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仙台・宮城・陸奥
441
:
荷主研究者
:2009/10/31(土) 15:47:55
>>226
http://www.kahoku.co.jp/news/2009/10/20091024t15041.htm
2009年10月24日土曜日 河北新報
仙台駅前ネオン看板“消灯” 不況、ネット広告…次々退場
ネオン管を見つめる柿沼さん=仙台市太白区の東北電照
現在(上)と、1967年当時の仙台駅前。42年前は「ジャノメミシン」や「ソニー」「アサヒビール」など数多くのネオンサインが輝いていたが、現在は姿を消し、広告募集の看板もある
仙台の夜を彩るネオン広告が、ビルの屋上から次々と姿を消している。背景にあるのは、不況やネット広告の台頭だ。キラキラと光り輝く看板は、風前のともしびになったのだろうか―。(夕刊編集部・神田一道)
10月中旬の午後5時すぎ。JR仙台駅西口で、ネオン製造会社「東北電照」(太白区)の社長柿沼弘さん(71)と待ち合わせた。全国ネオン協会の東北支部長も務めた業界の生き字引だ。
開口一番、柿沼さんはつぶやいた。「ネオン管を発光させる昔ながらのネオン看板は、確かに最近少なくなった」
ビールや日本酒、家電製品、英会話学校、消費者金融―。駅前には数年前まで、十数社のネオン看板が立ち並んでいた。しかし、近年の広告不況でほとんどが撤去され、鉄骨だけが寒々しく残る。
しばらく歩くと、点滅を繰り返すネオンサインが見えてきた。酒造会社と菓子製造会社の照明看板だ。ネオンの健在ぶりに気持ちが温かくなったが、「寿命の問題で、一つのネオンは11月末で姿を消す」と教えられた。
柿沼さんと歩いた1時間。結局、確認できたネオン看板は三つだけだった。「光の強さは街の活力のバロメーター。厳しい経済状況を象徴するように、仙台の夜はめっきり暗くなった」
柿沼さんが業界の門をくぐった1953年、仙台駅前には電照式の看板はほとんどなかった。高度経済成長期に入り、駅周辺にビルが建設されると、各社は競うように一等地に電飾看板を取り付けるようになった。
柿沼さんは現場監督としてネオンの設置に追われた。厳しかったのは真冬の工事だ。寒風が吹きすさぶ高所で作業をしていると、つらくて涙がこぼれ落ちた。
「ネオンの設置は危険と隣り合わせ。それだけに、ネオン管に初めて光がともる瞬間は、いつも心がホッとした」
転機はバブル崩壊とともに訪れた。景気が冷え込み、新規の注文が集まらなくなった。ネット広告の台頭も追い打ちを掛けた。
「今はネットや携帯電話など『引きこもり型』の広告が中心。大勢の人に見てもらう個性的なネオンは重視されない時代になったのだろうか」と寂しそうに語った。
若林区にある「東京ネオン電気」。50年設立で、仙台市内で最も老舗のネオン設計会社にも、変革の波が押し寄せている。
会長の小高信昭さん(71)は言う。「不況やネット広告に加え、景観の観点から行政が新たなネオンの設置を規制する動きが広がっている。時代はネオンに逆風だ」
最近は内照式の看板の製作が専門。ネオン管を手作業で曲げる職人は既に会社を去り、作業場は倉庫になった。
「社名からネオンを外そう」。そんな話が持ち上がったこともあったが、小高さんは反対した。再び同社のネオン管に光がともる日が来ると信じたからだ。
「ネオンは街のシンボル。今は暗いが、人々の目を引きつけるネオンは、もう一度脚光を浴びるはずだ」
再び仙台駅前。別れ際、柿沼さんに聞いた。ネオン業界に未来はあるのか、と。
「時代の要請がなくなれば、ネオンは消えてなくなるだろう。でも、屋外広告はなくならない。われわれはネオン屋。『明るい』未来が来ると信じたい」
ネオンのように明るい笑顔で、きっぱり語った。
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