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宗教
456
:
名無しさん
:2016/10/16(日) 23:19:25
>>455
日本の文化の底流の力
クリスマスは「子供の日」として、宗教的ではない行事として、日本に定着していく。
どこまでも、ひとつの風俗でしかない、ということである。クリスマスは、その周辺では騒ぐのだけれど、さほど重くとらえられた風俗ではないのだ。
たとえば、日本のクリスマスに関する学術的な研究、はほとんど存在しない。
お祭りというのは、明治以降、学術研究の対象となっていったが、クリスマスはそういう扱いを受けていない。明治以来受けておらず、いまだにそうである。
日本のクリスマスのあらゆる文献を片っ端しから見て行ったから、そのへんの状況はすごくわかる。何というか、言い方は悪いが「誰もまともに相手をしていない事象」なのである。
日本のクリスマスに関して、いつ始まったか、どれぐらい長くやっているか、どのように行われてきたのか、ほとんど誰も興味を持っていない。
つまり「明治時代からクリスマスのバカ騒ぎは始まっていた」と言うと、ほとんどの日本人が一瞬だけ驚く、ということを指している。驚くだけである。覚えない。何年か経ってその話をすると、みなまた、一瞬だけ驚く。忘れる。その繰り返しである。
どう考えてもこれは、何となく興味を持っていない、というレベルのものではない。
必死で興味を持たないようにしている、としか考えられない。絶対に興味を持たないように、みんなすごくがんばっているのだろう。すごくがんばっているのだから、とりあえず見守るしかない。それが、目に見えない日本の文化の底流の力である。
簡単に言ってしまえば、キリスト教はいつまでも舶来のものであり、外に存在するものであり、百年以上続いていようが、それは伝統的な存在としてはとらえない、ということである。明確な言葉にされていない。気分は共有している。とても強い文化的な力である。
その潜在する文化的な力によって、クリスマスの「救世主が地球上に顕れた日」という部分をまったく無視して〝無垢な子供の日〟として、のちに〝恋人たちの浮ついた日〟としてあつかわれていくことになる。
(続きはこちら→ gendai.ismedia.jp/articles/-/49957 )
堀井 憲一郎
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