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立法府・国会スレ
1195
:
名無しさん
:2021/01/11(月) 23:22:27
>>1194
■国対委員長が初めて出てきたのは1948年
少し歴史的な話をします。国立国会図書館の調べによれば、日本の議会史上、初めて「国会対策委員長」なる役職が登場したのは、1948年の第2回国会会期中とされています。
当時の政権は社会党首班の片山哲内閣で、社会党中央執行委員会に国会対策委員会が創設され、正木清議員が国対委員長に就任しています。1月28日の「読売新聞」に報じられています。
保守政党である自由党系の政党に、国会対策委員会と考えられる組織が登場するのは、1948年10月ごろ(民主自由党)とされています。ただし、設置に反対も多く、当初は党則に明記されない事実上の存在であったようです。
もう一方の保守政党である改進党系の政党では、民主党が連立派と野党派に分裂したあと、それぞれに国会対策委員会が置かれたようです。民主党野党派の後継政党である国民民主党及び改進党は、国会対策委員会を党則に明記しました。とにかく、歴史は古いのです。
では、国対委員長はどんな役割を果たすのか。その業務と資格について、2007年10月23日の「日経新聞」に次のように解説されています。
●業務―国会運営が円滑に運ぶように、法案を提出してから成立させるまでの議事日程などを決める。
●資格―特になし。政界の駆け引き、交渉術にたけたベテラン議員が就くことが多い。
「幹事長」は党全体の責任者、政策は「政務調査会長」、国会運営は「国対委員長」が責任を持つというのがスタンダードな政党の役割分担です。
自民党では、田中角栄、金丸信、竹下登、梶山静六……。社会党では、田辺誠、村山富市、山口鶴男……。国対は、総理大臣や党幹部への登竜門ともいわれてきました。
かつては、自民党と社会党との金丸・田辺ライン、梶山・村山ラインというように、国対委員長の属人的なパイプで政治を動かしていた時代もありました。
対立していた自民党と社会党が連立政権を組んで村山政権が誕生したときは「信じられない」と驚かれましたが、村山さんは「国対族」で、自民党とも人脈があったことが大きく作用したともいわれています。
■「たたかいの政治」へと移行する
ある自民党の国対委員長経験者が、国対委員長の条件を以下のように挙げています(『エピソードで綴る国会の100年』前田英昭、原書房)。
①国会法や先例、先例集について知識を持っていること
②衆参両院を展望する目を持っていること
③各政党の人脈関係を把握しておくこと
④どのような予算案、法案、条約が提出されるか把握しておくこと
⑤法案に軽重の順位を定め、優先すべき重要法案を見極めること
⑥各委員会の人事構成、とくに委員長と理事の配置に気を配ること
⑦各党の勢力分布を常に念頭においておくこと
⑧約束したことは守るため党内の調整をはかること
社会党の国対委員長経験者もこう語っています(同前)。
①政党間の信義を守ること
②妥協すべき案件と妥協すべきでない案件を常に区別すること
③公人と私人の区別を明らかにすること
④ペテンやハメ手は常用しないこと
⑤党内の取りまとめに努力すること
私は就任直後、この与野党の国対委員長の心得に目を通しながら、全身緊張でクラクラしていました。国対では、「話し合い」「根回し」と称して裏で手を握り、すべてシナリオはできている。与党から野党への宴会接待攻勢、わざと与党が負ける賭け麻雀、洋服お仕立券を渡すなど、もう絶滅したと思われる典型的な「オトコの政治」がある……。そんな話も先輩議員から聞かされたことがあったのです。
しかし、これらの話は、自民党は万年与党、社会党は万年野党という役割が固定していたときの話のようです。1993年の細川護熙非自民連立政権の誕生で「国対政治」は幕を下ろしたといわれています。選挙制度が小選挙区制に移行し、野党が政権を取る可能性が出てきたため、馴れ合い政治ではなく、政権交代を賭けた、たたかいの政治へと時代とともに変わっていったのです。
辻元 清美 :政治家
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