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人権・差別・同和問題
166
:
名無しさん
:2015/11/08(日) 10:47:14
>>165
エスキモーと暮らすなかで芽生えた民族への関心
つまり叛史とは、圧殺される少数民族の側から見た歴史のことだ。叛史を描くことで正史の欺瞞を暴き出そうというのである。そんな大胆な発想がどこから生まれたのか。彼は雑誌の対談で早大探検部時代の体験を挙げている。
〈アラスカのエスキモー部落に半年ばかり住んでいたことがあるんです。零下30度ぐらいの地で、エスキモーにものを教わらなければ生きていけないという体験から、いわゆる民族に対する関心が始まった。その後、各国を歩いた経験でいうと、普通の人間が入りづらいところでは、必ず何か紛争が起こってる〉
とくに、少数民族を踏みにじる大国への怒りが船戸さんを'60年代の学生運動に駆り立てたらしい。早大探検部の一期先輩にあたる作家の西木正明さんは〈ノンポリぞろいの探検部員の中で、船戸はただひとり、工事現場で拾ってきたとおぼしき黄色いヘルメットをかぶってデモに参加した〉と言う。
卒業後、女性週刊誌の編集部員に。だが、そこで労働組合を作って上層部と対立。1年で退職してフリーになり、漫画『ゴルゴ13』の原作執筆などで糊口をしのいだ。編集者の勧めで小説を書いたが売れず「永久初版作家」と呼ばれたという。
船戸さんが脚光を浴びるのは'84年、ブラジルを舞台にした『山猫の夏』(講談社文庫)が刊行されてからだ。その後の活躍ぶりは読者もご存じだろう。
注目すべきは、民族問題に関する船戸さんの認識の深化である。書評家の井家上隆幸さんによれば、船戸さんは新疆ウイグルを取材した後でこう語る。
〈近代史の流れは『民族→民族意識→民族主義』という順列で理解されてきた・・・・・・しかし、あらためて問いなおさなければならない。民族というものが先験的(ア・プリオリ)に存在するのか? と・・・・・・わたしには従来の認識法は逆だったのではないかと思えるのだ。『民族主義→民族意識→民族』すなわち、民族主義というスローガンが民族とは何かを勝手に規定してきた〉
民族は実体のない幻のようなものだというのである。鋭い指摘だ。例えば200年前、日本列島に薩摩人や長州人はいても日本民族(大和民族)という意識を持つ人がどれほどいただろう。日本民族は、尊王攘夷運動を契機に爆発的に広がった民族主義によって作られたものだ。
この問題意識が北海道のアイヌ蜂起を「幕末の統一国家日本が誕生する狼煙」と捉える『蝦夷地別件』('95年刊・新潮社)を生んだ。そこからさらに10年がかりの大作『満州国演義』の構想が芽生える。
船戸さんはその主題を「幕末・維新で飛び立った日本の民族主義が、紆余曲折しながら舞い上がって、最後は墜死していくという歴史を、価値観を抜きに眺めてみようということ」だと語っている。私の知る限りではこれほど深い洞察によって描かれた近現代の歴史小説はない。
この作品には、山口県下関市で生まれ育った船戸さんの人生の総決算という意味も込められている。なぜなら、かつて長州と呼ばれた山口県は、日本のナショナリズムの発祥地とも言うべき場所だからである。
*参考:『船戸与一と叛史のクロニクル』(小田光雄著・青弓社刊)、『オール讀物』6月号、毎日新聞5月7日夕刊、『ジャーロ』2015年春号、『波』2015年6月号
『週刊現代』2015年11月7日号より
魚住 昭
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