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宗教

371とはずがたり:2015/11/08(日) 17:32:24
日蓮宗の寺院建立めぐりドイツで宗教紛争 反発から築いた地元との対話とは
http://news.livedoor.com/article/detail/10805428/
2015年11月8日 10時30分 Excite Bit コネタ

異質なものに対する反発。人間であれば大なり小なり持っている感情だ。それが「宗教」ということになれば、対話の扉は、なおさら有無を言わさず眼前で閉じられることが多い。ドイル西部ノルトラインベストファーレン州、森に抱かれた小都市ヴィッパーフュートに建つ日蓮宗の大聖恩寺は、その反発を乗り越えてきた寺だ。

ヴィッパーフュート市は人口2万1500人の歴史ある町である。教育に力を入れる土地柄であり、世界的企業もあるため近郊から通勤する人は多い。同所は昔からバチカンとの繋がりが深く、プロテスタントを信仰する人が多めのドイツにおいて、祖代々のカトリック教徒が1万3000人と全体の6割を超える。そして他にプロテスタント14.9%、トルコ人移民を中心としたイスラム教徒600人、無宗教21.9%と構成が続く。

このような保守的な同地において、2000年にやってきた日蓮宗は完全な異教であった。今では住民と寺との相互理解は進んだものの、寺の建立が計画された当初、賛否の議論は町全体を包み、完成後は放火事件も起きた。紆余曲折を経て今年15周年を迎えた大聖恩寺は、ここヴィッパーフュートにおいて、どのように地元との壁を取り去り、対話を図ってきたのだろうか。

田舎に異教徒が来るということ

大聖恩寺は日本人現地責任者・シュテフェンス祥馨法尼を中心に切り盛りされる寺だ。ドイツ人と結婚したシュテフェンス法尼は、夫を亡くした後、仏門の師匠にあたる竹内日祥上人と相談し、夫の別荘があり深い友人関係や人脈のあったヴィッパーフュートに、自身が帰依している日蓮宗の寺を竹内上人と共に建てて、諸宗教対話(宗教間の対話)を進めようと決めた。

最初、大聖恩寺をハンブルクやケルンといった、ドイツの大都市に建てる案もあったという。ハンブルク市長に相談した際に、ハンブルクに立ててほしいという依頼を受けたこともあった。しかし、規模は小さいが中世よりハンザ同盟に属し、歴史深く敬虔なカトリックの町ヴィッパーフュートに、より深い縁を感じて、ここに建立を決めた。

小さな町に海外の宗教寺院を建てるということは、当然ながら大きな反発を生んだ。

シュテフェンス法尼によれば、ドイツで公共建築物を建てる際は、まず構想のアウトラインを告知する必要があるそうだ。その計画が掲載された途端、住民から強い反対が起こった。初めて耳にした「Nichiren-shu(日蓮宗)」という言葉に、住民は良い印象を抱かなかったのだ。建立に際しては、当時のヴィッパーフュート市長からの推薦もあったが、そのことさえも住民は「市長や市議は賄賂をもらっているのだろう」と勘ぐり、対話しようにもまったくその余地はなかったという。

ヴィッパーフュートの住民にとって日蓮宗は未知の宗教である。若者の中には理解を示す人もいたが、年配者はまったく聞く耳を持たなかった。結局、長く続く反対に対し、市が仲介する形で地元カトリック教会、住民、新聞記者など、町全体で対話をしようということになった。市役所で4時間、竹内上人とシュテフェンス法尼は人々と議論を交わした。そしてついに反対の急先鋒だった地元カトリック司教が理解を示し、寺はようやく地元と対話の糸口をつかめることになったという。

雪解け、そして新しい苦難

2000年6月、大聖恩寺の開山法要に際し、地元カトリック司教が参列した。寺は町に受け入れられたかに思えた。しかし新たな苦難が大聖恩寺を襲う。開山から2年後、2002年に寺が放火の被害にあったのだ。1階本堂と2階にある会議室3室が全焼、本堂の仏具、什器など一切の設備が焼けた。


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