO法人釜ケ崎支援機構理事長の山田實さん(58)は「当初は路上死が日常茶飯事だった。昨年は年越し派遣村が話題になったが、ここはずっとあんな状態。路上死がなくならない限り、この活動はやめるわけにはいかない」と話した。

 ●街の様相変わる

 近年、あいりん地区での日雇い求人数は激減し、建設現場に労働者を送り出す「寄せ場」の役割も変わりつつある。

 西成労働福祉センターによると、今年4〜11月の日雇い求人数は約21万5500人。バブル崩壊後最低となった前年の同時期に比べ38%も減った。センターの星野智紹介課長は「昨年以下になるとは予想していなかった。求人が増える見込みがなく未来が感じられない」と危機感を募らせる。

 それとともに、転職が難しい高齢の労働者が生活保護を受給するケースが急増。地区の労働者の生活を支援する市立更生相談所は今年度、11月末までに3千人以上の労働者らに生活保護の支給決定を出した。

 労働者の支援に取り組んできた釜ケ崎反失業連絡会共同代表のカトリック神父、本田哲郎さん(67)は「好景気のときは建設現場を支え、不景気には仕事を失う。この寄せ場機能がなければ日本経済は成り立たなかった。人は仕事を通じた社会参加の実感が必要で、生活保護は本当の幸せにはつながらない。競争社会で取り残された人をどうするのかが行政の課題と思う」と語った。


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