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仙台・宮城・陸奥

3103荷主研究者:2018/04/15(日) 10:22:09

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180326_13041.html
2018年03月26日月曜日 河北新報
<国分町Eyes>(1)回帰 古里の温かさこの街で

談笑しながら常連客に酒を注ぐ杉山さん(左端)。家族的な雰囲気が漂う

 東北最大の歓楽街・国分町(仙台市青葉区)では、いつの時代も人々の喜怒哀楽が渦巻き、無数の物語が紡がれる。東日本大震災の発生から7年。復興バブルやその後の衰退に翻弄(ほんろう)されながら、移ろう時と街の中で生きる人々の瞳には何が映っているのか。さまざまな立場の5人を通して、「ブンチョウ」のいまを垣間見る。(報道部・岩田裕貴)

 U字のカウンターとソファ一つのこぢんまりした店内に昭和歌謡が響き渡る。壁には大漁旗。国分町2丁目の「唄(うた)える酒場 三陸女川 海」のマスター杉山三喜雄(みきお)さん(60)が笑顔で客を迎える。

 初対面の客同士が世間話に花を咲かせ、歌をデュエットする。子連れの家族、女子会のOL、仕事を終えた飲食店関係者など客層は多彩。「海」は年配客を中心に憩いの場となっている。

<震災機に出店>
 杉山さんは宮城県女川町出身。高校卒業後、料理人を志して仙台市の調理師専門学校に進んだ。「一刻も早く現場経験を積みたい」と半年で中退し、国分町の飲食店で働き始めた。

 会話上手で華やかなホステス、素材を生かした旬の料理、きらめくネオン、そして人波-。18歳の目に映る街は生命力に満ちあふれていた。「ここに必ず店を出す」と夢見た。

 2011年1月、約13年間働いた国分町のレストランが閉店。今後を思案している時に震災が起きた。

 高台にあった実家は津波を免れたが、海近くの木材加工工場で働いていた兄=当時(60)=が犠牲となった。発生3日後、車で実家に赴いた。古里は跡形もなく消えていた。

 人生は短く、無常だ。「生きているうちに自分の店を出したい」。無理を押して震災の4カ月後、故郷の名を冠した店を国分町に開いた。今年で8年目。女川の被災者も足を運んでくれる。

<採算は二の次>
 震災後の国分町は、かつての姿とは様変わりしたと感じている。

 復興バブルで新規出店が相次ぎ、その後は縮小したパイを取り合う競争が激化した。客単価は下がり、接客や料理の質以上に客の回転率向上を優先する風潮が強まった。

 「客と店、客同士が交流できる店が減った」。杉山さんが寂しげにつぶやく。

 「海」ではグラスが空になる前に酒が注がれ、タイミング良く手作り料理が出てくる。カラオケは歌い放題。「それでいて安い」と客は満足げだ。

 採算は二の次の経営に「不安はいつもある」と杉山さん。「でも、もうけは少なくていい。ここに来ればみんな友達。家のような空間を大事にしたい」

 心はいつも、かつて夢見た街に舞い戻る。震災に背中を押されて出した店で、震災が人々にもたらした別離と孤独にあらがう。


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