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旅客船・高速船・フェリー等のスレ
27
:
千葉9区
:2009/04/06(月) 22:17:41
http://mainichi.jp/area/ehime/news/20090331ddlk38040653000c.html
しまなみに生きる:海道開通10周年/1 航路廃止や減便 /愛媛
本州と四国を結ぶ架橋の一つ、「しまなみ海道」(正式名=西瀬戸自動車道、約60キロ)が5月1日、開通10周年を迎える。島しょ部と陸地部をつなぐ“夢の架け橋”は沿線の暮らしや経済に大きな影響を与えた。「しまなみに生きる」人たちの思いから海道の10年を振り返る。【土本匡孝】
◇“海”に未練「でも便利に」−−元船長の藤本秀之さん(57)
99年の開通を機に、競合する多くの航路が廃止、減便された。離職した船員らの再就職先の一つが広島、愛媛両県の船会社が出資する「瀬戸内しまなみリーディング」(今治市東鳥生町5、旧社名=しまなみバス開発)だった。
同社は本州四国連絡高速道路(神戸市)から一部料金所の業務委託を受けており、来島海峡大橋の陸地部側にある「今治北料金所」(同市高部)の事務長、藤本秀之さん(57)=同市南日吉町2=は元船長。陸に上がり、5月で10周年を迎える。
「夜中でも陸地部に渡れて便利になった。しまなみ海道への評価はずっと変わらない」と淡々と話す藤本さんだが、その人生は時代に翻弄(ほんろう)されてきた。
藤本さんは石炭産業で栄えた福岡県鞍手町出身。両親は炭鉱関係の仕事をしていたが、エネルギー需要の変化もあり、小学校高学年ごろに炭鉱が閉山したという。「母は『申し訳ない』と言っていた」と藤本さん。高校進学をあきらめ、集団就職列車で因島市(現在の尾道市)の船会社を目指した。
75年ごろ、今治港と尾道港を結ぶ別の船会社に転職。79年の大三島橋(大三島−伯方島間)を皮切りに、ほぼすべての架橋の完成を船上から見てきたという。「最後の橋が完成してきたころから徐々に『次の人生』への覚悟ができてきた。時代の流れ、仕方ない」
開通の1年半ほど前から再就職先を探したが船の仕事に求人がなく、開通半年ほど前に今の仕事を選んだ。仕事が決まると、船長職の傍ら休日には国道に車を走らせ、車種を瞬時に見分ける練習を重ねた。料金所での仕事に役立てるためだった。99年5月上旬、初めて料金収受に立った日は、「何かを考える暇が無いくらいすごい人が押し寄せた。大渋滞でよく怒られた気がする」と懐かしげに振り返る。
「お客さんの笑顔が一番」と頑張ってきた藤本さん。最近は自動料金収受システム(ETC)の普及で、お客さんと話す機会が減って少し寂しく感じている。料金所で働き始めた後も船の仕事に未練があったが、1年ほど前にあった船長の仕事の誘いは断った。「今更、命を預かる仕事をする気力がない」と。
病気がちだった父は55歳で肝硬変で亡くなった。しまなみ海道開通10周年を迎え、父の年齢を超えても元気に働く自分がいる。「よく体がもったなと思う」と感慨深げ。「お客さんが増えたら働きがいもあるし、お話しする機会があれば大切にしたい。島の景観は素晴らしいので、楽しい旅行をしに来てほしい」と語った。
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